121.3年前に小豆島へ行った。当時付き合っていた彼女との初旅行だった。
思い返してみれば、「小豆島へ行きたい」と思ったきっかけは、角田光代の「八日目の蟬」を読んだことだった。
幼子を誘拐した主人公が逃亡の果てに安住したのが小豆島だった。文体からは、偽りの母娘を包む優しい島の光と空気と香りがありありと伝わってきた。
あれから3年が経ち、あの小説の映画化作品を観た。
いつぶりだろうか、映画館で号泣した。泣いた。めくり上げていたパーカーの袖を手首まで戻して、とめどない涙を拭った。もれ出そうな嗚咽を必死に抑えた。
素晴らしい小説の映画化は非常に難しい。ただし、それが成功した時、その映画は特別なものになる。
この映画は、映画が好きな人、小説が好きな人、その両者にとって幸福な奇蹟だと思う。
子を産むという愛、子を育てるという愛、本来合致しているべき二つの愛が分断されてしまったことによる悲哀。
もちろん、それは「幸福」なことではなかった。
ただそれが、そのまま「不幸」でもないということに、二つの別々の愛を受けて生きた娘が気付いたとき、この物語はその真の意味に辿り着く。
文体が映像化されることにより生まれる“差異”は、多くの場合弊害となる。でも、この映画にはそういう弊害がまるでない。
それはこの映画が、良い意味で原作に依存していないからだと思う。
文体が伝える情感に寄り添いつつも、映画表現として一線を画し、映画作品ならではの新たな情感を生み出している。
決して消えることのない悲しみを抱えながら偽りの母を演じ、子を育てる幸福を心の底から感じた女の心情。
子を育てる幸福を奪われ、戻ってきた子にまっすぐな愛情を注ぐことが出来なかった女の心情。
その狭間で苦悩を抱えながら成長し、自らが宿した子への愛に気付いた女の心情。
それはもう、喜びも悲しみもすべてひっくるめた眩しい光のようだ。あまりに眩しいその光を覆うように、涙が溢れた。
男の僕は、子を身籠るということの本当の意味を一生理解できない。絶対に。
それでも、それぞれの激しい心情の吐露に、胸が締め付けられた。
3年前に小豆島へ行った彼女は、妻になり、もうすぐ母になる。
僕自身が親になるこのタイミングで、この素晴らしい映画を観られたことを幸福に思う。