2.『蛇の道』は一目でとんでもない傑作を見てしまったという感慨に襲われたが、この、『蛇の道』とは別個の話でありながら姉妹品のような位置を持つ『蜘蛛の瞳』にはただひたすら戸惑うのみであった。北野武映画の常連が占めていることもあってかどうも北野映画の模倣のような印象があって、しかも微妙にはずしている。違和感という言葉がしっくりくる。この作品を観てからずいぶん経つが、この違和感がどうにも気になってしょうがなく、いつのまにかこの違和感こそがこの作品の魅力なんじゃないかと思うようになってきた。違和感の最たるシーンが哀川翔と菅田俊の追いかけっこなのだが、「追いかけっこ」という躍動する動きを全く無視して、追いかけっこする二人が黒い点になるくらいの超ロングで撮っている。通常ではありえない撮り方。そういえばその後の『カリスマ』『ドッペルゲンガー』でも型にはまらない、というよりあえて型に合わない演出をしてみせている(『ドッペルゲンガー』のレビューにも以前書きましたが)。これは映画はこう作らなきゃいけないという間違ったルールへの反抗なのか。とにかくところどころのこういった違和感、あるいは破綻がオリジナリティへと変貌し、独自の魅力を発散している。菅田俊が化石を「一度死んだものが別のものとなって生きる」と評する。ここは『蛇の道』で描いた死者が別の場所で生者となることに通じている。そして黒沢清が描き続ける「幽霊」のとらえ方が表れている。