2.あんな愛らしい女の子を使われたらどうやっても感情移入してしまう。それを自覚しつつも、それでもなお、本気で心を揺さぶられてしまうし、監督の手のひらに乗せられていることを自覚することに引っかかりはあっても、またそこに変な自意識が介入してくることがあっても、それを振り払いつつ、最後まで乗せられていた。女の子が普通の子とちょっと違うところを見せるシーンが、超能力以外にも(器量として)5,6回あって、その都度、一切の穢れのない、純真なものを目にしたときの涼やかな感動を禁じえなかった。だから、ロリコン映画としては成功しているわけだ。またそのロリコン映画を今観ているんだぞ、と自覚することに関しても、自分に語りかけてくるもう一人の自分の声に耳を塞ぎ、怠惰に身を委ね、一切の批判精神も持たずに観れた。ある精神状態においてのある部分の役割は、少なくとも果してくれたはずである。現実を忘れさせてくれた。(ネタバレ)「普通とはちょっと違う子」であるから、異形の者であるから、当然異形の人生を辿る運命を背負っていて、それゆえ、例えば同じように「普通とはちょっと違う」車椅子の病気の子供(→当然異形の人生を歩むはず)に“思わず”抱きついたりするところなども、「普通とはちょっと違う」という共通項を持つものでなければ分かち合えない感覚があったはずで、正しく抱きつかずにはいられなかったのだと思う。ちょうどその運命性に翻弄されている真っ盛りに、引っ掻き回されている最中に、このような(母親からすれば)間の悪いことをしたということに意味がある。一刻も早く逃げなければいけない状況にも関わらず、である。運命として孤独を背負ってしまった少女が、ある部分で共有できる人間と初めて出遭ったのではなかったか。(少なくとも映画の中ではずっと孤独だ) そのときの救いの感覚は、推して量らずにはいられない。「すみません、子供なもので」「いいのよ」という母親同士の表層のやり取りとは全く別の次元で、心の通わせ(合い)が確かに存在していたはずだ。