9.《ネタバレ》 神々しくそびえ立つ巨躯。体の髄にまで響き渡る咆哮。
満を持してスクリーンに甦ったそれは、まさに「怪獣の王」と呼ぶに相応しく、その存在感は圧倒的だった。
この極めて完成度の高い映画が、映画史上最高クラスの「怪獣映画」であることは、間違いないと思う。
日本が誇る「怪獣」と「特撮」を、ハリウッドの最前線の精鋭である映画人たちが、多大な“リスペクト”をもって甦らせてくれたことに、先ず感謝したい。
「怪獣映画」として、絶賛は惜しまない。
しかし、絶賛の上で、ただ言いたい。
これは……、「ゴジラ映画」ではない。
最大の違和感は、ゴジラが「何もの」であるかということに対する認識のズレだろう。
今作では、絶対的な存在感を誇るゴジラが、その存在感のまま神格化され、文字通りの地球の「守護神」として描き出されている。
この映画単体においてみれば、ストーリー的な違和感はない。
しかし、これが「ゴジラ映画」というのならば、その描かれ方は致命的な欠陥と言わざるを得ない。
ゴジラという怪獣は、“核の化身”でなければならない。
他の怪獣がどうであろうとも、ゴジラだけは決して“古代生物”などであってはならない。
人類自身が生み出してしまった災厄である「核」。その「権化」でなければならないと思う。
ゴジラはいくらその姿が強烈な畏怖の対象であり神々しくあろうとも、決して神格的なものなどではないし、あってはならない。
なぜならば、ゴジラは人類の「業」そのものであり、愚かな人類にとっての合わせ鏡の如き存在でなけらばならないからだ。
だからこそ、人類は圧倒的な力の差を見せつけられようとも、強大なゴジラに立ち向かい続けなければならない。
だからこそ、時に己の身を賭してでも、ゴジラ(=人類)の暴走を止めなければならない。
「ゴジラ映画」におけるスペクタクルとは、圧倒的で悲劇的な「破壊」と、その破壊を生み出してしまった人類が自戒を礎にし、己に打ち勝とうとする様にこそ生まれるべきだと思うのだ。
それこそが、“戦争”と“核”、そして自らの“驕り”によって一度叩き潰された国が、再び進み出すために生み出した“エンターテイメント”だったと思う。
だから、そういう「精神」が根本的に欠けていたこの映画は、少なくとも僕にとっては、「ゴジラ映画」とは言い難い。