6.《ネタバレ》 “マイノリティー”として生まれ生きることの意味と意義。それに伴う苦悩と苦闘。
その全世界的、全歴史的において普遍的な“苦しみ”を根底に敷き、一貫して描き抜いてきたこの世界観において、分かりやすい高揚感などはそもそも存在し得ない。
なぜならば、そこには明確な「敵」や「悪」が存在するわけではないからだ。
目に見えるすべてのものは、敵にもなり得るし、味方にもなり得る。
自分自身と、己に対峙する他者を寛容し、希望を見出せるかどうか。
それはまさに、ウルヴァリンやマグニートーをはじめこのシリーズに登場するすべての“X-MEN”が苦悩の末に辿り着いた真理だったろう。
そしてそれは、ミュータントではない我々「人間」が最も戒めなければならない最大にして永遠の“テーマ”であるということを、この最新作は強く訴えかけている。
主人公であるウルヴァリンの活躍が殆ど無いこと、明確に魅力的な悪役が存在しないこと、センチネルのただただ絶望的に無慈悲な強さ……今作は、高揚感やカタルシスを意図的に排除している。
その代わりに、差別による狂乱と恐怖の中で敢えて“銃を置く”という「選択」が、大いなる勇気と希望を生み出すということを、驚くほど愚直に描き出している。
その最も重要なシーンでさえ、ウルヴァリンは川底に沈んでいるし、プロフェッサーは瓦礫に埋もれている。
ヒーローが活躍する華々しさなどまるでない。
繰り返される歴史上の悲しみにおいて、本当に必要なものはヒーローではなかった。
必要だったものは、最も厳しい局面において、最良の未来を選び取ることができる「勇気」そのもの。
この高揚感に欠けたアメコミ映画が14年かけて描いてきたことは、そういうことだったのだろう。
チャールズとエリック、そしてローガン、彼らの長い長い苦闘がついに報われ、苦悩が払拭されたラストシーンは、多幸感に溢れている。
タイムパラドックスを主軸においたストーリー展開は少々強引だけれど、ウルヴァリンの悲しみをすべて打ち消す、大胆で慈愛に溢れたこの大団円を見せられては、何も言えない。
このシリーズに、これほどまで愛着を持てるようになるとは思わなかった。
今一度、好きになれなかった第一作「X-メン」から観直してみよう。自分の評価が大いに転じることは、もはや明らかだろう。