54.《ネタバレ》 【ドクター・モロ―の島:1977年-以下、77年版と表記します】の投稿を機に、興味がわいたのでDVDをレンタルし初鑑賞。さて結果は…
まず、マーロン・ブランドさん扮するモロ―博士の白塗り&サングラス姿には、当初「科学者というより教祖様のよう…」と違和感がありました。ただ、宗教絡みの台詞もあったので、教祖という印象もあながち的外れではなさそう…と割りきりました。
次に、【獣人】達については、特殊メイクが【77年版】に比べ進歩したかどうか以上に、その人数に感心しました。メイクスタッフさん達は、かなりの大所帯だったろうと推察します。CG(モーション・キャプチャ)での表現が主流の現在の映画界では、これほど大規模な特殊メイクの実践は、もはやあり得ないだろう…と一抹の寂しさを感じました。
ただ、モロ―博士の亡き後、ハイエナ一派とアザゼロが権力を手中に収めんとするシーンは「長い…【77年版】には、こんな場面は無かったじゃないか」が本音でした。何故なら、銃を乱射し、破壊の限りを尽くし、ニヤニヤしながら相手の命を奪う…という一連の場面は、アメリカ映画における【犯罪者集団の典型的な描写】という印象を受けたからです。こうした描写が好きでない私には、大変、苦痛でした。
一応、ラストに「時折、暗たんたる思いになる。それは、世の人間の中に、あの獣人たちの影を見出す時だ」というエドワードのナレーションと共に、現実の記録映像が流れます。これも【77年版】には無かったものであり「なるほど。博士亡き後のシーンは、これを伝えるために必要だったんだ」とわかりました。しかし「現代社会に警鐘を鳴らすラストだ」と響くには至らず…何故なら、ナレーションとは逆に、私は上述の通り「ハイエナ一派やアザゼロという獣人たちに、人間の影(犯罪者集団と同様の邪悪な面)を見た」からです。もともと、博士が研究の目的について「人間の心に巣食う邪悪な遺伝子の要素を破壊し、完全なる無垢な(純粋で心が美しく争いを知らない)生物を創ること」という趣旨のことを述べているため、なおさら、そのように感じたのかもしれません。
勿論、ここで言う“影を見出す”とは、厳密には“片鱗を見る”という意味合いなのでしょうが、それでも獣人たち全員がハイエナ一派やアザゼロと同様だったわけではありません。「獣人たち」と一般化するなら、長老、アサシモン、マジャイ、ムリン、ヒロインのアイッサも、ハイエナ達のように振る舞わなければ、ナレーションとの整合性が取れないのでは…と思うのです。
鑑賞後、図書館で原作(橋本槇矩訳,1993年,岩波文庫)を借りて読んでみました。すると、訳語は異なっていましたが、ラストのナレーションの言葉は【物語の要】だとわかりました。同時に、上記の【無垢←→邪悪】を意識した研究の目的と、それに対応する【善良なアイッサ/邪悪なアザゼロ/博士亡き後のハイエナ一派の行動】は、この映画の脚色ということも確認しました。しかし繰返しになりますが、ナレーションが原作のままでは整合性が取れておらず【練り込み不足】という印象を否めません。
一方、【77年版】は“獣人たちの影”に関するものを削除するなど原作を大幅に脚色しているとわかりましたが、むしろ、そのことで「まとまりがあり、わかりやすくなっている」と再認識しました。脚色に関しては、↓の【鱗歌さん】がおっしゃる通り、当作品は「半端に原作を大事にすると大惨事になるという例」と言えるかもしれません。
別途、仕入れた情報では、マーロン・ブランドさんやヴァル・キルマーさんが、現場を相当、混乱させていたそうで…【練り込み不足】は、それが影響したからかも…と思ったりしました。
一方、【77年版】は、現場のチームワークがしっかりしていたのでは…と推察しています。そうでなければ【77年版】のオリジナルである【本物の猛獣と獣人達との生身のアクションシーン】は成功しなかったでしょう。逆に言えば、もし、同じ場面を当作品で実践したら…現場のギクシャクさが、一層の大惨事を招いていた…かもしれません。
さて、採点ですが…投稿の前は「色々と理屈を並べたけど、結局、少年時代から馴染みのある【77年版】のほうが好き、と述べているだけで、辛口の評価は申し訳ないかな…」と思ったのですが、他のレビュアーさん達も低評価が多いので安心しました(笑)。率直な印象だと4点ですが、混乱した現場を仕切らざるをえなかったであろうジョン・フランケンハイマー監督の気苦労に思いを馳せて+1点、スタン・ウィンストンさん率いるメイクスタッフさん達への敬意を表して+1点、計6点とさせていただきます。
*【ドクター・モロ―の島:1977年】は、別途、レビューを投稿しています