5.大味である。真っ当なオトナが観る映画としては、馬鹿馬鹿しくて、粗いことは間違いない。
だがしかし、「そんなことどうでもいい!」と思えるくらいに、鑑賞中の多幸感が勝った。
それが、「ID4」の20年来の大ファンにとっての正直な気持ちである。
“あの独立記念日”を祝い、20年の歳月を経て、再び人類が滅ぶか否かの“独立記念日”を迎えた登場人物たちの「人生」そのものを思い、涙が出た。
誰がなんと言おうと、20年前の愛すべきSF超大作の、“愛すべき続編”だとまず断言したい。
何と言っても、20年前の独立記念日に世界を救った者たちの傍らに寄り添っていた子どもたちが、成長し、父親の後を継ぐかのうように世界を救うという、良い意味で恥も外聞もないベタな設定が「ID4」の大ファンとしてはたまらないのだ。
そう「ID4」という娯楽大作の最大の醍醐味は、そのベタさであり、王道っぷりであり、世界中の映画ファンが一度は憧れた「アメリカ万歳!」という精神なのだと思う。
前作が公開された1996年当時にして、「この映画は20世紀最後の幸福なアメリカ万歳映画」と評されていた。
それから20年、自身が巻き起こした世界の混迷とともに、かの超大国の世界的な権威は下降の一途を辿っている。
昨今の世界情勢を“普通”に捉えられている者ならば、冗談でも「アメリカ万歳!」などとは言えないのが実情である。
ただし、それは=それを決して言いたくないということではない。
世界中の多くの人たち、特にかつてアメリカという大国に対して何かしらの“憧れ”を抱いた人たちは、アメリカが再び真の意味で世界的な権威を取り戻すことを心の底では願っているのではないか。
ローランド・エメリッヒというドイツ人監督が生み出す超大作は、冒頭に記した通り、いつも大味で馬鹿馬鹿しいけれども、そういった拭い去れない“かつての憧れ”に対する思いが溢れている。
だから僕は、同じ思いを持つ者の一人として、この監督の作品を決して嫌いになれないのだとも思う。
1996年公開の前作も、大ヒット作品ではあるが、世間的には決して手放しで褒め称えられた作品ではなかった。
ただし、好きになった者の愛着の強さは、他のSF超大作に比べても類を見ないものだったと思う。
それはどうやら出演者たちにとっても同様だったようで、多くの主要キャストの続投に表れている。
“20年ぶりの続編”において、登場人物たちの再登場こそが、最大の娯楽性であることは間違いない。
ジェフ・ゴールドブラム、ビル・プルマンら主演キャストは勿論、ジャド・ハーシュやヴィヴィカ・A・フォックスら脇役陣もしっかり登場し、それぞれが、泣きどころ、笑いどころの見せ場を与えられていることが嬉しかった。
ウィル・スミスのキャスティングが叶わなかったことは残念だが、もはや大ハリウッドスターの彼が出演してしまうと、群像劇のバランスが崩れ、作品のテイスト自体に影響が出てしまっただろう。
彼が演じたヒラー大尉の成長した息子を主役級に配したことで、映画世界の中で世代が受け継がれていく様が鮮明になったとも思う。
受け継がれるといえば、ビル・プルマン演じるホイットモア元大統領の愛娘の凛々しく成長した姿も忘れてはならない。
前作での最大の落涙ポイントは、大統領夫人の死去シーンである。愛する妻を亡くし、悲しみの淵に沈みつつ、「ママは眠った」と幼い娘を抱き寄せるホイットモア大統領の姿は涙なしでは見られない。
そして、当時は母親の死を理解しきれない幼子だった娘が、今作において父の跡を継ぐようにパイロットとしてエイリアンに向かっていく様は、なんとも感慨深い。
一方でもっと登場させてほしかったキャラクターもいる。
前作において主役級の3人以上の“ヒーロー”であったケイス飛行士の子どもたちは、是非とも登場させて欲しかった。
またロバート・ロッジアが演じたグレイ将軍の登場シーンは嬉しかったが、それならばジェームズ・レブホーンが演じた途中解任された国防長官も1カットでもいいので登場させてあげてほしかったと思う。
そして、ヒロインの一人だったデヴィッドの奥さんは何処に行ってしまったのか……。
とかなんとかと、マニアックな“ほじくり”が尽きないのは、やはり僕自身がこの続編を充分に“堪能”したことの表れだと思う。
どうやら、今作の成功いかんで「3」の製作が決まるらしい。
今作のラストで触れられているように、今度は逃げるエイリアンの尻を追って更に馬鹿げた大風呂敷が広がっていくことは明らかなようだ。
仕方がない。大いに期待しよう。