53.《ネタバレ》 この作品が困っちゃう点というのは、「意外にマトモ」ということでして、あの当時の騒ぎ(?)は何だったのか、あの「これ以上見せられない」というCMにビビりまくってた自分は一体、何だったのか。以下、3つの観点から、作品を味わってみます。
➀ 食人族に喰われた模様を捉えた実際の映像、っぽい触れ込みであったとは言え、作品自体がコレを「実際の映像」と言っているかというとそれは微妙で、あくまで作品前半は普通に役者が演じ、ショットも切り替わる、フィクション作品としての描写。この部分は、そんなにクォリティが低い訳でもありません(これよりヒドい演出の作品はナンボでもある)。そしてその登場人物たちが作品後半を「実際の映像」として扱っているんだから、後半だってフィクションな訳です。
むしろ作中では、この後半の映像を残した連中のことをインチキ呼ばわりする場面すらあるのですが、作品中盤で示される彼らの別の「インチキ映像」とやらが、本当にインチキなのかどうなんだか。そうなると作品後半の真偽も不明確になってくる。動物を殺し解体するシーンも登場し、これは明らかにホントに殺しちゃっているから、真偽はますます曖昧に。
ホントとウソの階層構造。この作品のメタな構成、画期的なのでは。
フィクションが内包する、真偽不明のアヤしさ。そういえば、論理学において「AならばB」という命題があった時、Aが真でBが偽であればその命題は偽ですが、Aが偽であれば、Bの真偽によらず命題は真となる。アレと同じですね。違うか。
② さらにこの映画、煽情的な作品として作られているのは間違いないけれど、一方で、批判精神みたいなものも織り込まれています。で、煽情的な部分と文明批判的な部分とが、有機的にリンクしている、これが心憎い。良質なポルノ映画を見た時のような不思議な充実感、煽情的であるがゆえに持ちうるパワー、煽情的であることの必然性が、確かに感じられます。
そりゃま、撮影のために動物殺したらアカンでしょ、と言われたら返す言葉もないんですが、それでもここでは、カメの解体を見て嘔吐した女性が、焼いたカメの肉は美味しそうにパクついている、という皮肉が描かれており、カメの解体をこれでもかと執拗にカメラに収めた上で「後で出演者が美味しくいただきました」とばかりにそれを食した彼らが後に、自分達が解体され美味しく食されてしまうという、因果応報が描かれております。レイプの描写もやはり、因果応報の一種として描かれていて(いきなりアソコをチョン切られてるしなあ)。
その一方、前半パートでは、フルチンになれば裸族と仲良くできる、という描写もあって、こんな凄惨な作品なのに、ユーモアも漂います。ポルノ的語法の強み、ですね。ハダカで相手の警戒心を解く、という同じような発想をしておきながらパンツは脱ごうとしなかった『北京原人 Who are you ?』の緒形直人は、反省すべし。
③ さらにさらにこの映画、最近では時々見かけるようになった「登場人物自身が撮った映像」というモキュメンタリの、先駆的な作品、と言えると思うのですが、なかなかに巧みな演出で、その路線としてはかなりの完成度だと思います。いよいよ殺戮が開始される肝心なシーンでカメラがブレまくるのは、正直、ゴマカシの演出なんですが、「ここだけは見せたい」という部分はちゃんとカメラが押さえている、というのが心憎い。混乱する映像の中でも、アレやコレやがチョン切られたことだけは、伝わってくる。意外に丁寧な仕事をしているのでは。
カメラ1台だと視点が固定されてしまう、という問題も、「二人がカメラを持っている」「テレビ放送用に編集されている」という設定で、楽々とクリア。カメラを持った登場人物が映し出され、次にそのカメラの映像に切り替わることで、何となくリアリティを感じさせます。その切り替えは、ややアバウトな印象はありますが、リアリティなんて強調すればするほど逆にウサン臭くなったりするもの。いい感じのユルさに収まっていて、この作品、早くもモキュメンタリの「あるべき姿」に到達してしまったのでは。
人の死を収めた映像を編集し、音楽まで付けて、テレビ放送という商業ベースに乗せようとする資本主義。それこそが真のカニバリズムと言えるのではないか……しかしそれらもまた、商業映画という器の中の世界に過ぎない、という無限の階層構造。③が②を呼び、②が➀を呼び起こす構成。
ここまで褒めたら10点付けざるを得ない雰囲気になってきちゃったけど、もちろん満点映画という訳ではなく、単に④以降を書かなかっただけなので、7点で勘弁してください。
そういや、助監督としてランベルト・バーヴァもスタッフに加わっていたんですね。エンドクレジット眺めてて初めて気づきました。。。