33.《ネタバレ》 総じてよくできた作品だと思うが、まるで「理路整然と美しく作られた箱庭を上から見つめている」気分になる作品でもある。
地震そのものを巨大なミミズの形にシンボライズさせ(そういえばミミズは「地竜」とも言うんだよなぁ)、選ばれた人間がその発生や活動を食い止めているというのが本作の基本設定である。地震の予知と阻止は、我々現実の人間にとっても夢であり憧れだ。本作は、我々の普遍的な願望を取り入れたファンタジーとなっているのだ。
物語の主人公は、宮崎県に住む女子高生・鈴芽だ。幼いころの不思議な記憶がある彼女は、人知れず地震を食い止める任務を持つ大学生・草太と出会う。(鈴芽にとって)魅力的な外見を持つ彼は、神道的祝詞を唱えたり、手で印を結んだりしながら、日本各地の廃墟にある扉(後ろ戸)から現れるミミズを封印する。ここで物語に少女マンガ的要素やヒーロー物の要素、セカイ系の要素も加わっている。さらに言えば、廃墟ブームを取り入れた設定は、そこでの封印シーンが(周りに人がいないために)作画の面で描きやすく、カタルシスが得られやすいというメリットも持つ。
ミミズを封印していた要石(かなめいし)はかわいらしい猫の姿となって、人目を気にせず日本各地を巡りながら北上していく。なぜか、その要所要所にはミミズが封印された扉がある。草太が、猫によって、鈴芽が子供の頃に使っていたお気に入りの椅子に姿を変えられてしまい、鈴芽は、草太の手助けをしようと扉封印の旅に同行する。猫はあちこちで写真に撮られ、ハッシュタグをつけた形でネットにアップされ、それを手掛かりに鈴芽たちは猫を追う。物語を象徴するマスコットキャラが誕生し、その後はネット社会の描写を取り入れながらロードムービーとして物語は進んでいく。
このように、本作には幅広い観客の目や心を惹く様々な要素が巧みに織り込まれている。観客を満足させようとあの手この手で情報を並べて入れ込み飾り立てていくのだ。本作を箱庭にたとえたゆえんである。
実際、ミミズの封印シーンはカタルシスのある見せ場となっているし、草太に起こる中盤のさらなる悲劇は涙を誘う。少なくとも、観て後悔する作品ではない。
だが、心から満足できたかといえば、そうとは言えない。以下に二つの理由を書いてみたい。
まず一つ目の理由は、猫がなぜ鈴芽を助けるのかがわからなかったことだ。上記のように、猫はわざわざミミズが封印された扉があるところに姿を現わす。物語後半では、鈴芽の生まれ故郷に同行するのだ。鈴芽たちは「敵」に守られながら「敵」を封印しようとしているのだろうか。訳がわからない。結局、後半の展開への感情移入が阻まれてしまったのだった。
二つ目の理由は、箱庭の負の部分になぞらえて述べれば、上からきれいに見える一方でその内部に入り込めなかったことや、作品を主観的に楽しめずどこか疎外感さえ残ったことだ。
まず、本作のあちこちに散りばめられた、あまりにもあからさまな庵野秀明・宮崎駿・細田守各監督作品のリスペクトやオマージュからは、仕込み感や作り物感・メタ的感が強く感じられてしまった。
それ以上に大きかったのは、本作で鈴芽にふりかかる一連の困難が、まるで鈴芽の成長を助けるように、鈴芽の過去のトラウマを払拭させるように思えてしまったところだ。周りの様々な環境や状況によって鈴芽に降りかかる苦しみが、鈴芽に試練を与えながらも同時に鈴芽を引き立てているように見えてしまったのだ。
僕はここである言葉を思い出す。「神は乗り越えられない試練は与えない」。新約聖書にあるこの言葉は、現実の様々な難題で心身が消耗している人に対して、励ましの目的で使われることが多い。製作者は、本作の鈴芽をこの言葉の体現のために描いたのではないかと思えてしまうのだ。
…とまあ、いろいろと細かく書いてみたが、単純に、普通の女子高生に超絶アクションをさせることの限界が露呈しただけなのかもしれない。男のようにあちこち出血させてズタボロのケガまみれ姿にさせるのは難しいからなぁ(それをさせると作品の“色”が大きく変わってしまう)。
これまで観てきた『ほしのこえ』『君の名は。』の印象も併せて考えると、僕と新海誠監督作品との相性は良くないのかもしれない。