504.この「十二人の怒れる男」を高校時代、有志のメンバーで文化祭の出し物として演じました。
教室を一つ借り切って半分を舞台、半分を客席に設えた即席のミニシアターでの公演です。
場面が部屋1か所だけで、劇中の時間経過が現実とぴったり一致している点が幕なしの舞台で演じるのにうってつけ。また登場人物がすべて男というのも男子校の生徒として都合が良かったんです(泣)。
テレビ放送をテープレコーダー録音してメンバーが耳コピ縦起こししたものが台本です。今では考えられませんがテレビの音だけテープに録音するのって当時けっこうやっていたものです。
サブスクのストリーミングなどない当時気に入った映画を好きな時に見るわけにはいかないですから、せめて音声だけでも再生して楽しんでいたのです。
とは言えこの映画、よほど視聴率が取れたようでしょっちゅう放送してはいました。
手元にあるのは音声の情報だけ。画面は思い出しながら、また想像で補って演技を付けたわけです。
これをいま映像を見直してみるといろいろと気づくことがあります。これは違っていたとか意外と合っていたなとか。
じつは僕はこの映画のテーマについて勘違いしてきたのだと映像を見なおして気づかされました。この映画の存在意義の根本について僕は思い違いをしていたんです。
僕は当時この映画を、冤罪により裁かれようとする少年を一人の男の努力で守り死刑を回避するヒューマンドラマといったように考えていました。
ところがそうではない。この映画が僕らに求めているのは、「被告は刑が確定されるまでは無罪と推定される」とする法律の在り方に対しての議論なのです。
この少年が実際に殺人を犯しているかどうかは問題ではない。むしろこの脚本家の設定の中では少年は実際に殺人を犯しているのでしょう。
ぼくがそう考えたのは、画面に現れる三人の人物の表情のためです。
1人目は冒頭だけ登場する裁判長。
毎日同じような事件を担当しているのかウンザリしたような表情を露骨に見せています。
「この裁判の結果も話し合うまでもなく有罪となるだろう、決まりきっている」という表情です。
2人目はその後にちらっと映る被告人の少年。
彼はこの後自分の運命を他人に決められる状況だというのに、顔になんの表情も浮かべていません。
彼も自分のしたことの結果が決まりきったものになることを承知しているので、期待も希望も焦りも猜疑もその表情に現れないのです。
この後、陪審員たちの間で事件に関して「根拠のある疑問」が次々と浮かび上がり、評決は劇的などんでん返しを見せるのですが。
3人目。これがかなり重要です。
映画の終盤で陪審員たちがそれぞれの帰途へ向かう中でただひとり、主人公男性に話しかける老人の表情です。
この老人は無罪を主張した主人公に最初に同調する人物です。
主人公にしても無罪を言い出したのは、「すぐに死刑を決めてしまうのはかわいそうだから」という動機にすぎませんでした。そしてこの老人も、「主人公がひとりで頑張っているのを見て気の毒なので」同調したに過ぎないのです。
そんなところから全員の評決が変わっていくストーリーが実にミラクルなのですが。
この映画にはミラクルがもう一つ。陪審員たちはみな名前で呼ばれず番号で呼ばれます。話し合いが進んでいくにつれてそれぞれのキャラクターの生い立ちも現在置かれている状況もものの考え方もすべてが露わになってくるのですが、名前だけがわからない。そして映画の最後に主人公とこの老人だけが名前を名のりあう。
僕たちはこの2人以外のキャラクターについては名前以外のことは何でも知っている。ところが名前を知っているこの2人についてはどういった人物なのか今一つ詳しいことはわからない。どうですミラクルでしょう。
そしてこの老人が主人公との別れ際、ふと奇妙な表情を見せるのです。
まるで「本当にこれで良かったのかな?」といったような表情です。
映画の最後にこんな表情は見せないものですが、これは観客にこの映画の内容を遡って考えてほしいという演出でしょう。
深い。
それに比べて僕たちが演じた舞台では、実はこの老人役は僕が演じたのですが、「やりましたね」みたいなさわやかな表情で主人公と握手をかわしちゃいました。
今考えるとちょっと寒いです。
アメリカで今でもよく知られるサッコ・ヴァンゼッティ事件やジョー・アレディ事件といった不幸な冤罪事件が起きてからそれほど離れていない時代です。
また、映画の中のようにさまざまな理由で偏見を持つようになった人間が被告を有罪と決めてかかるようなことの多い社会だったでしょう。
この映画がもつ意味はとても深いです。
ぜひ映像と一緒に見ましょう(当たり前)。