73.現在43歳、自分が1歳の時に公開された映画史上においてあまりにも有名で、世界中から愛されるSF映画を、初めて鑑賞することになった。
年末年始、地方のスクリーン事情では、あまり目ぼしい劇場公開作品が無くて、特別上映されていた本作が2025年最初の劇場鑑賞作品にもなった。
何よりも、この映画の“初鑑賞”を劇場で、しかもIMAXで体験できたことは、個人的な映画ライフのトピックスになり、とても幸福なことだったと思える。
多感な少年が、迷い込んだ異星人と出逢い、友情を育み、大人たちの干渉から逃れ、自転車で宙を駆け、感動的な別れに至る──そんな物語。
“初鑑賞”とはいえ、真っ当な映画ファンのはしくれとして、本作がどういう作品なのかという「情報」は、ほぼ熟知してしまっていたと言っていい。
おおよそその“知識”通りに映画は展開され、様々な場面で何度も目にしたことがある有名な数々のシーンを、映画鑑賞として初めて観た。
分かりきった展開、見覚えのあるシーンの連続であるにも関わらず、映画そのものへの愛おしさに溢れる世界観と、クライマックスの高揚と感動に対して涙が滲んだ。
CG以前のクリエイティブによる異星人の造形は、文字通りに“魂”を吹き込んでいる。
決して生命を表現する物体としてリアリティがあるわけではないし、精巧なわけでもない。
それでも、少年と出逢い、心を通じ合わせる“E.T.”には、キャラクターとしての息吹があり、この映画のテーマをちゃんと成立させている。
今や、実際は存在しないものを映像世界の中で息づかせ、“登場人物”として成り立たせることはあたり前のことであり、“人間”の造形すらCGやAIに取って代わろうかという時代だけれど、その映画史的な文脈の発端には、この映画が確実に存在するのだろう。
スティーヴン・スピルバーグの映画の中でも、特にファンタジー性に溢れ、どちらかというとウェットな映画世界に見える。子どもから大人まで楽しめるファミリームービーであることは間違いない。
けれど、少し俯瞰して作品を振り返ると、やはりそこにはスピルバーグ監督ならではの少しドライな“視点”も含まれていたように感じる。
特に印象的だったのは、作中での“大人”の描かれ方だ。
本作では、終盤に至るまで、主人公の母親以外の“大人”は「表情」が映し出されない。迷い込んだ異星人の足跡を追う者たちや、学校の教師など、確実に意図的にその顔を映すこと無く描かれている。
それは、子どもたちの視点から見た大人たちに対する不穏さや、ある種の恐ろしさを表現すると同時に、子どもたちも、大人や社会に対して理解せず、狭い世界観の中で生きているということを表していたように思える。
表情を隠された大人たちの言動は、一方的で横暴なように映っていた。しかし、終盤に入り、彼らの表情が見えてくると、当然ながら彼らもそれぞれの理念や信念を持って対応しているということが伝わってくる。
主人公をはじめとする子どもたちは、異星人との交流と同時に、大人たちの「表情」から伝わる葛藤や苦悩にも触れ、成長をしていく。それは本当の意味で、“未知なる世界”へと視界が広がったことへの証明だったのだろう。
子どもたちと大人たちの関係性を一方的で類型的な描写に留めず、客観的な視点によって描き出した様が、とても印象的だった。
それはまさに、先日鑑賞したばかりの「フェイブルマンズ」で描かれた、スピルバーグ本人が自身の家庭環境を俯瞰して捉える様に通じていたと思える。
ストーリー展開的には全体的に大雑把で、なぜそういう展開になったのかと疑問符が生じる場面も多々あったことは否めない。
ただそういう粗削りな側面も含めて、大巨匠が映画史における新たな時代を作り出そうとする黎明期の作品であることを感じさせた。
あ、あと主人公の妹役のドリュー・バリモアが天才少女すぎた。