7.月末の多忙さから逃避するかの如く、平日の深夜、偏頭痛を片手で押さえながら、この映画を観始めた。
この映画は、「違和感」に埋め尽くされている。
まず、明らかに作為的なアフレコの演出に大いなる違和感を感じ、戸惑った。
主人公のモノローグと映像と微妙にズレた台詞が交じり合い、違和感は更に深まり、冒頭からどこか奇妙な世界に放り込まれたような感覚に陥る。
そして、「やっとるか」「やっとるぞ」「がんばれよ」「よーしきた」と、まるで“記号”か“暗号”のように繰り返される言葉に対して、軽薄さを感じる反面、妙な居心地の良さを感じ始めた時、鑑賞前の偏頭痛はどこかに消え失せた。
太宰治の原作は未読だが、独特の繊細な心理描写を根底に敷き、彼ならではの“根暗”で、だけれども不思議な“陽気”さを携えた青春小説を、見事に映像化しているのではないかと感じた。
そもそもは、仲里依紗目当てで食指が動いた映画だった。ただ、拭いされない大いなる危惧もあった。
それは、監督が冨永昌敬という人だったからだ。彼は「パビリオン山椒魚」という映画で、結婚前のオダギリージョー&香椎由宇を主演に配し、あまりに倒錯的な酷い映画世界を見せつけてくれた監督である。
今作も、ある部分では倒錯的で、間違いなく“変てこ”な映画である。
ただし、今回はその倒錯ぶりが、太宰治の文体と絶妙に交じり合って印象的な世界観が生まれていると思う。非凡な映像センスと、独特の編集力が、純文学という創造性の中で見事に融合している。
明日はまた朝から仕事だけれど、深まる秋の夜長、こんな夜更かしも悪くはない。
そう思わせてくれる意外な秀作だと思う。