260.《ネタバレ》 素晴らしい作品だと思った。
何か心に訴えかけるものがある。
本来ならば、もっと若いうちに見て影響を受けておくべき作品だったのかもしれないが、
しかしいまの歳で見ても心に感じるものがある。
それはキーティングの言葉や行いによってである。
彼は良き教師であり、観客であるはずの僕までもが、良き授業を受けているような感じがする。
生徒の心を縛り付ける授業よりも、生徒の心を解放する授業の方が大切ではないのか。
一人一人の魂が大切なのだ。
キーティングの授業では一人一人に魂を与えた。
しかし他の教師の授業では、どうだったのだろうか?
もちろんスキルは大事である。
しかし人間は「心」で生きている生き物だと思う。
「心」を縛りつけ、
一人の人間の個性、その人に秘められた無限の可能性だとかいったものを紡いでしまってはいないのだろうか。
もちろん伝統的で規律を重んじるような場所というのは美しくもあるのだ。
しかしそれとは対立するように、人間は「自由である」ことも大切なのであるから非常に難しい。
しかしキーティングは「自由」について教えてくれた。
「自由」こそは人間らしさなのではないのか。
しかし「自由」な考えは、(ある種の危険であり)集団から排除されやすいのだとも教えられた。
自由とはいっても、犯罪しろとか、何もしないとか、そういう自分を堕落させることではないはずだ。もっと上を目指すことのはずだ。
、、、父親は非常に愚かであった、といわねばなるまい。
「お前のために犠牲を払っているんだ。だから期待を裏切るな」「お前のために」「お前の為」「お前の為」って、
そりゃ自分の為だろうが、このタコ親父が~!!
「相手のため」と「自分の為」を混同すんなや!
相手が「お前の為に」とか覆い被せる様に言ってくる場合、そこに何か恐ろしい正体が隠れていると思っていい。
「世間体」で生きてきた人間ってヤツは、相手の意見を正面から聞こうとはしない。
そう、あれは確かにお父さんが殺したのだ。
キーティングの教えも素晴らしいが、
それは別に、若い生徒達の情熱と希望と張り裂けそうな感性にも少し影響された。
「いま」=それは自分の「心」。「いま」こそは自分の全て。その瞬間を強く感じて生きるのだと思う。