7.《ネタバレ》 それこそ正に、オーラスで尾野真千子が演じるひとり芝居のタイトルの様に、私には今作、少し宗教の様な話だ、と思われたのですね。それも、私が思う本来の形の宗教の話に、とでも言いますか、大方の宗教って、結局はヒトに「正しく」在るコトを求めるモノだと思っていて、その為にナニが=どう生きるのが「正しい」のか、とゆーのを宗教は戒律という形で示すモノだと思っています。その一方で、この世界とゆーのはまた、ほぼほぼ全く「正しい」と言い切れる様なモノではないのも確かだとは思ってまして、時としてそんな宗教上の正しさとゆーのを完全に嘲笑うかの如くに不条理で不公平なモノである、とも(やはり)思っているのですね。私が考える宗教とゆーのは、そんな間違った世界の中に於いても、自分が自分の信じる何らかの「正しさ」に唯殉じる様にひたすら真っ直ぐ生きてゆくコトが出来たのなら、最期、死ぬ瞬間に自分だけは、自分が確かに正しかったと信じて死んでゆくコトが出来るのだと⇒そして、その瞬間に自分以外にもう一人、唯ひとりだけ神が、貴方の他に貴方の正しさを知って呉れていると、それこそが宗教だと思って居るのです。
だから、今作の尾野真千子とゆーのはその意味で、その彼女が信じているのが理屈とか合理主義とかではなくて、世界がコレだけ間違っているのだから私はもうそんな世界の所謂「正しさ」なんて屁とも思わない、という「意地=彼女だけの正義」であるという意味で、私にはやはり少し宗教に近い話だと思われたのです。ですし、その彼女が信じる彼女の「正しさ」それ自体の中身であるとか、或いは彼女がそんな「意地」を抱くに至った過程とかにだって、まず個人的には十二分に共感できるとも思ったのですよね。そしてその上で、こんな世界で彼女の様な人間がその「意地」を貫き通すのが如何に困難なコトであるのか⇒だからこそそれが如何に尊いコトなのか、というコトを私が理解している(積りである)コトも含めて、私自身はやはり、今作の彼女がナニかドコか間違っている、などとは決して思えなかったのですね。それこそ、ヒトの在り得る「正しい」在り方の一つだと、確実にそう感じては居るのですよ。
例えば私が思う今作と類似する映画として、古くは『西鶴一代女』の田中絹代とか、また『㊙色情めす市場』の芹明香だとか、或いは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のビョークであるとかが、あくまで私個人の感覚の中では美しい上に何処か「神々しい」のは、彼女らがそーいった「理屈では無いモノ」を信じているからだ、とも思っているのですし、挙げた3作品はまた単純に、そーいった彼女らの美しさ・崇高さを描いてゆくのが主眼という作品だったとも思うのです。翻って、今作は重ねて、前の3作品に似た様な内容・テーマを擁する作品だと(一見には)思われたのですが、一方で最後まで観切ると実はそーいうコトでもなかったかな…とも思われていまして、それは端的にクライマックスに於いて尾野真千子(の意地)が「折れてしまう」から=彼女は天使ではなくて唯人間であったから=彼女の美しさとゆーのは唯「人間」の美しさであったのだから、と思うのですね。であるのならば、今作に描かれている筈の(他の)ナニか、とゆーのはまた、一つは私には確実に「この世界が(それでも)如何に素晴らしいか」というコトであったと思えています。がしかし、私は実は其処には=今作に描かれるその「世界の素晴らしさ」には、また正直あまり共感できなかったのですよね。これ程マデに・異常なマデに世界を極端に不条理なモノとして(最初から最後まで)描き抜いておきながら、ラストにほんの少し永瀬正敏がふたりを助けてくれたから(やはり)世界は美しい、と言うのには少し無理がある・ワリに合っていないと、そして何より、その美しさとゆーのはまた、もしかしたら更に不幸な片山友希を謂わば「生贄に捧げる」コトで得られた様なモノではないかと、そう見えてしまったのが理由だと思うのですね。
その意味では、私の今作の評点は本来、これより一点低いのでありますね。同じく「世界の素晴らしさ」を描いた作品であれば、直近ではそれこそ『すばらしき世界』の方が私には遥かに、その世界が素晴らしいというコトの「理由」に納得がゆくのですよ。でも同時に、今作にはもう一つ、実に素晴らしい「母と息子」が描かれて居る、ココにこそ、私は今作で最も共感が出来ると思ったのですよね。こんなに苛酷な境遇でも、否だからこそ、そして彼女が母親だからこそ、この息子がこんなにも立派な人間に育ちつつあるという、それがどんなに尊い事実で、また希望であるかと、そこには私は無限に納得して共感するコトが出来るのですね。確かに、観る大半の時間が極めて辛いという映画ではありますが、私はそれでも、耐えて観切って好かったとは思えました。