2.「長回し」といえば計算に計算を重ねたものというイメージがある。ウェルズの『黒い罠』の完璧なオープニングの長回し然り、溝口の『元禄忠臣蔵』等に見られる画面に入りきらない被写体を次から次へと映し出してゆく長回し然り、あるいは全く動かない画をひたすら映し続けることで緊張感なり余韻というものを作り出すヨーロッパの巨匠たちの長回し然り。しかし相米慎二の長回しはただダラダラと撮っているだけかのような、いったいどこを見ればいいのか困惑するような長回し。もちろん計算はされているだろう。橋の上を走る人物が画面の右下に位置される奇怪な構図に突然左上のビルの隙間から車が登場!なんて計算無しでは撮りえないシーンもある。しかしその後の水辺の追いかけっこは何を意図した動きなのかが全くわからない行動を皆が皆しており、その画は滑稽極まりない。しかし少年少女たちの懸命すぎる動きはせつなさにも似た感慨を呼び起こし極めて愛おしいシーンともなっている。少年少女たちがなぜここまで必死なのかが話が進むにつれてその必然性がなくなってくる。だのに彼らの必死さはどんどんヒートアップしてゆく。子供から大人への成長に対する抵抗というか最後のあがきというかどうにも抵抗しえないヤケクソというか、あと諦めとか悲しみとか希望とかがごちゃまぜの必死さ。その明確に何とは言えないなにかを長いワンシーンに感じることが出来ればこの映画はとてつもなく愛おしい映画になるのである。