1.《ネタバレ》 面白かった。他のゴジラ作品の知識、いわゆる「思い出補正」が一切無かったのが逆に良かったのかも。
本作は「観る小説」と「現代宇宙ものSF」の融合体。派手なバトルアクションがメインに据えられた映画ではない。故に、派手な破壊シーンや戦闘シーン、映像的な動きやシンプルなストーリーを求めて観ると後悔するかも。ゴジラやギドラはあくまでも象徴や概念として描かれ、個体としての強さを主張するようには作られていない。本作の面白さは会話劇とそのテーマ自体にあり、それらが向かない、あるいは何言ってるか理解できない場合は置いてきぼりをくらう可能性が高い。作品のあり方としては、アクション映画よりもむしろ「2001年宇宙の旅」や「インターステラー」に近い。大分類はそちら側で、方向性として「人類とは」「人類の進化の帰結とは」「人類の本質とは」「仮に帰結が○○だとしたらどうするか」といったベクトルに振った印象。
▸ゴジラ:人類が進化・発展していく上で必然的に生まれる存在であり、人類の上位種。
▸エクシフ:超長期の宇宙漂流、超高度な演算能力、および高次元体であるギドラ(エクシフのいう神)に接触することに成功した種族であり、人類が発展しゴジラが出現したさらにその後の論理的・必然的結末(滅び)を知るものであり、それがわかっているんだから「せめて幸福な死を」と考える種族。
▸メトフィエス:滅ぼされたエクシフの星の生き残りであり、ギドラが星を食うまでの事務員、窓口として星に干渉するもの。
▸ギドラ:高次元体の存在であり、時空間を超越していることからおそらく四次元以上の存在であり、当然、三次元に生きる人類やゴジラにとっては干渉不能なもの。
▸ビルサルド:高度な文明を持ち、感情という要素を廃し論理のみに生き、その科学力を持ってしてより高度な進化を遂げようとするもの。
▸設定:人類が進化発展する→ゴジラが生まれる→星自体がゴジラと一体化しているレベルになる→高次元体(=神=ギドラ)の事務員であるメトフィエスが高次元体を召喚する条件を満たす→高次元体がおいしく星をいただいてめでたしめでたし
第3部である本作で言えば、要するに「いやうちらは高次元体先輩(神)を知ってるし、演算の結果人類は100%滅ぶことを知ってるんすよ。苦しんでどうこうしようとした結果、結局滅びるってことを知ってるんすよ。だったら無駄に苦しまずに受け入れて、神への供え物としてああ生きてる価値あった~と思って死んでいった方がまだ良くない?」というのがエクシフの主張。それに納得できないのがハルオ。
ここで面白いのが、より未来を知り、人類の結末を知っているエクシフの方が、現代に生きる我々にとってはより精神的な主張をするということ。知識量、科学力の多寡で言えば「エクシフ>ビルサルド>地球人」となるわけだけれども、より知れば知るほど、科学が発展すればするほど「論理的」ではなく「宗教的」になっていくということ。というより、「論理的帰結として最終的に行きつく先は宗教(=どうせ滅びる前提での、ささやかな精神的拠り所、ないし幸福)」ということ。宗教といえば「うわぁ・・・ないわぁ・・・」っていうまあ偏見オンリーな感覚しかなかったけど、そいういう見方もあるのかと思わされた。新たな考え方が1つ増えた感じ。もちろんハマりはしない。
ハルオはハルオできっちり主人公らしい役を与えられ、主人公らしい立ち回りをしている。第3部まで騙され続け、全てを知った上での最終シーン。解釈がわかれそうだが、メトフィエスらエクシフが主張するのが要は「自らを供え物として受け入れた上での幸せな死」であるところ、ハルオは最後までその死に方に抗った、という解釈。死んでるのかどうかは描かれてないけども。
設定について、ギドラとは高次元の存在で、三次元に生きる我々からすれば干渉不能な存在。時空間や既存の物理法則に捕らわれない存在。二次元から見た時の三次元と同じ。・・・にもかかわらず、三次元と高次元の連絡役であり事務員(窓口、ビーコン)としてなんで脆弱なメトフィエスを選んだ?と思うし、エクシフがいなければ今宇宙に干渉不能ならなんでエクシフ側はそれを受け入れた?と思うし、そもそも星を喰うことに何か意味あんの?wと思うし、そこらへんの練り込みがあるならば知りたいと思った。
1~3部を見たけれど、ビルサルドの考え方にもエクシフの考え方にも非常に共感できる。だからこそ考えさせられる。だからこそ面白い。
次元という概念についてニワカ程度の知識はあり、他の洋画SF作品が好きであり、かつゴジラ作品への思い出補正が無かった私にとって、非常に面白い作品でした。