17.《ネタバレ》 私が間違っていました。どうもすいませんでした。すばらしい映画です。
【強烈ネタバレあり】 (中略)
本来の日本の社会とは、この映画に出てくる柄本明の駄菓子屋さんのように、わかって
いても事情を汲んで見逃す人たちの社会である。逆に飴を与えるなどし、時間をかけて
本人の気付きを待つことらへんに、落とし所を見出していたはずである。
そう、この映画はじつは祥太という少年の「気づきの映画」でもあるのだ。
「妹にはさせるなよ。これ」秘密のサインであったはずの、指をくるくる回す行為まで
見抜かれていた。
そのショックにより、少女の誘拐が世間で騒がれてすらまだ動き出さなかった、映画に
おける「仮家族の物語」が、ようやく静かに動き出すのである。なんといきなり土砂降り
の雨が降り出すのだ。このことは、この映画がじつは、タイトルに反して家族でなく
「少年を主観とする映画」であることの、最初の証左となる(映画とは量子だ!)。
ほぼ同時に安藤サクラは職場をクビにになり、フランキーとの交合に慰めを求めること
になる。さらにその夜、花火大会の「音」だけを聞いて家族たちは「もう、(この物語
も)終わりだね」とつぶやくことになるのである。
(中略)
「最後の思い出」、と思ったかどうかはわからないが、家族は唐突に海へと向かう。
この場面において、海辺で遊ぶ家族を目で追いながらなにか言いたそうに口を動かす
樹木希林の「最期」のショットは強烈だ。
彼女は何を言いたかったのだろうか。いや、言おうとしなかったのだろうか。
希林の死後、少年は両親が犯罪を犯し、その年金やへそくりを搾取する様子をも目の
当たりにする。
気づきを経た少年は、もうそれらの行為を容認できない。そのことはフランキーから
車上荒らしに誘われても、参加しないことによって示される。少年は迷い始めた、という
より、両親に対する明確な疑問を持った。
次の展開点のきっかけをもたらしたのは、またしても柄本明である。「忌中」という
字を読めなかったにしろ、駄菓子屋が休みであることを知った二人は、しかたなく二人
だけでスーパーへと向かうのである。
入店前、「ここで待ってて」と言ったにもかかわらずスーパーに入ってきた妹が、
見よう見まねで指を回し、万引きする素振りを見せる。それを見た少年は、ついに
「仮家族の物語」を自ら破壊することを決断するのである。
結果的に一家は拘束され、安藤サクラの「おたふく風邪泣き」という名シーンを経て、
仮家族は解散させられる。
サクラは面会に来た少年に対し、はじめて駐車場で出会った時の状況を伝え、フラン
キーに対し「この子は私達とじゃだめなの」とつぶやく。彼女は少年の変化を見抜いて
いたのだ。
少年は翌日、ラス前のバスのシーンで、フランキーに「わざとつかまった」と告白する。
バスの座席に座った少年は、フランキーの呼びかけにすぐには振り返らなかった。その
後しばらくたってから振り返るのである。ということは、少年にはフランキーの声が
じつは聞こえていて、あえて無視したのだ。
なんというリアル。ごく僅かな動きと表情のみで、もう二度と会わないという決意の
固さを示した!
このように、この映画はけっして(一部で批判されているように)万引き行為を擁護
するような映画ではない。むしろ逆に、悪事に対する模範的な回答をしている映画だと
言うこともできる映画である。
少年がスイミーの物語に関して「でもそれじゃあ大きな魚が可愛そうだよね」と言った
ように、現実は物語的明快さでは捉えきれない面が多々ある。映画はその多義性によって、
世の中のそうした面を逐一描写できる。
「複数の事象」を並行して示すことにより、世の中の複雑さ、価値観の多様性を同時に
示すことが可能な芸術が映画なのだ。観客である自分と、スクリーンの自分(たち)の
複数の視点や価値観や時空間が「同時に存在」していることが「実感」できること。その
ことこそがまさに映画の快楽なのだ。
忙しいスケジュールの中、こんなにいろんな意味で最高級の映画を作り上げてしまった
実力には感嘆するしかない。
この監督は我が国の誇りであり、宝である。
おめでとう、そしてありがとう。
私も自分のいる意味について多少勇気をもらえました。
最後に、蛇足。先述したようにある立場からすればやむを得ないことかもしれないが、
ヒステリックな荒らし行為によってこのすばらしい映画の価値を少しでも損なうことは、
どうかなるたけ避けていただきたいと思う次第である。