34.クリス・カイルという人物の実人生の最終的な“事実”を知らぬまま、今作を観たので、映画のラスト、敢えて感情的な表現を排除して描かれた「顛末」に対して、虚をつかれた。
そして流れる「無音」のエンドクレジットを目の当たりにして、しばし呆然としてしまった。
このあまりに印象的なエンドクレジットにクリント・イーストウッドが込めた思いとは何だったのだろうか。
戦場の内外で命を落としたすべての人たちに対する鎮魂か、それとも戦争という愚かさの中で生き続ける全人類に対しての無言の怒りか。
いずれにしても、その「無音」の中に何を感じるかということを、この映画は観客に対して問うているように思えた。
この映画は、本国アメリカにおいて政治的な両極端の立場の人たちから、それぞれの思想において賞賛され、また批判されている。
それは両極の者たちが、あまりに利己的に自分の考えをこの映画に重ね合わせ、都合よく解釈している結果だろう。
ちゃんとこの映画を観た人ならば極めて容易に理解できることであると思うが、監督がこの映画に込めたものは、戦争の正当化や戦意の高揚でもなければ、安直な戦争批判でもない。
これは、現在のこの世界に生きる一人の男の「運命」の物語だ。
一人の男が、アメリカという国に生まれ、父親に育てられ、成長し、愛国という名の正義に盲進し、妻となる女性を愛し、戦場に立ち、子を授かり、また戦場に行き、人生に苦悩する話だ。
その一人の男の虚無的な瞳の中に如実にあらわれた戦争というものの真の様。
それは、正義も悪もなく、“それ”を起こした「世界」に対する罪と罰だと感じた。
「敵国」とされる側のスナイパーにも、主人公同様に家族がいるのだ。
この映画で描かれた「事件」が発生してから僅か2年、製作期間としては実質1年余り。
そのあまりに短い期間で、これほどのクオリティーの戦争映画を撮り上げてしまうクリント・イーストウッドという映画人は、その信念の強さもさることながら、やはり「映画」そのものに愛されていると思わずにはいられない。
そして、この映画の「現実」が今なお続くこの世界の“日常”だからこそ、完成を急いだ製作陣に賞賛を送りたい。