5.我々を熱狂させる芸術作品は、作者も熱狂のうちにそれを作り上げたと思いがちだけど、実際は冷静な推敲作業のもとにそれは作り上げられるのだ、とかいう意味の文章をどこかで読んだ気がします。その意味では、最たるものの一つが「映画製作」で、到底、一人の人間が勢いだけで作れるものではなく、一種のプロジェクト運営の側面がある訳で。
ところがこのドキュメンタリを見ていると、大勢の人間と莫大な投資が関わるが故に、「うまくいかなくなった映画製作」ほどオソロしいものは無い、ということがよくわかります。熱狂、というより、底なしの狂気。まさに、闇の奥。
ってか、コッポラというヒトに映画作らせるのが、そもそも危険、ということで。この危険人物が、周囲を巻き込んで(あるいは周囲に巻き込まれて)危険領域に足を踏み込んでいく様が、この作品に捉えらえています。最近はともかく、この頃のコッポラというと、映画で一発当ててはそれをつぎ込んだ次の作品で興行的に大コケして経済的に追い詰められる、ってなイメージがありましたが(?)、そりゃこんなコトばっかりやってたら、そうなるわなあ、と。
『地獄の黙示録』という作品が何ゆえ、魅力があるのかは、このドキュメンタリを見てもよくわからないけれど、何ゆえああいうイビツな作品になってしまったかは、感じ取ることができます。作品の魅力と完成度とは、必ずしも正比例しないんですね。このドキュメンタリが作られた段階ではまだ『特別完全版』は公開されておらず、本編には無かった「はず」のシーンが幾つも登場します。その『特別完全版』は盛り込まれたエピソードの多さ、羅列感がカフカの作品を思わせ、本来は、カフカの長編小説同様に「終わることのない迷宮」だったんじゃないか、とも思えてくる。しかし、事業としての映画は、「完成」はともかく「完結」させないといけない中、もつれたアリアドネの糸をほどくのではなく、その迷宮にスタッフ、役者ともども、入り込んでいってしまう。
ベトナムでの撮影はできないということで、選ばれた撮影場所が、フィリピン。軍隊の協力は取り付けたものの、内戦状態なもんで、撮影に使うヘリが出動してしまう。『地獄の黙示録』という映画自体はフィクションとは言え、登場するヘリは、まさに現在進行形で「戦争中」のもの、なんですね。オープンセットは作り物であっても、台風による破壊は、本物。カーツ大佐の規格外ぶりも本物で、誰の云う事も聞かないマーロン・ブランドは、まさに「企画外」の存在、制御不能。
そして、現場に広がるドラッグの使用。そりゃ、あかんでしょ。
当時を振り返るインタビューに登場するジョン・ミリアス、ジョージ・ルーカス、そしてコッポラ本人。前者2人の余裕(「闇の奥」に足を踏み入れる前に引き返せた余裕?)と比べ、コッポラには未だに「あかん人」のニオイがプンプンと。
この人を先頭に、迷宮に足を踏み入れ、制御不能の一歩寸前か、もしかしたら絶賛制御不能中、という中で、完成と言っちゃってよいかどうかはともかく一応の完結をみた『地獄の黙示録』。結局、この作品の魅力が何だったのかと言うと、もはや「闇鍋の魅力」としか言いようが無い気もしますが、鍋に入れてみたいもの、不本意ながら入ってしまったものが、ゴッタ煮となって、それでもなぜか食えるものに仕上げられている、という奇跡。こんな奇蹟は二度と起きないんじゃないか、という、まさに究極の闇鍋の一杯、ですよ、これは。
このドキュメンタリ映画の元になっているフィルムは、ロケに同行したコッポラの妻が撮りためた記録映像が使われている、ということで、もし最初からドキュメンタリ映画を撮るつもりだったら、また別の撮り方があったのかも知れませんが、とは言え、これ、面白い。映画の裏側ってのはやっぱり気になるし、それが特にこの奇妙な作品の裏側だとなお一層。それを90分あまりにまとめ、テンポよく見せてくれて、興味が尽きません。
たぶん、このドキュメンタリは、コッポラ自身には作れないと思う!