1.映画の“リメイク”は、古今東西数多あるけれど、同じ映画監督が「製作国」を違えてリメイクをすることは、実はなかなか珍しい事例なのではないか。
どうやら、そもそも同じ物語を別々の国(日本・中国・韓国)で映画化するという企画だったようだが、岩井俊二監督自身によるその着想は、とてもエモーショナルな映画世界上の多様性を生み出していた。
2020年に公開された「ラストレター」の中国版リメイクという認識のまま、ハイティーンからの岩井俊二ファンでありながら、今の今まで未見だった本作。
そこには、中国市場に向けた安易なリメイクなんだろうという誤解と、何となく日本版以上のクオリティは期待できないだろうという勝手なレッテルが存在していたと思う。
ただ、よくよく考えてみたならば、「作者」である岩井俊二自身が、両作とも監督している以上、そこにオリジナル、リメイクの境界などそもそも存在しなかったのだろう。
しかも、企画の経緯と、実際はこの中国版の方が先に製作され公開されていたことを知って、つくづく自分の浅はかさを感じた。
そして、繰り広げられたのは、見紛うことなく岩井俊二の映画世界であり、日本版と同等の傑作だったと思う。
出演する中国人俳優たちのことをまったく知らないので、松たか子、福山雅治、広瀬すず、神木隆之介ら日本版キャストに感じた華やかさは当然ないけれど、日本版と比較して何か違和感を生じるようなキャラクターや演技は皆無で、俳優たちの確かな実力と魅力が滲み出ていたと思う。
必然的に殆ど同じストーリーテリングでありながらも、国と文化の違いにより、この物語そのものが孕む“光”と“闇”の陰影が、より一層くっきりと深まって見えたことがとても印象的で、興味深かった。
特に「死」に対する諦観めいたドライさが、この中国版では際立っており、その仄暗さに対する、ストーリー展開上のコメディやノスタルジーとの対比が、日本版とは異なる芳醇な人間模様を映し出していたように感じた。
それは、映画的に日本版と中国版のどちらが優れているとかそういうことではなくて、同じストーリーを同じ映画監督が撮っても、明確に「差異」が生まれ、それがまた一つの創作物の魅力になることの証明だった。まさにこの「差異」こそ、岩井俊二の“たくらみ”だったのだろう。
悔恨と絶望の淵に立たされた小説家の男が、二人の眩い少女との偶然の邂逅により、癒され、救済がもたらされるシークエンスに、日本版と同じくふるえて泣いた。