16.「ゾンビ映画」×「韓国映画」
この食い合わせはとてもよく合いそうだが、これまで著名な作品が殆ど生まれてこなかったことが意外である。
韓国映画のクオリティの高いアクション・バイオレンス描写や、特有のドライさを携えた客観性や批評性、トータルバランスに秀でた映画的娯楽性の高さは、ゾンビ映画との親和性がそもそも高いと思える。
ゾンビ映画というものが飽くことも無く世界中で作られる理由は、人間が最も恐れるものが「人間」そのものであることに尽きる。
その恐怖の象徴として、“ゾンビ”という人間の権化が生み出され、、それに襲われ食い尽くされる様は、常に社会問題に対する警鐘と共に、人間自らに対する自戒として描かれてきた。
そしてついに生み出された“韓国製ゾンビ映画”は、ゾンビ映画としても、韓国映画としても、しっかりと傑作だった(案の定)。
古今東西世界中で生み出し続けられているゾンビ映画というジャンルの根底にある本質をきっちりと捉えた上で、“特急列車パニック”というジャンル性をも見事に融合してみせた確固たる娯楽映画である。
本作のストーリーテリングは、極めてベタで王道的だ。過去の各国のゾンビ映画やパニック映画の定石を丁寧になぞるかのように、ストーリーは展開される。
ただし、不思議なのだが、映し出される映画世界に対して、使い古されたありきたりな印象は一切受けない。むしろとてもフレッシュにすら感じる。クソダサい駄洒落に思えたこの日本語タイトルも、鑑賞を終えてみるとあながち的外れでもないなと思える。
その最たる要因は、韓国映画の土壌の豊かさに他ならないだろう。
無論、ゾンビ映画としての土壌の新しさも映画的な新鮮さに繋がっているだろうが、やはり前述の通り、卓越したアクションシーンや躊躇のないバイオレンス描写、自らの国民性をドライに映し出した人間描写など、クオリティの高さとバランス感覚を兼ね備えたこの国の“映画力”が反映された結果だと思う。
クライマックスにおける展開と、物語の帰着も、極めて韓国映画らしく、映画表現としてのシビアさと感動に満ち溢れている。
“悪役”として位置づけられているキャラクターの言動は、心底胸糞悪くて、もっともっと残酷な“退場”を迎えて欲しかったけれど、果たして、この映画を観たどれだけの人間が、“あいつ”のことを完全に否定できるだろうか。
彼にだって帰るべき場所があり、家族があり、突如放り込まれたパニックの中で只々怖かっただけだろう。
非道い言動を繰り広げた悪役をただ「ざまあ」と殺さずに、最後の最後までひたすらに主人公らを脅かし続ける役割を与えていることこそが、この映画の最たる「苦味」だ。
つまりは、この“悪役”こそが、現実の社会における私たちそのものだと思う。
主人公の父親も、悪役の会社役員も、人間としての本質は大差ない。むしろ親しい人間性として描かれている。
それはこの社会に生きる誰しもが、英雄にも悪者にもなり得るということの証明だ。
「普通」に生きているつもりでも、いつ何時、健全な社会を食い尽くす“ゾンビ”になるか分からない。
このソウル発釜山行きのゾンビ映画は、ジャンル映画としての真っ当な警鐘と自戒を、マ・ドンソクの無骨な拳のようにドスンと重く豪快に叩きつけてくる。