1.パリの地で、邦人相手の「便利屋」をこなしながら、デラシネ(根無し草)のように生きる主人公たち。尾美としのり、今井美樹、嶋大輔が演じる彼らは、何ものによっても連帯せずひとりひとりバラバラでありながら、その「独り」であるという意識において“連帯”している。そして、そんな彼らのゆるやかな結びつきこそが、この映画の、コミカルすぎずシリアスすぎない独特の「空気感」を醸し出すものに他ならない・・・。
これが劇場用映画の監督第1作となる太田圭は、自身のパリ滞在体験をモチーフに脚本を書き上げたという。その前の世代のように、海外滞在に何の特権性も希少価値も付加できず、その後の世代のように「自分さがし」の口実にすらならない、「ただ、何となく」といういい加減さというか中途半端さに、彼はじゅうぶんに自覚的だ。そこには希望も絶望もなく、自由も不自由すらもない。その中間をふわふわと浮遊する自分たちの、昨日に続く今日が、そして同じような明日があるばかり。たぶんそれは、パリじゃなく、これが東京でもニューヨークでも同じことだったろう。あの頃の「ぼくたち」は、本作の主人公たちと同じようにただ“浮遊”していた。漂っているという、意識だけがリアルなものとしてあった。この映画は、そんな「気分」をフィルムに定着してみせた、ほとんど唯一のものだと、あらためて思う。
そう、これは時代がバブルに突入する直前の、ぼくたちが「新人類」と呼ばれたあの頃の、ほぼ完璧な〈自画像〉だ。主人公たちの「ダメさ」を自嘲的に笑い、チクチクと胸をさす“痛み”を共有しつつ、この傑作でもなんでもない、けれどこの、ぼくでありキミやアナタの精神的ドキュメントを「見た」ことの記憶は、ムラカミハルキとミヤザキツトム(!)の“間”という、真の意味で「同世代人」の表現者=作品を持ち得なかったぼくたち1960年前後の者にとって、この上なく貴重なものだと、今更ながらというか、今だからこそ思うのだった。
最後に、この映画の今井美樹は本当に素晴らしい。彼女が見せる喜怒哀楽の表情こそ、ただ息をつめて見守り続けるしかない最高の〈スペクタクル〉だ。その記憶においてだけでも、ぼくにとってこの映画は“永遠”です。
《追記》劇場公開以来ずっと再見を果たせていない映画だけど、やっぱり深く愛着ある映画なので「7」を「8」に変更。ああ、見たいなぁ~。