2.卒業式の「涙そうそう」に被せて挿入される思い出のフラッシュバック。担任からのメッセージを聴く生徒の表情へのズーミング。これらの「感動」演出はあまりに通俗的で品が無い。
公的な場であることが、撮影四年越しのクライマックスに至ってカメラの自重と緊張感を奪っているのではないか。
逆にこの映画は、日常の彼らの姿を捉えたシーンこそ輝いている。
例えば中盤のシーン。
ナオミと呼ばれる少女が、太鼓の練習の休憩時間にそっと場をはずす。
カメラは彼女を追い、ゆっくり階段の踊り場まで登っていくが、そのフレームが捉えるのは踊り場の壁と彼女の影のみ。「どうしたの?」という監督の声。続いて彼女の嗚咽が聞こえてくる。
カメラは壁と彼女の肩だけを捉えている。ここでナレーションによって彼女の家庭事情が語られるが、カメラは彼女の座りこんだ姿を一瞬だけフレーム内に入れ込むと、ゆっくりと後ろ向きに後退していく。
撮影者=監督は、彼女に寄り添い、肩を抱くことを優先し、彼女を撮らないことを選択した。
浦商の生徒や教師と同様、「撮ること」と葛藤し、悩みためらいながら関係を築いてゆこうとするカメラの誠実な揺れが胸を衝く。
映画は、本来ならばドラマティックな「見どころ」となるべき場面を何度か事後ナレーションですましている。
それは単なる省略ではもちろん無く、上記の1シーンに露わな様に繊細な感性を持つ彼ら「撮られる」側の苦痛を知り、デリケートで重要な人間関係の場には安易にカメラを踏み込ませまいとする倫理的な決断ゆえだろう。
彼女らの過酷な境遇。自傷のエピソードを自ら明るく語る彼らの真の苦しさ。それらは決して画面には表れてこない。
そこをこそ、観る側は汲み取りたい。