3.《ネタバレ》 父が去り、家族で過ごした家は売りに出される。そんな中、寿梨は、頼りない母を支える長女の役をひたすらに演じる。彼女にそうさせるのは、自分さえもっと頑張れば幸せな家族のままでいられたかもしれないという思いだ。お前は嘘がうまいから行いだけはよくなさい、引用される太宰治の言葉のままに彼女は懸命に演じる。そんな寿梨に、母の再婚相手が言う。「まだ子どもの君にはつらい役だったよね。もう大丈夫だよ。その役、おじさんに任せてもらえないかな。」その言葉に、寿梨は思う。「君はもういらないよ。その役、もっとうまくできる僕がいるから。君が今までやってきたことは、ぜんぶ無駄なんだ。」まるでそう言われているようだ、と。自分が世界に存在するための大切な役割すら失い、売り払われた家を一人見にいく寿梨は、まるでみなしごだ。忘れられない幸せな思い出の家は新しい家族の新しい幸せに占拠され、彼女の居場所はもうどこにもない。家が戻れば家族が戻ると本末転倒して願う寿梨。彼女が信じる幸せは、その家で与えられそして必死で演じた役割り、その中にだけある。寿梨が日南子に「ヒナ」という役を演じさせ彼女を幸せにすべく奔走したり、自身が役割を奪われてから一層その「ヒナ」の物語に没頭するのは、そのためだろう。あえなく役を降ろされてしまった寿梨は、今度は裏方であるプロンプターとして、理想の大役を日南子に託すのだ。市川準監督はこの物語を、かつての枯れた味わいのその作品群からは想像もつかないほど、説明過多に語る。けれどその一見饒舌で表層的な説明は、実は額面どおりであるとは限らない。好意に基づく動機なら匿名で人を操つることも良しとする寿梨の軽率で未熟なある種の傲慢さ、そして映画自体が終始それを肯定的に描いているかのような違和感、それをさらりと覆す終盤が素晴らしい。「臆病な私も、演じてる私も、ぜんぶ私なの。逃げたい私も、ウソつく私も、傷つく私も、私なの。」寿梨に支えられていたはずの日南子。彼女が語るその言葉が今度は、本当はだれよりも支えてほしかった寿梨を力強く支える。それは、役を演じた「きのうの私」も、役を脱ぎ捨てる「あしたの私」も、どちらもせいいっぱい両手を広げて抱きしめる「今の私」の言葉だ。「まだちょっと恐いけど」それでもそうやって、彼女たちは勇敢に、あしたの私を、本当の私を、そして本物の私を、つくっていくのだろう。