8.自分自身、結婚をして丸々15年が経過した。主人公たちの年齢設定や結婚生活の期間は、ほぼ自分の現在地点と重なり、“夫婦ドラマ”としてとても感情移入しやすかった。
この映画の主人公たちほどは、自分たちの夫婦関係はすれ違っていないつもりではあるけれど、彼らが織りなすその関係性の変化とそれに伴う悲喜劇は、それでもダイレクトに突き刺さる部分が多かった。
こんな悲しみや苦痛を背負うくらいなら、むしろ最初から出会わなければ良かったのに、という思いは、その程度は様々だろうけれど、きっと世界中の“夫婦”が必ず抱えるジレンマだろう。
松たか子演じる主人公は、「離婚」をするその日に夫を亡くし、様々な感情の行場を見失ったまま、虚無な日々を過ごしていた。
すでに心が離れていた夫の死を悲しんでいるのか、それとも離婚できぬまま“夫婦関係”を続けざるを得なくなってしまったことに苛立っているのか、彼女自身その心情の“正体”を見いだせず、静かな絶望を抱えているように見えた。
そんな折、3年待った取り寄せ餃子をものの見事に焦がしてしまったことで、この世界の堰が、文字通りに崩れ落ちる。そして彼女は、夫と出会った15年前の夏の日をループする――――。
15年後の夫の死(列車事故)を回避するために、主人公が画策するあれやこれがとても間が抜けていて面白い。
肉屋に立ち寄らせないために若き夫をコロッケ嫌いにさせようとしたり、本屋に予約していた学術書を未来から持ってきて混乱を招いたり、緊急停止ボタンの存在を刷り込んで別の大惨事が起こる未来を生み出しそうになったりと、彼女は奔走するけれど、どれも上手くいかない。
幾度もタイムリープを繰り返し、途方に暮れる主人公は、ある決意にたどり着く。
そう、そもそも結婚なんてしなければいいのだ、と。
15年後の妻と15年前の夫が、繰り返し紡ぐ数時間のラブストーリーは、とても眩くて、ユニークだった。
他愛もない会話劇で上質なドラマを創出している点においては、「最高の離婚」「大豆田とわ子と三人の元夫」等数々の名作夫婦劇を生み出してきた坂元裕二ならではの作劇だったと思う。
主演の松たか子は、「大豆田とわ子と三人の元夫」でもそうだったように、阿吽の呼吸で坂元裕二が生み出したキャラクター像を体現し、魅力的な存在感を放ち続けていた。
その一方で、タイムリープものとしてはいささか詰めの甘さが目立っていたようにも思える。
そもそも主人公が15年前にタイムスリップしてしまう経緯がとても強引だし、その後本人の意思で簡単に時間移動を行えてしまうストーリー展開は流石にチープすぎやしないか。
また、タイムリープを行っている主人公は15年前の夫との“デート”を繰り返しているわけなので彼に対しての距離感が縮まっていくことに理解できるけれど、反対に松村北斗演じる若き夫は、常に初対面なわけであり、双方の距離の縮まり方に違和感を禁じ得なかった。
最後の“告白”後のくだりも、いくら学者の卵とはいえ理解が速すぎないかと思わざるを得ないし、そのまま恋に落ちるというのは、ラブストーリーとしてもややチープに感じた。
若き夫が真相を知るクライマックスの展開についても、あまりにも直球過ぎたなと感じる。
自らの未来の悲劇を、あれほどダイレクトに説明されて、それでもその未来に突き進んでいくというのは、流石に非人間的ではないか。
彼が真相に触れる経緯については、主人公が落とした“付箋”のみで薄っすらと感づく程度に留めたほうが良かったのではないかと思う。
自らの死を頭の片隅では感じ取りつつも、それでも眼の前に現れた愛しき人と過ごす時間を選ぶ。そういうバランスのほうが、この映画が描き出した“夫婦愛”がもっと際立ち、映画的なマジックも生まれたのではないか。
ただし、それでもこの映画が坂元裕二ならではの会話劇と夫婦劇で、作品としての品質を保っていることは間違いない。
結局、“未来”は変えられなかったけれど、主人公の奔走により、15年間の夫婦生活は幸福なものになった。それは決して現実を歪曲したわけではなくて、この映画の妻と夫が、本来歩むはずだった生活を取り戻したという帰着だったのだと思う。
夫の死をちゃんと悲しみ、ちゃんと泣くことができた日、取り寄せ餃子が届く。
今度の餃子はきっと上手く焼けたに違いない。