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やましんの巻さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 731
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自己紹介 奥さんと長男との3人家族。ただの映画好きオヤジです。

好きな映画はジョン・フォードのすべての映画です。

どうぞよろしくお願いします。


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人生いろいろ、映画もいろいろ。みんなちがって、みんないい。


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41.  サルート・オブ・ザ・ジャガー 《ネタバレ》 
『ブレードランナー』や『許されざる者』、『12モンキーズ』などの脚本家デビッド・ピープルズが、初監督に挑戦したSFアクション。例によって原始時代に逆戻りしたかのような未来世界で、何かホッケーかラクロスと格闘技を足したようなスポーツの巡業(?)の旅を続ける、ルトガー・ハウアーとそのチームの物語です。彼らのところに、まるで『七人の侍』の菊千代みたいにジョアン・チェンが強引に加わり、やがて彼女が一流のプレイヤーに成長するまでの間に、師弟愛を越えたほのかな恋愛感情あり、卑劣な敵側の陰謀あり…と、まあこの手の映画にありがちな展開ではあるんですよね。しかし、ルトガー・ハウアーたちが試合に命がけで挑み、ひとつの試合を生き抜くとまた次の試合に臨むために荒野を徒歩で移動する姿は、まるでTVドラマ『コンバット』や『プライベート・ライアン』あたりの歩兵小隊そのまま。そんなかれらのストイックな生きざまが、めちゃくちゃカッコいいんだな。映画の最後、大きな町のチームに迎え入れられたジョアン・チェンと、また黙々と次の試合相手のもとへ旅を続けるハウアーたち。その対比に、ぼくは本物の「ヒロイズム」を見た思いです。そう、これは真の”戦士”についての、シンプルだけど実に力強く思考された一考察に他ならない。ただ暴力的なだけじゃなく、知的にも、情動的にも深いインパクトを与えてくれるドラマです。  《追記》ああ、ようやくこの映画に“救いの手”が現れた! 【なにわ君】さんのレビューを拝見して、ぼくも「8」じゃ映画に申し訳なくなってしまいました。よって、今さらながらの満点献上。本当にこの作品にみなぎる「心意気」と「気高さ」こそ、今の自分に必要なものだと痛感。どうにかして、もう一度見たいなあ。…  《再追記》あらためて【なにわ君】さん、どうもありがとうございます! ぼくが唯一行く弱小レンタルビデオ店には置いてないので、今度DVD探してみますね。ただ、この映画の原題も2種類あるし、別バージョンのものがあるのかもしれませんねぇ…。 《再々追記》おおっ、久々に同志が…(感涙)。【映画の奴隷】さんのレビューで、あのラストシーンが鮮明に浮かんできました! ああ、また見たいっ! しかし小生が行くレンタル店には、この映画がないっっ! 嗚呼。 《再々々追記》おおっ、“同志”がまたひとり!
[映画館(字幕)] 10点(2007-04-24 18:34:42)(良:4票)
42.  ベスト・フレンズ・ウェディング
ストーリーも、展開も、けっこうありきたり。なんだけど、これくらい監督のセンスを感じさせる映画も最近じゃ珍しい。特に、音楽の使い方がバツグンで、ミュージカル映画の新たな可能性すら見た気がした。ハッキリ言って、単なるラブコメなんかの水準をはるかに越えてます。素晴らしいです。これでダーモット・マローニーがハズレじゃなかったら、満点だったのに。 《追記》久しぶりにBSにて再見。いや〜、やっぱりムチャクチャ素敵かつ「うたごころ」にあふれた傑作! でした(オープニングタイトル場面の、MGMというよりは往年のパラマウント的な色彩感覚!)。そしてダーモット・マローニーが、実は得なようでいて損な役回りを、ほとんど何を考えてんだコイツ的「無意識過剰(?)」と希薄な存在感で演じこなしている・・・と再認識。申し訳ない、マローニー殿。
[映画館(字幕)] 9点(2007-01-19 14:39:01)(笑:1票) (良:1票)
43.  父親たちの星条旗
18世紀プロシアの軍人クラウゼヴィッツは、その古典的著書『戦争論』で言っている。戦争の「本領」とは、「憎悪と敵意」を伴って遂行される暴力行為だ、と。  戦場において国民(=兵士)たちは、ただこの「憎悪と敵意」を増幅することだけを課せられ、そのエスカレーションとともに相手国民(=兵士)を殺し・殺される。そして、そんな「憎悪と敵意」をむけるべき〈敵〉としてのみ、本作の日本兵たちは描かれるのだ。だから、彼らは「顔」がない。徹底して得体のしれない“脅威”としてのみ、アメリカ兵たちの前に現れる。その時『父親たちの星条旗』は、これ以上なく端的に戦争の「本領」をぼくたち観客に見せつけているのである・・・。  一方クラウゼヴィッツは、「戦争とは異なる手段をもってする政治の継続である」とも言っている。「憎悪と敵意」をぶつけ合う戦場とは別に、国家にとって戦争とはあくまで政治的な「外交(!)」の手段なのだ、ということか。事実、映画のなかで政治家たちは戦争を継続するために、何とか戦場から生還した兵士たちを、国民が国債を買うための“道具”として利用する。兵士たちは、否応なくもうひとつの戦争の「本領」に巻き込まれてしまう。いわば、彼らは「憎悪と敵意」と「政治」という二重の「戦争」を戦うハメになったのだ。  そう、これまで常に〈体制〉からハミ出した「個人(アウトサイダー)」を演じ・描き続けてきたイーストウッドは、そんな「個」を単なる“道具=消耗品”としてしか扱わない戦争そのものの〈本質〉、ただそれだけをこの映画のなかで表出しようとした。声高に「反戦」を叫んだり、賛美・正当化する「反動」に走ったりするのではなく、いかに戦争が〈個人〉をないがしろにすることで遂行=継続されるものであるかを、ある痛み(と、悼み)とともに観客へと伝えようとしたのだと思う。同時にその時、本作が、ジョン・フォード監督の『コレヒドール戦記』(原題は、「They Were Expendable(彼らは消耗品)」だ…)に呼応し共鳴しあうものであることも、ぼくは深い感動とともに確信する。   その上で、『硫黄島からの手紙』を撮ることによって、あらためて「兵士たち」を人間として、〈個人〉として追悼しようとしたイーストウッド・・・。この「硫黄島二部作」において、彼はジョン・フォードをすら“超えた。この2作品と「今」出会えたことを、ぼくはただただ幸福に思う。
[映画館(字幕)] 10点(2007-01-18 12:09:25)(良:2票)
44.  硫黄島からの手紙 《ネタバレ》 
『硫黄島からの手紙』のなかで、負傷して日本軍の捕虜になったアメリカ兵の青年が登場する。彼は手厚い看護を受けたものの、結局息を引き取る。けれど、彼が持っていた母親からの手紙の内容に、今までアメリカ人を“鬼畜”だと信じ込んできた日本兵たちは、「彼らも俺たちと同じじゃないか…」と愕然とするんである。  この場面は、本作のなかでもとりわけ感動的で、美しい。その時、日本兵たちは、目の前のアメリカ人青年をただ殺すべき〈敵〉ではなく、はじめて〈人間〉として認識した。と同時に、ぼくたち観客もまた気づかされるのだ。この映画そのものが、『父親たちの星条旗』にあってまったく「顔」を与えられなかった日本兵たちを、ふたたび個々の〈人間〉として見出すものであったこと。そのために、どしてもこれが「二部作」であらねばならなかったことを。  『星条旗』が、「憎悪と敵意」「政治」という「戦争の本質」こそを描くものだったとするなら、本作は、常にそういった「戦争」のなかで見失われてしまう〈人間〉を回復する試みである、といって良いかもしれない。・・・戦場にあって、ただお互いを殺し・殺されるだけの兵士たち。「憎悪と敵意」の対象でしかなかった〈敵〉同士を、イーストウッドの本作は、あらためて〈人間〉として描こうとする。それこそが、戦争の“消耗品”として歴史に埋もれ、顧みられることのない彼らを、あくまで一個の人間として追悼することになるからだ。だから、「戦争で命を落とした人々は敬意を受けるに余りある存在だ」というイーストウッド自身の言葉は、決して彼の「右翼的」な信条=心情から出たものではあるまい。むしろ彼は、現在に至るまで時の為政者(ブッシュ!)たちが「自分たちは正義の側で、悪と戦う」と唱え、戦争を肯定することへの断固としたアンチテーゼとして、兵士たちを1人1人〈個人〉として「戦争」から“帰還”させようとしているのだから。  この、全編のほとんどを日本人の役者ばかりが登場する「日本(語)映画」を、アメリカのジャーナリズムが高く評価するのも、おそらくその一点においてであるだろう。・・・これが、監督イーストウッドの最高傑作かどうかは分からない(し、どうでもいい)。けれど、戦争の「本質」を描き、兵士たちをふたたび〈人間〉の側に取り戻そうとする「硫黄島二部作」は、現代最高の「(戦争)映画」であること。それだけは間違いない。
[映画館(字幕)] 10点(2007-01-18 11:58:55)(良:4票)
45.  ナチュラル
他の映画になら何を言ってくださっても結構なんですが、この映画だけにはアタシャ身体を張ってでも守り抜く覚悟。もう一体何度これを見直し、その度に感動を新たにして、生きる糧を得たことか…。マーク・トウェイン以来のトール・テール(ホラ話)の伝統と、野球の持つ独特の精神性、そしてグッド・オールド・デイズへの郷愁が渾然となって、何と香り高く美しい、ノーブルな作品へと昇華したことだろうと、小生、見直すたびに感歎・感動しきりなのであります。そりゃあ、欠点もあれこれ指摘はできるでしょう(もっとも、欠点のない映画がもし存在したとして、それはきっとおそろしく退屈で鼻持ちならない代物だと思うけど)。テンポがゆるすぎるとか、長ったらしいとか、ヒロインをグレン・クローズにやらせるな(!)とか。しかし、そういった欠点すらもぼくには愛しい。本当にこれは、わが生涯の1本であります。そう、1980年代以降、これを越える「傑作」は何本も登場してきたかもしれない。けれど、「アメリカ」という国と人の〈精神性〉の最も愛すべき部分を描いて、これ以上の「美しさ」を持った映画が、果たして何本あったでしょうか…。《追記》先日も再見。もう、50回以上は見ているかな。最初の方で、ジョー・ドン・ベイカー演じるベイブ・ルース風強打者と主人公が野球対決する。その一連のシークエンスに、またまた陶然となる。黄昏れ近い田舎町の空気感、移動遊園地のたたずまい、そして、手に唾してバットをにぎるベイカーとレッドフォードの投球フォームの「完璧さ」…。やっぱりこれは、ぼくにとって最高の「アメリカ映画」です。
[映画館(字幕)] 10点(2007-01-11 16:04:53)(良:3票)
46.  レディ・イン・ザ・ウォーター 《ネタバレ》 
シャマランの映画におけるモチーフは、どれもあまりに単純というか、馬鹿馬鹿しいくらい「幼稚(プリミティブ)」なものばかりだ。「幽霊」、「不死身のヒーロー」、「宇宙人」、「都市伝説」、そしてこの最新作における「妖精」・・・。世の常識的(!)な大人たちにとってそれらは、せいぜい子供だましのギミックか、浮世離れしたファンタジーの口実(エクスキューズ)にしかならないだろう。  しかしシャマランの映画は、そんなあ然とするようなモチーフを、どこまでも大真面目に物語っていく。だから観客は、「これには何か、アッと驚く“仕掛け”があるに違いない」と思う。大のオトナが、幽霊や妖精などを「本気(シリアス)」に語るはずがないのだから。実際、シャマランの映画はこれまで、その“仕掛け”において(のみ)評価されてきた。  でもシャマランの映画が描こうとしたのは、やはり幽霊や妖精の方だったのだと思う。なぜなら、それらこそ「物語」の“根源的(プリミティブ)”なものに他ならないからだ。ヒトが「人」としての歴史を歩み出して以来、人間は常に「物語」を求め続けてきた。なぜだろう? たぶん他の生き物たちと違って、人間は、この過酷な世界=現実をそのまま受け入れることに、耐えられないからではないか。だから「物語」を通じてのみ、人は世界や現実を見出すことができた。恐怖や不安、苦痛から目をそらすのではなく(なぜならそれは、“現実逃避”という別の「悪しき物語」だから)、それを受け入れるためにこそ、人は「物語」を求めた・・・。  シャマランの映画は、そういった「物語」あるいは「物語ること」の根源にあるものを、あらためてぼくたちに教えてくれるものだ。この最新作で、ポール・ジアマッティ扮する主人公は水の精(その名も「ストーリー」!)を癒すと同時に、自分も「ストーリー」によって耐え難い過去の不幸な記憶から癒される。そして観客であるぼくたちはその主人公の姿に、「物語(ストーリー)」こそが人間にとって(たぶん唯一の)“救い”であることを深い感動とともに見出すのだ。  だからシャマランの映画は、プリミティブであるからこそ美しい。そう、何て美しく、愛しいんだろう・・・   (以上の文は↓の皆さん、特に【あにやん】さん、【すぺるま】さん、【のはら】さんのレビューから示唆されたものです。ありがとうございました!)
[映画館(字幕)] 10点(2006-10-04 17:45:08)(良:2票)
47.  アフター・ダーク 《ネタバレ》 
小生にとって傑作中の傑作。どこまでも卑小な犯罪ドラマでありながら、ここまで崇高な「悲劇」的カタルシスを与えてくれる作品が、この現代にあって可能だなんて…。過去の偉大な犯罪ノワール、『深夜の告白』や『郵便配達は二度ベルを鳴らす』なんかとも比肩する密度の濃さです。素晴らしい!《追記》先日ふと思い立って、この映画を見たくてたまらなくなったものの、行きつけの弱小レンタル店に在庫なし・・・。元ボクサーである主人公の、パンチドランカーゆえにろれつの回らない独白(モノローグ)と、演じるジェイソン・パトリックの素晴らしさ。「悪女」というには人間的でありすぎることが、かえって後半の悲劇性を高めるレイチェル・ウォードの、まるで往年のジーン・ティアニーのような美しさ。ざらりとした質感(それは、↑の【なるせたろう】さんがおっしゃる通りアメリカン・ニューシネマ的な、むしろ「1970年代映画」的な)で、白昼の砂漠をもノワールな色調に染め上げる、独特の映像感覚。・・・その他、このささやかな「B級」犯罪ドラマには、何て言うのか「これだ、これこそが『映画』なんだ…」と思わずにはいられない瞬間が満ち満ちている。今こうして書きながらも、この映画の中の男たち・・・悲しいくらい卑屈な小悪党ブルース・ダーンの、『サイコ』の映画的記憶が遠く反響したかのようなマーチン・バルサムの、何より、「負け犬」が最後に意地を見せたかのようなジェイソン・パトリックの、それぞれの死に様がフラッシュバックされてくる。・・・。もう一度言おう。ささやかなジャンル映画として埋もれてしまったかのような本作だけれど、誰がなんと言おうと、これこそが「映画の中の映画」だ。
[映画館(字幕)] 10点(2006-09-27 15:28:35)(良:1票)
48.  マイアミ・バイス
マイケル・マンの映画は、文字通り「男(マン)」を描いたものだと、よく言われる。が、実はそれ以上に「プロフェッショナル」たちの姿、ただそれだけを描こうとしたものなのだと思う。刑事であろうと犯罪者であろうと、彼らは、自らの成すべき「仕事」をただ果たそうとする。「仕事」のためなら、彼らは臆することなく死地へと向かう。プロである彼らにとって「よく生きる」ことは、「よく死ぬ」ことと同義なのだ(唐突だが、武士もまた「仕える者(=プロ)」であるなら、『葉隠』の「武士道とは死ぬことと見附たり」とは、何とマイケル・マン的な定義であることだろう!)。  映画は、そんなプロたちが「プロ」たるゆえんを凝視する。銃や武器の鮮やかな扱い方、車の転がし方、あるいは敵地へと潜入する時の物腰、表情・・・。そして主人公たちが一撃(ワンショット)で相手をしとめるように、マンの映像(ショット)は、そのひとつひとつの〈所作〉を、恐ろしいほど的確(クール!)に捉えていく。それ自体がプロフェッショナルな〈所作(=演出)〉によって、マンは、“巨大麻薬組織に挑む潜入捜査官たち”という「物語」とは別の次元で「映画」を成立させるのである。すなわち、プロたちが自分たちの「仕事」を遂行する姿、その〈所作〉だけによって。  一方でマイケル・マンの映画が男と女ののっぴきならない“関係”を描くのは、彼らもまた一介の男であり女であることを示すためだろう。その時この、「プロ」であることと「人間(マン)」であることの葛藤もまた、いかにもマイケル・マン的な主題であるだろう。が、しかしあくまでも主人公たちにとって、「仕事」を完遂することが最優先される。“情”は、常に「その次」なのだ(・・・ただ、たぶんこの『マイアミ・バイス』に唯一“瑕疵”があるとしたら、コリン・ファレルとコン・リーの刹那的な恋愛部分がいささか端折られ過ぎている、ということだろう。たぶん、再編集の段階によるカットで?)。  確かに、トニー・スコットやマイケル・ベイあたりの映画のように新奇(珍奇?)なスペクタクルもなく、「劇(ドラマ)」的な面白味に配慮のない無愛想(!)な映画かもしれない。けれど〈所作〉の英語訳が「アクション」なら、この映画は、言葉の真の意味において完全無欠の「アクション」映画に違いない。COOL!
[映画館(字幕)] 10点(2006-09-08 20:07:03)(良:2票)
49.  …YOU…
いわゆる「全共闘世代」とその周辺の映画や文学に対しては、悪意と偏見(と軽蔑)をしか感じないぼくではあるけれど、この映画だけは例外。主人公の大学院生を演じるエリオット・グールドの、現実的でありながら理想主義を隠しきれず、ついには”爆発”させてしまう人間性には、憧憬と尊敬を禁じ得なかった。周囲が「革命ごっこ」に明け暮れるなか、教師になるため仲間や恋人とも一線を引く主人公。だのに、教授たちのあまりの俗物性と保守ぶりを前に怒り、すべてを台無しにする彼の心情なら、今のぼくたちにも十分納得&共感できる。あの当時にここまで”醒めた”スタンスで現状を見据えたこの映画こそ、真に知的かつ「革命的」なのでは? と思えてくる、素晴らしい映画でありました。 …あ、そういえば、ハリソン・フォードが主人公のトッポい(笑)学友役でチラリと顔を見せてくれます。
[映画館(字幕)] 9点(2006-06-07 18:43:20)
50.  若き日のリンカン
思うところあって、ある時から、いわゆる古典的な「名画」とよばれる作品にはなるべくレビューを書かないつもりでした。が、この映画に関しては、最近DVDではじめて見ることができ(売っていたのが某100円ショップで、値段は「315円」…。嬉しいというより、ちょっと悲しかった)、どうしても書いておきたいことがあったので、自戒を解く(?)次第です。  この映画は、題名の通り、後の「黒人奴隷解放の父」リンカーン大統領が、まだ若く、無名で、貧しい弁護士時代に、保安官助手殺しの被告となった兄弟の、弁護を務めることになったエピソードを描くものです。そしてもちろん、窮地におちいった兄弟とその一家を、リンカーンが裁判の場で見事に救うことでめでたしめでたし。ではあるのですが、見終わった時の余韻というか「感動」は、若きリンカーンの聡明さや善良さ、素朴な“田舎者”としての愛すべきヒーローぶりとは別のところにあるように思いました。  映画は、留置場や裁判中のシーンで、被告の兄弟にほとんど言葉をしゃべらせません。町民が私刑(リンチ)で彼らを木に吊そうとしたり、裁判で何を言われようと、とまどいと、少しの怯えを含んだまなざしで、じっと事の推移をうかがっている。そして兄弟の家族たちも、留置場を訪れて、一緒に歌うことしかできない・・・。  その時、彼らは白人たちであるものの、映画は明らかにこの兄弟や一家を「黒人」として描いている。リンカーンの時代から、この映画が制作された1939年当時ですら変わらず差別され迫害されてきた黒人たちの受難を、この映画はまちがいなくこの兄弟とその一家に託して語り、告発しているのだと、ぼくは思います。監督のジョン・フォードは、黒人がひとりも登場しないこのリンカーンの「伝記」映画にあって、ひそかに、しかしはっきりと、虐げられてきた「黒人たち」のための物語を語っているのです。  フォード監督は、晩年近くに、今度は本当に黒人を被告とした裁判劇『バッファロー大隊』を撮ります。あまり評価されない、しかしあの美しい映画が、実はこの『若き日のリンカン』とはるかに“共鳴”するものであったことを、ぼくは今、ある深い感慨とともに確信しています。
[DVD(字幕)] 10点(2006-05-30 16:55:39)(良:2票)
51.  南部の人 《ネタバレ》 
息子が敗血症になり、毎日どうしても新鮮な牛乳が要る。けれど、貧しい農夫一家にはとてもそんな余裕がない。苦しむ子どもを前に悲嘆にくれていると、おばあちゃんが再婚(!)相手と現れて乳牛をプレゼントしてくれた。めでたし、めでたし。  また、度重なる不幸と苛酷な農作業で、すっかり偏狭な性格になった近所の意地悪オヤジ。その嫌がらせに怒りを爆発させた主人公は、オヤジを叩きのめす。復讐のため銃を持ち出すオヤジだったが、長年の夢だった川の大ナマズを主人公が釣り上げたのを見るや、コロリと態度を変え、「このナマズを俺の獲物にさせてくれりゃ、もう嫌がらせはしねぇ。井戸も使わせてやる」と言い出す始末。これまた、めでたし、めでたし。  …もう、万事がこの調子なんである。苛酷な、あまりにも苛酷な農夫一家の生活ぶりを、おそらくオール・ロケで描きながら、この映画には大らかな楽天性が息づいている。ほとんどデタラメすれすれのご都合主義が、リアルな写実主義風展開のなかに突然顔を出して、あれよあれよと主人公一家を救うのだ。 結局、豪雨で農作物が全滅し、一度は土地を手放そうと考える主人公。けれど、コンロに火を入れてコーヒーを沸かす妻の姿に、ふたたびやり直すことを決意する。…このラストにも、ぼくらは「うん、彼らは大丈夫だ。きっとうまくいく」と確信する。何故なら、彼らは“祝福”されているのだから。誰に? もちろん、この映画に。というか、この映画を撮ったジャン・ルノワールに!   映画のなかで、町の工場で働く主人公の友人が、「苦労ばかりの農業なんかやめて、工場へ来いよ」と誘う。が、「俺は青空の下で働きたいんだ。自由な気がするから」と答える。…どんなにつらい人生でも、何より「自由」こそが大切なのであり、生活の細部(ディテール)には幸せが、生きる歓びが宿っている。…こんな風に“貧しさ”をかくも“豊か”なイメージで描き得るのは、たぶんこのルノワ-ル監督をおいてないだろう。 ぼくは見ながら、何度も泣いた。この映画のなかに描かれる、文字通り「人の生きる姿」としての人生の、あまりの美しさに。  たぶん、間違いなく、これが本当に「幸福な映画」というものだ。
[映画館(字幕)] 10点(2006-05-29 17:31:30)(良:1票)
52.  ボディ・ターゲット
ジャン=クロード・ヴァン・ダム作品中、確かに最も美しい作品。何と言っても、ロバート・ハーモン監督ならではのシャープな演出と画面構成のさり気ない才気にヴァン・ダムのアクションが映えて、ほとんど視覚的至福すら感じさせてくれる…とは、ちっとばかし大袈裟ですけど。ほんと、ハマッた時の彼の身体の動きは、ジーン・ケリー(!)に匹敵するんじゃないか。とにかく、単なるアクション映画以上の価値を見る者に与えてくれる作品として推奨いたします。《追記》 先日、ビデオが300円で投げ売りされていたので購入。あらためて見直すと、やっぱりこれが良いんですよ~。いわゆるハリウッドのアクションスターがおしなべて「肉食動物」系であるのに対し、ヴァン・ダムはどこか群れから離れた「草食動物」めいた趣がある。彼のアクションに攻撃性がどこか稀薄なのは、そのせいじゃないかな…。そして本作は、そんなヴァン・ダムのパーソナリティを最も見事に引き出したものであることを、再確認いたしました。よって点数も、8→10ということで。ほんと、ビックリするくらい美しい、そして愛おしい映画なんだけどなぁ・・・
[映画館(字幕)] 10点(2006-04-26 16:29:33)(良:1票)
53.  キング・コング(2005)
ピーター・ジャクソンが、どれだけオリジナルの『キング・コング』とそのキャラクターを愛しているかを、ぼくもまた決して疑うものじゃない。それはこのリメイク作品においても、全編から、ディテールの隅々から伝わってくる。例えば、コングの住む断崖に散らばる巨大な骨や頭蓋骨。それを画面にさりげなく見せることで、コングが、家族や仲間の死に耐えたまったくの“独りぼっち”であることを観客に示す。それゆえ、彼がアンという「相手」を得たことの喜びを、何があっても彼女を守ろうとすることを、ぼくたちは素直に納得できるのだ。  しかし、人間であるアンもまたこの巨大な「怪物」に“愛”を、そういって言い過ぎならば“愛しさ”を抱く時、この映画はオリジナル版の〈美女と野獣〉の寓話性を失ってしまい、単なる「メロドラマ」に陥ってしまったのではないか。コングが、彼女の前ですねたり強がったりする表情やしぐさは、確かに素晴らしくチャーミングだ。ぼくもまたそんなコングを愛さずにはいられない。しかし、コングがそうやって「人間的」に描かれれば描かれるほど、これは“異形の者の悲恋もの”に過ぎなくなってしまう(…クライマックスで、エンパイアステートビルにアンとともに逃げ登る本作のコングは、まるでエスメラルダを伴ってノートルダム寺院の尖塔に登るカジモドのようだ。そう、これはむしろ『ノートルダム・ド・パリ』のリメイクといった方がふさわしいのではあるまいか…)  もちろん、メロドラマだから悪いと言ってるんじゃない。でも、決して相容れない美女(=人間)であるからこそ、彼女に魅せられ身を滅ぼす野獣(=コング)の物語は、「神話」へと昇華されたのではなかっただろうか。だのに今回のコングは、たとえ死ぬとはいえ十分に愛され、何と幸せ者かと思ってしまう。しかもその“愛”が、自分に忠実で無償の愛情を注いでくれる「ペット(!)」に向けられたものではないと、誰に断言できるだろう…。  オリジナルで、最後まで恐怖の悲鳴をあげ続けたフェイ・レイのヒロイン。コングを決して「人間」とも「ペット」とも思わなかった彼女の方が、どれだけ“誠実”だったことかとぼくは思う。もちろん、そんなのは不当なイチャモンだと言われればそれまでだ。しかしなぜかこの映画には、そんな文句を投げかけたくなってしまう。…ごめんよ、ピーター・ジャクソン。
[映画館(字幕)] 6点(2006-02-03 16:37:58)(良:3票)
54.  エコーズ 《ネタバレ》 
催眠術にかけられたことがきっかけで、それまで5歳の息子にしか見えていなかった少女霊が見えるようになった主人公。はじめは混乱し恐怖するものの、やがてそれは、幽霊の訴えようとしていることを解き明かすべく、自分に課せられた「使命」なのだと思うようになる。そして、仕事や家庭もかえりみず、霊のメッセージの解明にのめり込んでいく…。  この展開は、ぼくたちにある別の作品を思い起こさせないだろうか? そう、これは、UFOを目撃して以来「何かに導かれている」という想念が頭から離れず、遂には妻子に去られる男を主人公にした『未知との遭遇』と似ている。というか、これは「同じ物語」じゃないか! それはこの『エコーズ』の中で、ケヴィン・ベーコンの主人公が庭中に穴を掘り、奥さんが怒って息子とともに車で去っていく場面によって、ほとんどぼくにとって“確信”となったのだった。  そう、『エコーズ』も『未知との遭遇』も、かたや“霊”こなた“UFO”に憑かれた「オブセッション」をめぐるドラマに他ならない。ひとつの〈想念=妄執〉に憑かれ、そのことだけに突っ走っていくこと。これは『激突!』から『JAWS』、『未知との遭遇』までの“初期スピルバーグ映画”のドラマツルギーの根幹を成すものだ(そしてそれは、先の『宇宙戦争』によって突然甦った…)。それを『エコーズ』の監督・脚本家デヴィッド・コープは、このミステリー仕立ての心霊映画で忠実に「踏襲」してみせる。『ジュラシックパーク』や『宇宙戦争』の脚本家でもあるコープは、実のところスピルバーグにとっての「アルターエゴ(!)」なのではあるまいか。  正直、ホラーとしてもミステリーとしてもいささか中途半端な印象が拭えない『エコーズ』だけれど、コープとスピルバーグの「関係=関連」を考える上で、これは実に貴重で興味深い作品であるに違いない。
[映画館(字幕)] 7点(2005-11-22 15:58:31)(良:1票)
55.  宇宙戦争(2005) 《ネタバレ》 
他のレビュワーの方がトム扮する主人公を「電波男」と評しておられたけれど、実は小生もそう思いました。そう、これは実のところ、あるひとつの「目的(=我執)」にとり憑かれた男の物語に他ならないと。では、その「目的」とは何か? 言うまでもなく、子供たちを母親のいるボストンまで何があっても連れていくということ。この、「何があっても連れていく」ことが、この映画における主人公の<すべて>だ。そしてそれは、決して「家族愛」だの「父親の復権」だのといったものじゃなく、まさしく“電波系”そのもののオブセッション(=強迫観念)として…。  だから主人公は、その「目的」を達するためなら手段を選ばない。車を盗み、他人を蹴散らし、知り合いすらも見殺しにする。そして、自分たちを助けてくれた男すら殺すことさえ厭わないのだ。  ゆえにあの終盤も、原作に忠実であるというより、この映画の「物語」上の“必然”だったと考えるべきだろう。何故なら、主人公が娘とともにボストンに到着した時点で、映画は実質的に「終わっていた」のだから。これは『インデペンデンス・デイ』のような地球的危機を描く「シリアス(!)」な作品じゃなく、徹頭徹尾トム扮する主人公のオブセッショナルな視点に一体化しつつ、その逃避行を描いた映画なのだ。彼が「目的」を果たした時、もはや宇宙人たちはその「目的」を阻む<脅威>としての意味を失って死んでいき、家族は一同に会する。もちろん、それらは決してご都合主義なのではなく、この映画にあっては(あるいは、この主人公にとっては)至極「当然」のことなのである。   …思えば、ある時期までのスピルバーグ作品とは、常にそういった、何らかのオブセッションをめぐるものではなかったろうか? 巨大タンクローリーも、人食い鮫も、UFOも、すべて主人公(たち)の「我執」あるいは「強迫観念」の実体化としてあったのではないか…。そう思い至る時、実のところ『未知との遭遇』までの映画こそを高く評価する者として、この最新作をやはり思いがけない興奮と歓喜の拍手とともに迎えねばならないだろう。そう、スピルバ-グは「狂っている」からこそ面白かったのだ。そしてこの映画は、本当に久々に、「狂っている」。
[映画館(字幕)] 10点(2005-10-14 12:46:58)(笑:1票) (良:5票)
56.  シンデレラマン
どんなに食うに困っても、子供が食べ物を盗んだら叱ってそれを返しにいく。妻や子供との約束は、たとえ物乞いをしてでも守り抜こうとする。妻子のため、それ以上に親友であるプロモーターのために、命がけの試合に臨もうとする…。  ロン・ハワードの映画は、いつでも〈道徳的〉だ。どんなに混乱し、汚辱にまみれた社会や世界にあろうとも、彼の映画の登場人物たちは、自分のため、愛する者たちのため、信じることのため、懸命にひたむきに生きよう、生き続けようとする。そしてその生きざまは、最後には必ず「報われる」のだ。それを、キレイごとに過ぎるだの、甘いだの、だから面白くないだのと批判したり嘲笑するのはたやすいだろう。けれど、父親が「約束する。決してお前たちをよそにはやらない」と言ったとき、それまで心の奥底に“捨てられる”不安を隠していた子供が父の腕に顔を埋めて泣くシーンの美しさは、常に〈道徳的〉であろうとする者たちだからこそではないか。その美しさをにすら何も感じず、あざ笑う向きがあるのなら、ぼくはその狭量さこそを不幸に思う。…「キレイごと」を信じなくなったときから、この世の中はこんなにも生き難いものになってしまったのではなかったか?   そしてロン・ハワードは、決して登場人物の内面や感情を大げさに、分かりやすく描こうとはしない。彼はきっと映画というものが、ひとつの微笑、ひと粒の涙、まなざし、沈黙、…そういったほんのちょっとしたしぐさや表情をていねいにすくい取ることだと信じている。もちろん迫力あるボクシングシーンなどの見せ場(スペクタクル)も用意しつつ、どのように撮れば人物たちの心の機微が映し出せるのかに全力を尽くす(だから、彼の映画に出演する役者たちは誰もがあれほど魅力的なのだ)。カメラの位置も、照明も、美術も、すべてがその一点において最も的確であるように“演出”されているのだ。それが、ハワードにとって、映画を撮る〈倫理〉だ。彼は決して映像の「詩人」ではないだろう。けれど間違いなく、ドラマにおける最良の「演出家」である。  物語における〈道徳〉と、映画における〈倫理〉を決して見失わないこと。そこからうまれた本作が現代にあって「最高の映画」であることを、ぼくは確信している。
[映画館(字幕)] 10点(2005-10-05 13:25:19)(良:2票)
57.  ダリアン
まあ、言わばティーンエイジ版『危険な情事』といったシロモノでしょうか。アリシア・シルバーストーン嬢の小生意気そうな鼻っぱしらが実に役柄とマッチしているものの、未成年ポルノに厳しいアメリカらしい中途半端さがイライラ。おまけにケーリー・エルウェスがどう見てもアリシア嬢が邪念を燃やすような教師には見えんのが致命的じゃあ! ただ、彼の恋人役がジェニファー・ルービン!! いつも悪女やキレた役ばかりの彼女が、珍しく”善い人”やってて、ファンとしてはうれしいようなこそばゆいような…《追記》あらためて再見したら、まあ小ぢんまりとまとまっていて、悪くなかったです。特に、ダリアンがクロ-ゼット内に身を潜めるあたりなど、室内シーンの撮影がなかなかに見事。このあたり、イーストウッドの『恐怖のメロディ』に通じる撮影監督ブルース・サーティーズの功績大とみた。よって点数4→7に変更! もちろん、客観的に見てたいした映画じゃないのは確かだろうけど、ひとつだけでも惹かれるものがあれば、それは十分「愛」の対象になり得るもんです。映画も、人も。
[映画館(字幕)] 7点(2005-09-14 18:52:27)
58.  チャーリーとチョコレート工場 《ネタバレ》 
ダニー・エルフマンの音楽に乗って、奇妙かつ奇ッ怪な機械が、踊るように、歌うように、チョコレートの原料を溶かし・固め・包装していく。そのオープニングで、ぼくは確信した。“これだ、この感じだ。あのバートンが還ってきた!”と。…そう、ティム・バートンの映画は、常にこんな「ガジェット感覚」に満ち満ちていた。どこかグロテスクなまでに誇張された、オブジェのような機械が、精確無比に動き出すことの驚きと快感。その「荒唐無稽さ」が、もはや忘れていた(と言うか、「封印」していた)幼い子供時代の「熱狂」と「破壊衝動」を呼び覚ます(…そう、子供たちは「動くもの」が大好きで、しかもそれを「壊すこと」に夢中になるものだ)。それこそがバートン作品の“核心”でなり、そのアナーキーな魅力の中心だったはずなのだ。  それが『マーズ・アタック』以降、彼の映画は、そんな破壊的なパワーをあっさりと失ってしまう。一見するといかにもバートンらしい題材や物語であり、美術やセットでありながら、そこにはあの「熱狂」も「破壊衝動」もすっかり消え失せてしまっていたからだ…。  しかしこの最新作でバートンは、ふたたび彼独自の「ガジェット感覚」を、そのアナーキーな“毒(!)”に満ちた魅力を、画面いっぱいにブチまける。あの、子供たちをひとりひとりを見事に、そして最高にイヂワルく“始末”していく装置=機械の、何というブラック・チョコレートな味わい! そう、やはりバートンはこうでなくっちゃイカンのだ。  しかも、初期のバ-トン作品が「父親」を失った「孤児」の物語であったこと。彼らの“反社会的”な振る舞いが、結局のところ「孤独」に起因し、それがいびつな形で表出されてあったものであったことを、この映画はあらためて教えてくれるだろう。最後にジョニー・デップの主人公が父親と“和解”する。その父親を、クリストファー・リーが演じていることにも、ぼくたちはナミダするだろう。…そう、バートン作品で真に「父親」を演じられるのは、ヴィンセント・プライスとリーしかいない。ユアン・マクレガー=アルバート・フィニーでは駄目なのだ!   とにかくバートンの<天才>は、この「クリスマス映画」において見事に復活した。そのことを、何より嬉しく思う。
[試写会(字幕)] 9点(2005-09-08 13:00:22)
59.  廃墟の守備隊
冒頭、いきなりコマンチ族による町のせん滅場面! 続いては、生き残った騎兵隊員数名と駅馬車の面々が、砂漠にある教会の廃墟に立てこもって、インディアンたちとの攻防戦!! …いやぁ~、この当時のB級西部劇にしてはメリハリの効いた演出とアクションで、特に↓のM・R・サイケデリコンさんも書かれておられるように、ダイナマイトによる爆破シーンは「おおっ!」と、今の眼で見てもかなりのスペクタクルです。主演がでっぷり体型の親父ブロデリック・クロフォードなんで、女性が登場に及んでもロマンスに発展しようはずもなく、そのへんの“硬派”ぶりも好感度大。アンドレ・ド・トス監督、なかなかの才能と見ました。こういうキッチリとした職人芸を、名作でも何でもない「普通(スタンダード)」な作品に見出せるところが、1950年代アメリカ映画の実力であり、懐の深さと言えるんじゃないかな。 《追記》スミマセン、あろうことかサイケデリコンさんのお名前を間違ってました…。慎んで正しい表記に訂正の上、小生もこっそり点数を8→9点へと変更させていただきます。ホント、これはかなりの快作っすよ! ねっ!!
[映画館(字幕)] 9点(2005-09-06 20:40:18)
60.  奥さまは魔女(2005)
1960年代アメリカ製TVシリーズの“魔女もの”では、あたしゃ断然『可愛い魔女ジニー』派であります。何と言っても、あのへそ出しスタイル! …もしこの映画が、『奥様は魔女』ではなく『ジニー』の方を取り上げ、なかんずくニコール.キッドマンにあのアラビアのお姫さま風コスチュームを着せ得たなら、迷うことなく満点献上したものを!(ああ、へそ出しルックのキッドマン・・・!)   とは言いつつ、小生はこの映画、なかなかどうして楽しかったですヨ。みなさんおっしゃる通り、ニコール・キッドマンがここまでカマトト演技を披露して、それが実にチャーミングだったのもうれしい誤算だったし。彼女と、相手役のなんとかいうコメディ役者(名前失念、失礼! …というか、思い出そうとも思わないが・笑)が、誰もいない夜の撮影スタジオではしゃぐ姿は、どこか『雨に唄えば』にも通じる心楽しさで、もはや演技を超えて、こんなにも嬉々としたキッドマンを見られただけでも小生には十分。  もちろん、これもみなさんご指摘のような欠点やら「問題」は多々あるだろうし、小生もあの男優だけは受け入れがたい(もっとも、どこかフレッド・マクマレーという往年の硬派スターに似ていなくもないこの男、戦争映画とか西部劇には意外とハマるかも)。何よりあのエンディングのあっけなさというか唐突さというか“投げやりぶり”には、ノラ・エフロン監督のストーリーテリングに対する才能と「誠実さ」の放棄を疑わせてガッカリだったものの、本作を見て以来、気がつけばピコピコピと鼻を動かしている小生にはやっぱりケナせませぬ。  …でも、やっぱり『可愛い魔女ジニー』にしてほしかったなぁ(笑)
[映画館(字幕)] 7点(2005-09-03 16:54:39)
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