105.《ネタバレ》 アーサーは、自分の病気を抱え、母を愛し、
貧困の中でも、周りをハッピーにすることを夢見る青年。
善い人間であろうと努め、
周囲の軽蔑や冷笑や横暴をこらえながら、
社会に受け入れられる人間であろうと必死に努める。
たかが、といえば、たかがPR看板を面白半分に盗んだガキを
取り返すために必死で走るほどに。
敬愛するマレーにステージに呼ばれ、その善行を称賛された時、
やっと自分の今までを理解してもらえたことに感涙する。
(これが現実だったのか、アーサーが望んだ妄想なのかは、
ソフィーとのことを思えば懐疑的だが)
ところが、だ。
アーサーの努力をあざ笑うかのごとき証券マンたちを、
その時はあくまでも自己防衛として射殺する、最初の二人までは。
三人目は衝動的とはいえ、確実な殺意を持って弾切れまで撃ち込んだ。
そして恍惚の境地を知る。
それは人を殺したことでも、横暴な富裕層に仕返しをしたことでもない。
それまで、善い人間たるべく自分を縛っていた鎖がなくなり、
自分の感情と欲望のままに振舞うことが許される「自由」というものへの陶酔。
自分に向けられてきた相手の「自由」を理解した衝撃。
これまで、病気であるがゆえに周りに合わせて生きなければならないと、
切迫した苦しみに生きてきたアーサーにはなかった甘美な感情。
さらに自分が起こした行動が報道という形で明確になり、
賛否ともども、自分が「存在する」ということを世間が知る高揚感。
それでも続く、多くの裏切りや欺瞞の中、
善き人間であろうとしたアーサーの拠り所は、ことごとく奪われる。
いや、奪われるのではなく、無意味なものと気付く。
そして、かつて善き人間であろうとしたアーサーを
ステージにあげてまで称賛したマレーに、
同じステージの上で嘲笑の対象にされることで、一つの結論に至る。
俺は「俺の自由」を謳歌する。
お前たちが、お前たちの望むハッピーを楽しむように俺も。
マレーを打ち殺して、暴動が大きくなる街を走るパトカーの車窓から見ている暴徒たち。
アーサーには「みんな、楽しそうにやってるね。ハッピーそうだ」と見ているようだった。
そして警官が言う。お前のせいだ、と。
これが俺のせいだって?みんなが楽しんでのが?。
じゃあ、俺はみんなをハッピーに出来たってことなんだな。やっと。
満足そうに暴動を見つめる。
アーサーの笑い声は、最初は懊悩に苦しみ、みじめな自分に向けた笑い声。
それが、自分が信じていた善行への嘲笑に代わって、
最後には「俺の自由」を謳歌する喜悦の声に代わっていった気がします。
アーサーの「自由」は、実社会で決して許されるものではないですが、
人間が持つ「心の多様性」と、
そして、もうひとつ付け加えたいのは、
暴徒にも上流階級にも描かれた「多数の意志」というものの恐ろしさ。
自分が正しいと思うなら何をしても許されるという「ヴィジランテ」という発想。
アーサーがジョーカーに変貌する過程を見せられながら、
「個人」と「多数」というものの、見えざる戦いを見せつけられたような映画でした。
映画としては10なんですが、実社会に生きてるものとして、
いや、でも、これを理解してしまってはという葛藤もあるし、
現実のソフィーに起きたかもしれないことを想像すると不安で仕方ないので9にします。
((追記))
公開前の予告を見直して思いました。
予告編のコピー。
「本物の悪を見る覚悟があるか」
違うと思います。
「本物の悪を 生んだ理由を 見る覚悟があるか」
です。
ひとりひとりの無関心が、自己利益が、傲慢が、
その欠片にでも、自分が関わらなかったと誰が言えますか?
<<さらに追記>>
友人の、
「結局、これ全部、カウンセラーに話したジョーカーのデタラメを
映像にしてるだけなんじゃないの?
アーサーなんかいなくて、実在してる最後のジョーカーだけで」
という意見に、ゲッと息を呑んで、
なんだか全部、腑に落ちた気分になりました。