6.《ネタバレ》 またしても日中に疲れる映画を観てしまった・・・というのが、まず第一の感想。
さて、本作はまるでノープランな構成だ。最初は題名通りに蒸発した人間を追い求めるところから始まる。
しかし、次第に横道に逸れていき、最後には失踪した男のフィアンセ(これがまた古い言葉だ)とその実姉との罵りあいで幕を閉じ、投げっぱなしやりっぱなしで終わるという流れで幕をとじる。
実際、この姉妹というのが実におぞましい女性たちで、妹はマジで姉を嫌う神経質で怒りっぽいヒステリー、そしてその姉は、いかにも嘘くさい人間で、それでいてしかも不細工(いや、これは外見のことを単純に言っているのではなく、内面の汚さが表面に出ているという意味で)という取り合わせだ。
こんなキモイ姉妹に囲まれていたら、そりゃ男も蒸発するだろう・・・と言いたくなる。(いや、少なくとも私なら、ヨソに上品で落ちつきのある性根の美しい女性を見つけて蒸発します。)
主題となっている蒸発した男を捜すドキュメンタリーの旅は、作品半ばで完全にどこかにうっちゃられてしまう。
そして最後はクドイまでの、この姉妹の罵り合いが繰り返される。
そこで突然、今村昌平自らが登場!
さんざん好き放題撮った挙句に、出た締めの言葉がコレ。
『結局、何が真実かなんて誰にもわかりゃしないッスよネ。」だ。
おいマジか!今村監督!
これだけ出演者に負担をかけておいて、この締め方は何ぞや!
特に、姉を目撃したと呼び出された近所のアンちゃんが可哀そうじゃないかっ!
まあ、それはそれとして、監督今村昌平が言いたかったことは、まさにドキュメンタリーの限界性であって、結局、カチンコがなってよーいドン!でフィルムを回している以上、撮る側の恣意性が介在しない真のノンフィクションなんて存在しない、ということだ。
撮る者は撮る側として意識してカメラを回し、撮られる者も撮られていることを意識して言動を行う。
そんな中で繰り広げられた現象が、全てを客観的に映し出しているとは到底思えないのである。
そしてこれと同時に、メディアというものが万人に発するメッセージ、例えばテレビによる情報の発信とかは、それをそのまま鵜呑みにするのは実に危険で、何が真実か何が虚像かは皆目分からないという事実、そんな事実を今村昌平監督はこのドキュメンタリーの中で訴えたかったのだろう。