1.《ネタバレ》 下の妹たちが父親と町に出て行って、ひとり村に残る10歳の長女。彼女は家(というより、ほとんど“小屋”といった粗末さだ・・・)で茹でたジャガイモだけの食事を摂る。暗い屋内でそこだけ光がさす場所に座り込み、黙々と食べ続ける少女。ある意味とても孤独で痛ましい場面ではある。が、それ以上に、斜め上からの光を受けながらジャガイモを食べる彼女の姿は、あまりにも美しい。一種“崇高な”と形容したくなる鮮烈さと美に満ちているのだった。
この映画は、そういった思いがけないほど美しい場面や、目をみはるようなエモーショナルな場面のなかで、わずか10歳の少女を浮き彫りにしていく。その連続のなかで、悲惨なはずの(いや、常に咳き込んでいる彼女が置かれている状況は、「悲惨」そのものなのだけれど)長女の姿は、いつしかどんなにドラマチックな映画のヒロインよりも忘れがたい「ヒロイン」性を獲得していくのである。
中国の高山地帯にある貧しい村で、幼い三姉妹だけで暮らす彼女たち。風呂にも入らず、いつも同じ服を着たままのその暮らしは、村で飼われている豚や羊たちといった“家畜”とほとんど変わらない(この映画には、いたるところで動物たちの鳴き声が響きわたっている)。だが、妹たちや家畜の世話をしながら野良仕事もこなす、昨日と同じような今日を生きる長女の姿は、監督ワン・ビンの凝視するカメラの前で、いつしか「崇高」そのものの輝きを放ち出すのである。
なぜなら、この映画が彼女に見出そうとしたものこそ、人間の、というより“生きる”ことそのものの「神聖さ」にあるのだろうから。・・・いつも表情の少ない彼女が、村の男友だちと話すときに初めて少しうれしそうな顔をする。あるいは、ひとりぼっちで道ばたにしゃがみこみもの思う彼女を真正面からカメラがとらえようとすると、何気ないそぶりでその場を去っていく。そういったひとつひとつの映像が、ぼくたちの心を深く、深くうつ。同情なんてとんでもない! そのとき、彼女はほとんどロベール・ブレッソンの『少女ムシェット』や、『バルタザールどこへ行く』のロバ(!)に匹敵する生=聖なる「顕現」ぶりによって、ぼくたちをただただ圧倒するのである。