4.《ネタバレ》 映画なのだから、現実であろうと頭の中の世界であろうと、
そんなことはまったくもってどうでも良いことで、
その境目は物語のための説明でしかない。
物語の整合性であるとか、登場人物への感情移入などは、
映画に於いては本当に無駄な足掻きであって、
カットが変われば時間すら飛んでしまう出鱈目な映画に
どうやって真っ直ぐ延びた一本道を敷けるのだろうか。
敷けない。敷く必要がない。何故なら敷かない方が面白いからだ。
いつも通りのホラー、まったく解決しないがどこか漂うミステリー、
走って落ちる活劇、まさかのジュラシック・パーク、
そしてまったく感動出来ないラブストーリー。
こういう連続的転換はスピルバーグの『宇宙戦争』を思い起こさせる。
感情から言葉を発して行動をするのは佐藤健と綾瀬はるかだけであり、
他の登場人物たちはすべて物語を形成するだけの役割だ。
そんな他の登場人物たちが退場し、
ふたりと首長竜だけしか出て来ないラストなんぞは、
物語はもう身も蓋もない状況になる。
綾瀬はるかの世界だと思って見ていた観客は、
ひっくり返ったことで実は佐藤健の世界だったと気付き、
それは綾瀬はるかがセンシングによって見ていたものと
同じものを観客が見ていたことになるわけだ。
まぁその辺の解釈はどうでも良くて、問題はそのひっくり返り後だ。
つまりは綾瀬はるかが走り出す瞬間ということだ。
それは『トウキョウソナタ』で小泉今日子が車をオープンカーにして
走り出す瞬間と同じ感動を味わえる。決意だ。
しかも、それは主役が佐藤健だったのが、
ひっくり返ることで、唐突に綾瀬はるかが主役になり、
そのままラストまで怒濤の如く雪崩れ込んでいくという
勢いを黒沢清はやりたかったんじゃないかと思う。
この物語を置き去りにする、継続性ではない連続性というのは、
どこからだろうか、恐らく『ドッペルゲンガー』からだろう。
そういった面で、この作品は黒沢清のひとつの集大成だと思う。
まぁ、それにしても、泳ぐ首長竜を俯瞰で撮らえたあの水面の美しさたるや、
固唾を呑んで見入ってしまった。