144.この映画を観た誰しもは、“美しすぎる一夜”は、美しいままの「思い出」にすべきだと、考えることだろう。
この映画の主人公の男女も、ちゃんとした“大人”なので、一時の“甘美”に溺れることなく、「朝」の訪れとともにちゃんと一旦断ち切って、それぞれの旅路に戻っていく……一応は。
そのまま付き合って、結婚しても、きっとこんなにも幸福な夜は二度と味わえないことはきっと二人共分かっている。
それでも「再会」の約束をせずにはとてもいられなかった。
失望することが分かりきっている選択をすることは、愚かなことなのだろう。
けれど、その愚かで、滑稽な様こそが、「恋愛」であり、結局人間にとって、それ以上に優先されるモチベーションなんて有りはしないのだと思える。
僕自身は現在結婚5年目で、まだまだ酸いも甘いも経験値としては序の口程度だろう。
ただ、もしこの映画の二人のような美しすぎる思い出の夜があったとして、その綺麗なままの思い出を、時に辛辣な現実と比較して、ただただ「今」を悲観することほど不幸なことはないと思う。
そんな一夜を過ごせたならば、その思い出を抱えて、二人、たとえ罵り合い続けてでも共に生きたほうが、やっぱり幸せなのではないかと思える。
見知らぬ外国人夫婦の日常的に繰り広げられているのだろう喧嘩がきっかけで、この映画の二人は出会う。
それは、この二人に向けての何かの暗示なのかもしれない。
それでも、冷静を装った“大人”を理由にただ離れることなんて出来ない。
それが恋愛、それが人間、残酷で、だからこそ眩い。
ふいに出会った愛しい人と、夜通しを歩き通したことによる疲労感と多幸感の中でまどろみに沈んでいくラストシーンのヒロイン。
目覚めた時、彼女は何を思い、どういう人生を歩んでいくのか。
20年前の公開時にこの映画を観たならば、この後の彼らの人生に思いを巡らせつつ、気になってやきもきしたことだろう。
それはそれでこの恋愛映画の醍醐味だったことだろうと思う。
しかし、幸か不幸か、2015年のタイミングで今作を初鑑賞した僕は、彼らの人生をあと映画2作品に渡って確認することができる。
“美しくすぎる一夜”の後、残酷な時の流れを経て、一体二人の何が変わり、何が変わらなかったのか。
それを確かめることは、とても恐ろしくもあるが、やはり楽しみでならない。