5.ものすごく“真正直”な「スーパーマリオブラザーズ」の映画化だった。
子供から大人まで誰が観ても楽しめるだろうし、ゲーム世界を映画として具現化したそのクオリティそのものは極めて高く、隙がないと言える。
休日の昼下がり、小学3年生の息子と二人観るには、とてもちょうどいい映画だろう。
ただし、全くと言っていいほど“驚き”は無かった。
私自身、子供時代からプレイし続けてきて、先日も最新作「ワンダー」を子どもたちのために買ったばかりだが、詰まるところ、良い意味でも悪い意味でも、ゲーム世界そのままの映画であり、何かそれ以上の付加価値があるものではないと感じた。
勿論、マリオやピーチ姫、キノピオやクッパたちに登場キャラクターとしての人格は備わっているのだけれど、決してゲーム世界で想像した以上の「言動」を起こすわけではなかった。
稀代のアクションゲームの映画化において、特筆すべき“驚き”が無いということは、やはり致命的な欠落だと思う。
「スーパーマリオブラザーズ」というゲームの魅力は、そのアクション性の豊富さや、そのイマジネーション溢れるユニークな世界観もさることながら、何よりも主人公である「マリオ」や敵役である「クッパ」に対する愛着の深さにこそあると思う。
配管工のヒゲおやじが、カメが巨大化した化け物に繰り返し挑み続けるこのゲームが、世界中から愛されているのは、一重にそのキャラクターたちが魅力的だからだろう。
ではなぜキャラクターが魅力的なのだろうか?
どのシリーズ作においても、マリオがピーチ姫を助けに行くに当たっての具体的な経緯や、クッパがキノコ王国を支配しようとするに至ったバックグラウンドが詳しく説明されているわけではない。
マリオはいつだって、オープニングでさらわれたピーチ姫を取り戻すために問答無用に冒険をスタートさせる。
でも面白い。それは、プレイヤー一人ひとりが彼らのキャラクター性を「想像」するからだと思う。
プレイヤーは、「1-1」がスタートした時点で、マリオがどういう人間なのかということを無意識レベルで想像し、彼に憑依する。そしてゲームを進めていくにつれて、ピーチ姫やクッパのキャラクター性に対してもより一層想像を深めていく。
その想像の深まりと共に、プレイヤーはゲーム世界に没頭し、コースをクリアしていくことに快感を覚えていく。それが、「スーパーマリオブラザーズ」のゲームの魅力、そこに登場するキャラクターたちの魅力だと思う。
つまり何がいいたいかと言うと、この映画作品で描き出されたマリオをはじめとするキャラクターには、世界中のゲームプレイヤーたちが延々と繰り広げてきた「想像」を超えるものが存在しなかったということ。
言い換えれば、極めてベタで平均的な「想像」に終止したキャラクターが、ゲーム世界そのままの映画の中で活躍する様を見ているようだった。
それはすなわち、他人がプレイしている「スーパーマリオブラザーズ」を見ているようでもあり、楽しくはあるけれど、当然ながら自分自身でプレイしている時のような、驚きや快感を伴う面白さは無かった。
「スーパーマリオブラザーズ」の映画化においてもっと追求すべきだったのは、世界中のプレイヤーたちが想像し得なかったキャラクター像の「創造」、もしくは実際にゲームをプレイしているとき以上の「体験」だったのではないかと思う。