1.《ネタバレ》 “斜陽”という言葉を否定できない出版業界の内幕を生々しく描きながら、その小説そのものが「映画化」を前提とした“大泉洋アテ書き”という異例のアプローチで執筆・刊行された原作「騙し絵の牙」を読んだのは去年の秋だった。
劇中の出版業界と現実社会のメタ的要素も多分に絡めつつ重層的に物語られた原作は面白かったけれど、それよりももっと前に見ていた映画の予告編を思い返してみると、「あれ?こんな話なんだ」と小説のストーリー展開に対して一抹の違和感も覚えていた。
映画の予告編が醸し出していた斬新でトリッキーな雰囲気に対して、原作のストーリーテリングは、極めてミニマムな内幕ものに終始しており、語り口自体も想定していたよりもオーソドックス(悪く言えば前時代的)な印象を脱しなかった。
「真相」を描いたラストの顛末もどこか取ってつけたような回想録となっており、やや強引で雑な印象も受けた。
そうして、コロナ禍による半年以上の公開延期を経て、映画化作品をようやく鑑賞。
案の定、原作のストーリー展開に対しては、映像化に当たり大幅な“アレンジ”が加えられており、そこには全く別物と言っていいストーリーテリングが存在していた。
その“アレンジ”によって、前述のような原作のウィークポイントは大幅に解消されていて、映画単体としてシンプルに面白かった。
程よく面白かった原作小説を、より映画的にブラッシュアップし、見事に映画化しているな、と思った。
が、そこではたと気づく。果たして本当にそうなのだろうかと。
そもそもが、出版業界全体の低迷と、活字文化の凋落を念頭に置いて、「小説」と「映画」が同時に企画進行した作品なのだ。
であるならば、通常の「小説の映画化」という構図はそもそも成立しないのではないか。
この企画において、「小説」と「映画」は、まったく対の存在として最初からあり、相互に作用するように創作されたに違いない。
となれば、原作小説の存在そのものが、この“騙し”を謳った映画化作品の大いなる布石であり、小説を読み終えた時点で、“読者=鑑賞者(即ち私)”は、まんまとミスリードされてしまっていたのだと思える。
そしてそれは全く逆のプロセスだったとしても成立し、この映画を先に鑑賞した人は、映画作品によるミスリードを抱えて小説世界に踏み入ったことだろう。きっとそこにはまた別の“騙し”と“驚き”が生まれるはずだ。
その体験はまさに、小説と映画、メディアミックスによって創出された立体的な“騙し絵”そのものだ。
この映画のクライマックスにおいて、主人公の大泉洋が、豪腕経営者役の佐藤浩市に対して「遅すぎた」と非情に言い切るシーンが象徴的なように、“新しい斬新なアイデア”は、無情な時間の経過により瞬く間に、“古臭いアイデア”となってしまう。
常に新しい“面白いコト”を求められ続けるこの世界は、あまりにも世知辛く、厳しい。
そう、つまりは、原作小説で描かれた「結末」すら、この映画化の時点ではきっぱりと「古い」のだ。
そういうメディア業界全体の現実を端から想定して、このメディアミックス企画は練られ、小説家も、映画監督も、俳優も、編集者も、そこに身を置くすべての者達の、苦悩と虚無感を込めて生み出されているのだと感じた。
コロナ禍による大幅な公開延期、それと並行して半ば強制的に変わらざるを得なかった時代と価値観の変化、そういうものすら、このメディアミックスの目論見だったのではないかと、過度な想像をせずにはいられなくなる。
無情な時代の移ろいに苦悶しながらも、それでも彼らは追い求める。結局、今何が一番「面白い」かを。