16.《ネタバレ》 だいぶ前に今話題のベストセラーだという原作を読んだときはびっくりしました。
小説としては落第点レベルで、それは「時間が逆行する世界で5年おきに30日出会う」という作劇上都合がいい何の説得力もない設定を安直に使ってるからで、ちゃんとした編集や小説教室であれば「いくらなんでもこの設定は…」とダメだしされるのは自明なレベルだったからです。
よくこれ出版したよな、と驚き、書いた人が3流のラノベ作家だと知り妙に納得したのを覚えています。
という事で、この小説の映画化と聞いても食指は伸びなかったわけですが、なんか映画の評判がいいので観てみると…あれ?意外と悪くありません。
自分のペースで読みその内容をしっかり把握できる小説と違い、製作者側の作るペースでストーリーが流れていく映画では観客は安直な設定について深く考える時間がないですし、そのせいでしょうか、映画界ではこのくらい荒唐無稽で安直な設定の映画は実に沢山あるからです。
しかもわりと高く評価されている映画もあり、一例をあげれば「アバウト・タイム 愛おしい時間について」なんかもこの映画に負けず劣らずの安直設定であるにも関わらずそこはあまり問題にされず「いい映画だ」という評価が定着しています。(私は設定にしらけてまるでダメでしたが、多くの人はそこが気にならなかったようです)
小説であればもうちょっとうまく設定練りこまないと「いや、もうちょっとなんとか」と言われそうな安直設定も、映画であればあまり気にならない人が多いんだろうな、と。
そこが映画と小説というコンテンツの持つ特性の違いなんでしょう。
で、そんな映画界であれば、この原作の安直設定も(小説版ほどは)気にならないのです。
ギリでまるっと受け入れる事が可能なレベルで、そういう意味ではこの原作はそもそも映画向きだったんだと思います。
あともっと大事なのが、監督(製作陣)の手腕がいい事。
原作をよく理解した上でで映画として実に上手に演出しているからこそいい映画になってるわけで、これも一例をあげればタイトルが出るタイミングです。
映画中盤の折り返し15日目でタイトルが出るわけで、これだけを見てもよく考えて演出している事がわかります。
何も考えず映画を観ていた人であっても、あれここでタイトル出るのは意味があるの?と気づきますしね。
なんかダラダラと書いてしまいましたが要するに
①小説としては失格レベルの原作も意外と映画向きであった
②いい製作スタッフに恵まれた
の2点があったため、この映画は傑作に近いレベルの出来になったんだなぁ、と。
何しろ原作読んだときは設定にシラケちゃって泣かなかったのに、すでに話を知ってるにもかかわらず映画を観たときは泣きましたからね。
それだけでも映画はよくできていたと思うわけです。
まぁ、逆に映画だから難しい点もあって、たとえばラストの方で彼女ルートが早回しで再生されるわけですが、あまりに早回しすぎて、彼女の30日目(彼氏の1日目)、二人がいちゃついてたアパートが貸し出し中になってて彼女がそのアパートを見つめてから電車に乗る…わけですが、多分観客の半分くらいはそのアパートのシーンの意味とかちゃんと理解できてないと思うんですよ。かといってセリフなどで説明しても野暮ですからここは彼女の演技でわかってよ!とするしかないわけで、映像で表現するしかない分逆に説明不足になりがちな映画というコンテンツは観客に依存する部分が小説以上に大きい面もあるんだな、と思った次第です。