5.この映画で描き出される物語は、終始主人公の“一人語り”で綴られる。
稀代の曲芸師の或る偉業を文字通り映し出した今作において、その手法自体は別段珍しくもなく、むしろありきたりなものだろうけれど、つくり手には明確な狙いがあったと思う。
端的に言ってしまえば、それは「孤独感」を浮かび上がらせることだ。
野心溢れる“ワイヤー・ウォーカー(綱渡師)”として、必然的に独り一本の綱の上に立ち続けた男の拭い去れない“孤独”が、彼自身による“語り”に表れていた。
主人公は、時に意気揚々と自身が果たした偉大なる挑戦の成功と、それにより得られた栄光を語っているように見えるけれど、彼が最終的に得たものは、一本の綱の上に“残された者”の物悲しさのように感じられた。
当時世界一の高さを誇ったワールド・トレード・センターの2棟のビルの間で綱渡りをした男の話。
はじめ、それはあまりにシンプル過ぎる話のように思えた。
この映画の監督が巨匠ロバート・ゼメキスだと知った時は、少々ミスマッチのようにも感じた。
ただ、結果としては、この映画には巨匠が挑むに相応しいテーマ性が備わっていたと思う。
むしろ、ハリウッドが誇る巨匠を持ってしても、難しさが残った仕上がりに思えた。決して完成度の高い映画だと言い切ることはできず、作品として物足りなさは残る。
もしこの映画を破天荒な主人公による破天荒な挑戦を描いた活劇として、馬鹿正直に撮っていたならば、もっと単純に愉快痛快な映画に仕上がっていたことだろう。
ある種のケイパー物として娯楽性豊かに描き出すことは、ロバート・ゼメキスほどの手練であれば至極容易だったはずだ。
しかし、巨匠の意図は端から違っていたと思う。
主人公を慕って集まった“共犯者”たちとの関係性を敢えて深く描きすぎず、“チーム感”を抑えることで、映画としての高揚感を意図的に封じ込めているように見える。
そうすることで先に記した通り、主人公の孤独感や、己の野心に対しての狂気が際立って見えてくる。
ただそれ故に、いささかバランスの悪いまさに“綱渡り”のような作品に仕上がってしまっていることも否めない。
そして、この映画を単純明快な娯楽映画に仕上げることが許されなかった最たる理由は、言うまでもなく、この物語の「舞台」となった場所が辿った運命に他ならない。
かの場所での偉業を讃えられた主人公は、「永遠」の有効期限を持ったパスを手に入れる。しかし、それを使うための美しく素晴らしい場所そのものが、ある日突然に、無くなってしまった。
あの「9月11日」、稀代の綱渡師が受けた失望と絶望はいかばかりだったろうか。
自ら語り部として登場する主人公が、自身の挑戦についての発端と顛末をとうとうと語り尽くした場所は、ワールド・トレード・センターを背景にした“自由の女神像”のトーチの上である。
彼の心中には、フランスから渡り、己の勇気と野望と“自由”を表現した愛おしい場所すらも消し去ってしまった愚かな暴力に対する怒りと悲しみが満ち溢れいてることにはたと気づく。