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1.  残菊物語(1939) 《ネタバレ》 
悲しくも、恐ろしく美しい。 西瓜をふたりで食べようとする、勝手場での長回しのワンショットに心が震え上がる。 これは映画を見ていくと、後に、菊之助とお徳が離れ離れとなり、 菊之助が、昔ここでふたりで西瓜を食べたということを思い返すシーンとして、 前述の勝手場のワンショットと全く同じ構図が反復される。 ただその勝手場にはお徳の姿はなく、菊之助だけが、ひとり佇んでいるのだ。 回想シーンが挿入されるわけでもなく、同構図で反復されるというだけで、 あのふたりで食べた西瓜の時を菊之助は思い出しているのだろうと 我々観客は気付くのだが、もう涙なくして、佇む菊之助を直視することは出来ない。 しかしその後々に反復されるという事実を知らずとも、 もはや西瓜を食べようとしているショットの時点で深く心に響いてくるのは何故か。 それはやはりこのショットが後のふたりの運命を喚起していたからなのか。 或は、溝口健二の馳せた想いが、後に反復するこの構図から、 スクリーンを通して滲み出てきていたのだろうか。 だからか、菊之助が「お徳、ちょっと持っておくれ」などと言うだけで、 切なさが溢れ出し、涙が頬を伝うのだ。 そう、つまりこれは全て溝口健二によって仕組まれた周到な仕掛けだ。 この仕掛けは台詞ではない、身振りでもない、構図だ、ショットの持つ強さだ。 そしてショットの反復は他にも繰り返される。舞台袖だ。 映画の冒頭、父は舞台袖で菊之助の至らなさに腹を立てる。 この舞台袖での件というのは映画が進んでも幾度となく登場する。 そして菊之助がとことん落ちぶれた後に、東京への再帰をかけた舞台が終わった時の、 その舞台袖でのあの感動はなんなのであろうか。 更に、菊之助がいた二階の安下宿。ここに菊之助と離れ離れになったお徳が戻ってくるとき。 昔、鏡台を二階に運ぼうとしたときと全く同じ構図、そう階段上からのあの俯瞰のショットが、 それも空ショットとして挿入されたとき、お徳の悲しさ、寂しさ、そして優しさに心を打たれる。  そして映画はいつまでも鳴り止まぬ声援に手を上げ答える菊之助、 そして静かに息を引き取るお徳、このあまりにも悲し過ぎる対比で幕を降ろす。 しかし、美しい。この美しさは作品の持つ悲しさを破綻させるほどの恐ろしい美しさだ。
[映画館(邦画)] 10点(2008-10-14 00:01:04)(良:2票)
2.  鴛鴦歌合戦 《ネタバレ》 
こんなに楽しい映画はない。そして何度見ても、何度見ても楽しいのだからしょうがない。 ファーストショットを見ればもう一目瞭然、水玉模様の傘をさした娘、それを取り巻く男たち、彼らが橋からやってくる時の、あの得体の知れぬような浮遊感。彼らは歩いちゃいないし、スキップしちゃいない。ましてや走ってなどいない。どう考えても彼らは浮いてる。または現実的に置換えてみるならば、そう彼らは浮かれている。 浮かれているのは、何も恋した米屋や酒屋や炭屋だけではないだろう。ここでは殿様ですら浮かれている。彼は突如に歌いだす殿様なのであって、笑顔を絶やすことなどはひと時もない。終いには女の子を軽く骨董品扱いしだす始末だ、酷い。  ならばと地面一面に並べられた傘はどうだろう。だがむしろこの丸みを帯び、柔らかさもを感じさせる色とりどりの傘こそが一番の浮かれ記号なのだからしょうがない。つまり冒頭でさしている水玉模様の傘、これがもう今にも娘をどこかに飛んでいかせてしまいそうに見えて仕方がない。  だが中盤、お春はその浮かれ気分に業を煮やしてか、傘を滅多打ちにしてしまう。つまりあの娘など浮かせて堪るか、更に言えば、片岡千恵蔵演じる礼三郎すらも浮かせて堪るかという想いからの滅多打ちなのだろう。そんな愚痴しか言わない市川春代演じるお春。台詞のおよそ八割が愚痴だ。しかもたまに「ちぇっ」とか舌打ちをしたときには、生意気さをも飛び越えて愛らしくて仕方がない。  ただこの映画は浮かれてはいるが、浮かれ過ぎてはいない。それが最大の魅力だ。殿様は結局のところ浮かれ損。麦こがしの壺も一千両と聞けば浮かれるが、選ぶは心の清らかさ。さぁさ、今日も傘を広げましょう、と、観客はラスト、宮川一夫の見事なクレーンショットに乗っかって空へと浮き上がってしまうのでした。
[映画館(邦画)] 10点(2008-09-22 13:58:43)(良:2票)
3.  骨までしゃぶる 《ネタバレ》 
あのぼろぼろのチラシが捲られる瞬間に涙ぐむ。 それは書いてある内容とはまったく関係なく、 あの紙きれ一枚の存在、しかもそのぼろぼろさに泣かされる。 そのぼろぼろさというのは、姉さんとか他の女郎たちの思いだからだ。  やはり、加藤泰といえば橋のひとだけども、 そう簡単に渡れる橋など加藤泰の映画には存在していないわけで、 この映画でも、雨の中、橋を渡れず連れ戻される女郎もいる。 しかし、最後、お絹は、晴れた日に橋を悠々と小走りで渡っていくわけで、 それはやはり、お絹が自分自身で仕合せをつかみ取った証なんだなと牜nああ、またそこが泣けてくるわけで、もうしょうがない。
[映画館(邦画)] 9点(2013-05-07 00:00:51)
4.  アウトレイジ(2010) 《ネタバレ》 
黒塗りの車が幾台も通り過ぎていく。少し間隔を空けて2台の黒塗りの車がやってくる。カメラは徐々にバンクしながらクレーンダウンして行き、丁度車がカメラに対しての真俯瞰の位置に来た時、流れていた映像がストップモーションとなり、北野映画初となったシネマスコープサイズのスクリーンいっぱいが車一台で埋め尽くされ、タイトル「OUTRAGE」が刻み込まれる。そして映像は再び流れ出し、2台の車が走り抜けて行く後姿を映す。その背景には、樹々が生い茂っているのだが、更にその奥には都心部のビル群が建ち並んでいる。この映画でこれから起こる抗争の舞台となる「都会」だ。このワンショットを観ればこの映画が傑作であり、これが北野映画の上手さだと誰もが直ぐにわかる。  この映画の畳み掛ける台詞と暴力の応酬は、物語など殆ど宙吊りにし、途轍もない速さで映画を展開していく。しかし物語を忘れているわけではなく、物語は物語として成立している。つまり物語を引っ張っていく映像なのだ。映像が物語を形成するという、映画として最も正しい形をこの映画は導き出す。  そして顔だ。常に笑みを浮かび続ける椎名桔平、それと対照的に色眼鏡を掛け笑みを見せない加瀬亮、北村総一朗にひっ叩かれたとき絶妙の表情をみせる三浦友和、そしていかにもずるさが滲み出ている北村総一朗と國村隼、喜劇役者と化した石橋蓮司、成功を夢見るも決して成功を得られそうにない杉本哲太、また真逆に成功を得るために生きていくかのような小日向文世、など主要キャストのみならず映画に登場するすべての役者、彼らの顔がクロースアップのワンショットとして幾度となく繰り返されるが、そのどの顔もすべて完璧であり、彼らはその為に最高の芝居をしている。  北野武久々のやくざ映画「アウトレイジ」は、北野映画が日本映画の中でも間違いなく最高峰であり、そして賢く、そして何より上手く、更には無駄な意味など持たせずともただ単純に面白い映画を作れるのだという証明である。  「会長、オレには?」「バカヤロウ」ストップモーション、最高の終幕である。
[映画館(邦画)] 9点(2010-06-14 00:47:52)(良:4票)
5.  トウキョウソナタ 《ネタバレ》 
映画で人が走っている瞬間は素晴らしい。 この映画の主人公三人は、もう一度やり直したい、どうすればこの柵から抜け出せるかということをきっかけに、唐突に走り出す。 オープンカーの屋根を開けることで女の決意となった瞬間の美しさや、妻に見つかったことでの後ろめたさで狼狽する醜さや、大人に対する嫌悪感や子供であることの無力感、それらが一気に膨れ上がり映画そのものも走り出す。  そして彼らは「どこか」に向かう。家族という社会での最小単位のコミニュティから、救いがあるかもしれない「どこか」に辿り着くために外へ出る。しかし小泉今日子演じる佐々木恵が目にしたものは、海であり、海の向こうには陸だか船だかそれがあるのかもわからないくらいにまだ海が広がり続ける。 結局、三者とも、どこかに辿り着けそうで、どこにも辿り着けないのだ。 実際に存在したかもわからない橙色の光を見つめ涙したり、一度は死んでみたり、子供ながらに大人と同じ扱いを受けてみたり、果たしてそれが何か救いになるのか。 そして彼らは結局もとの位置に戻るしかないのだ。  恵は、自身を傷つけようとしている役所広司演じる泥棒に、最後に信じられるのは自分自身でしかないと言う。 井川遥が演じるピアノの金子先生は離婚するのだが、もともと他人だったのがまた他人同士に戻ったと言う。 所詮、個人は個人、他人は他人に過ぎない。自分ですらもうひとりの他人である。しかし一番信じられるのは自分でしかない。 この三人は静かに自分を信じ始めたからこそ家に帰り、お母さん役が作った朝食を食べたのだ。  確かに個人は個人で、自分の悩みなど自分で解決するしかないのだし、家族と言っても所詮は他人同士のコミュニティだ、でも違うんだよ、そうなんだけど違うじゃん、それだけであって欲しくないじゃんという、前向きな希望があの象徴的なラストシーンにはある。 それこそが救いだろう。許しや救いというのは愛の中にしかない。あの愛情に溢れた(ように見える)家族は陽の当たる中を、カーテンがたゆたうほどのそよ風に乗りながら、そうだけどもそうだけであって欲しくないじゃんというアカルイミライへ歩んでいくのかもしれないし、あるいはそうじゃないのかもしれない。  しかしながら、すべてはあの海だ。あの横一直線に光る白波と小泉今日子、そして朝日を目一杯浴びる。まるで生き返っていくようだ。
[映画館(邦画)] 9点(2008-12-31 23:59:22)(良:3票)
6.  LOFT ロフト(2005) 《ネタバレ》 
黒沢清は常に死を撮り続けてきた。『回路』では「死は永遠の孤独だ」といい、見た者に底知れぬ不安感と恐怖感を滲み上がらせた。この『LOFT』という映画もまた、その死と孤独、そして永遠についての映画だ。 中谷美紀演じる女流作家春名礼子と豊川悦司演じる大学教授吉岡誠のふたりは周囲の人々との関係を保つものの、どこか孤立して生きている。 そんなふたりが風吹き荒ぶ嵐の晩に、何の前触れも無しに、突如破綻したように結ばれてしまう。この瞬間、物語は立ち上がり、そして物語が機能し、また消えていく。 その繰り返しがこの映画だ。ひとつの物語を語り続けるのではなく、その瞬間瞬間に物語が立ち上がり、そして消失していく。 礼子が柱陰に見る黒い服を纏った女の件などはほぼどこにも連鎖しているようには思えず、あの瞬間にサスペンスが沸き起っているだけだ。 そんな物語の集積でこの映画は形作られているのではないか。それがショット間の断絶にも繋がり、とてもちぐはぐなショットとショットの繋がりを見せている。これもまたショットの集積と言うべきか。 これらはひとつの物語を語っていくには、映画の限界に近い、際どい表現方法であると思う。しかし思いっきり大胆に言えば、映画の豊かさを最大限にまで活用した贅沢な表象なのではないだろうか。 ラストシーン、それは最高に美しく映画的な瞬間に溢れたものだと信じてならない。 礼子と吉岡は抱き合い、ふたりで「永遠に互いを離さない」と誓った瞬間、吉岡は死を遂げたもはや魂の篭ってはいない肉体によって、沼へと連れ去られる。ふたりの永遠は一瞬のうちに完全に放棄され、生きている限り、しかもふたりでなど永遠は迎えられるわけがないのだというごくごく当たり前のようで、実は大きく勘違いをしているその永遠ということの恐ろしさと孤独感がここで瞬時に解き放たれる。礼子を俯瞰で撮らえるクレーンショットは礼子の孤独の表象ではない。つまり彼女はまだ姿を残しているのだ。いつか滅びる肉体を保持している礼子は永遠ではなく、またその後ろにぶら下がる人間としての形だけを留めたミイラは未だに死にきることの出来ぬ切なさの塊だ。 永遠の孤独、それはもはやラスト、スクリーンには映し出されることすらなくなった、沼に沈んでいった、吉岡の死のことだ。あのクレーンショットは吉岡の孤独の表象だ。
[映画館(邦画)] 9点(2008-11-03 04:46:53)
7.  真夏の方程式 《ネタバレ》 
傘、冒頭の落下と終盤の浮遊の見事さ。 赤から青へ。 そして電車は同構図の中で来て帰る。 それだけで素晴らしい。  西谷弘が視線劇をしっかりやってくるのはいつものことだが、 終盤の杏と風吹ジュンのカットバックはもうとんでもない。 見つめ合って黙っているのだけどもカットバックの間に回想を挟み、 ふたりの視線と回想で会話させている。 そして何より、マジック・ミラーを介した杏と前田吟の件などは、 視線劇を飛び越えて、もう何がふたりを会話をさせているのだろうか、 ああ、それは愛情か、血は繋がらないけども愛情だろう、やはり。 そしてシーンバックの見事な連鎖を起こさせるペットボトル・ロケットの件は、 勿論、お見事過ぎるのだし、あのペットボトルの中に仕込まれた携帯電話の動画機能、 これもまた、ある意味での視線によるカットバックをしているわけだ。  『アマルフィ』や『アンダルシア』では、ただの説明過多の回想シーンであったが、 この映画での回想はしっかりと物語として機能している。 それは、謎を解く、説明する回想ではなく、ひとを描く回想になっているからだろう。  現在の日本で唯一、シネコンで上映される大作娯楽映画を見事なまでに撮り上げてしまえる監督、 それが西谷弘であって、『真夏の方程式』は間違いなく西谷弘、ここまでの最高傑作。
[映画館(邦画)] 8点(2013-07-15 23:44:41)(良:2票)
8.  リアル 完全なる首長竜の日 《ネタバレ》 
映画なのだから、現実であろうと頭の中の世界であろうと、 そんなことはまったくもってどうでも良いことで、 その境目は物語のための説明でしかない。 物語の整合性であるとか、登場人物への感情移入などは、 映画に於いては本当に無駄な足掻きであって、 カットが変われば時間すら飛んでしまう出鱈目な映画に どうやって真っ直ぐ延びた一本道を敷けるのだろうか。 敷けない。敷く必要がない。何故なら敷かない方が面白いからだ。  いつも通りのホラー、まったく解決しないがどこか漂うミステリー、 走って落ちる活劇、まさかのジュラシック・パーク、 そしてまったく感動出来ないラブストーリー。 こういう連続的転換はスピルバーグの『宇宙戦争』を思い起こさせる。 感情から言葉を発して行動をするのは佐藤健と綾瀬はるかだけであり、 他の登場人物たちはすべて物語を形成するだけの役割だ。 そんな他の登場人物たちが退場し、 ふたりと首長竜だけしか出て来ないラストなんぞは、 物語はもう身も蓋もない状況になる。 綾瀬はるかの世界だと思って見ていた観客は、 ひっくり返ったことで実は佐藤健の世界だったと気付き、 それは綾瀬はるかがセンシングによって見ていたものと 同じものを観客が見ていたことになるわけだ。 まぁその辺の解釈はどうでも良くて、問題はそのひっくり返り後だ。 つまりは綾瀬はるかが走り出す瞬間ということだ。 それは『トウキョウソナタ』で小泉今日子が車をオープンカーにして 走り出す瞬間と同じ感動を味わえる。決意だ。 しかも、それは主役が佐藤健だったのが、 ひっくり返ることで、唐突に綾瀬はるかが主役になり、 そのままラストまで怒濤の如く雪崩れ込んでいくという 勢いを黒沢清はやりたかったんじゃないかと思う。 この物語を置き去りにする、継続性ではない連続性というのは、 どこからだろうか、恐らく『ドッペルゲンガー』からだろう。 そういった面で、この作品は黒沢清のひとつの集大成だと思う。 まぁ、それにしても、泳ぐ首長竜を俯瞰で撮らえたあの水面の美しさたるや、 固唾を呑んで見入ってしまった。
[映画館(邦画)] 8点(2013-06-03 23:45:14)(良:2票)
9.  行きずりの街 《ネタバレ》 
男は過去から抜け出せずに生きているのだった。 彼は過去の彼女が振り返る中を少女の手をしっかりと握り締め駆け抜けて行く。 過去の彼女の視線にとらわれることなく、現在を駆け抜けて行く。 そうして男は過去から抜け出して行く。 女は過去に取り残されていた。廃校舎の中に取り残されていた。 過去の彼女は振り返る。彼が自分を連れ去ってくれるのを待っている。 しかし過去は取り戻せない。 だから過去の彼女と現在の彼の視線が合うことなどない。 しかし過去の彼女はそれでいい。 彼が少女と過去を反映した廃校舎から抜け出してきたとき 彼女もまた過去から抜け出すのだから。 自分の境遇を重ね合わせることのできるもう一人の少女。 すべては現在に集束されていく。 過去という名の廃校舎をバックに現在を生きるスリーショット そしてストップモーション、ここに美しさを感じずにはいられない。
[映画館(邦画)] 8点(2010-12-14 00:45:01)(良:1票)
10.  告白(2010) 《ネタバレ》 
はじめに映画と関係ない話。未成年の殺人検挙者は戦後1960年代をピークに減少し、2002年以降では年間100人を越えたことはない。これはピーク時のおよそ1/4以下の数字だ。  映画「告白」は全く衝撃的でも問題作でもない。これを観て命の重さとか少年法とかそんなことを真面目に考える馬鹿が出てくるなら、その面でこの映画は多少なりとも罪深いんじゃないかと思う。 何故なら、これは中島哲也と湊かなえの悪意によって、子供たちを悪の化身的モンスターに仕立て上げ、血みどろの犯罪劇を描いたエンターテイメントでしかないからだ。 また映像も新鮮味はなく凡庸で、よくテレビで見るような広告的あるいはミュージッククリップ的な映像の羅列だ。それを映画として用いたことで映像的センスがどうのこうのと勘違いし、また逆にそれは非難の的ともなる。ただ思う。そんなのどーでもいいよと。これはこれでいいじゃん。イメージとしての映像。意味を求めたショットでなく、あくまで悪というイメージを表象化しただけのショット。であるから、そこにリアリズムなどというものは存在し得ないという表現ともなる。そんな現実味を感じさせないところから、問題提起や答えを見出そうとするのは阿呆くさい作業だ。 この映画が徹底して悪のイメージを描こうとしていることは、登場人物に潔白な正義というものが殆ど皆無であることからもわかる。松たか子ですら正義ではない。木村佳乃が言う通り、彼女は自分の子供可愛さに娘を学校に連れ込み、先生としての職務を怠慢している。それは事実で、端からこの学級は崩壊していて、彼女の話に耳を貸す者など殆どいない。そう、この映画の唯一のメッセージらしきもの、それは子供をしっかり育てろよ馬鹿親!ということだ。渡辺修哉をモンスターにしたのは、息子に自己を押し付け終いには放置した母親だ。涙を流し散ってゆく姿は母性的だが、あの母親もまた悪の根源だ。モンスターの親はモンスターだ。 そう、この映画は人間という名のモンスター・エンターテイメント。意味なんてない。悪と悪が対立する、リアリティの欠片もない、ただの映画。それとしてこの映画は面白い。  最後にもう一度関係ない話。この映画と同様、未成年の犯罪が増幅されているように見えるのは、報道の自由という名のエンターテイメントが創り出した幻想であり、それは子供たちをモンスターにしているのは大人だという事実だ。なーんてね
[映画館(邦画)] 8点(2010-06-25 03:19:41)(良:3票)
11.  リミッツ・オブ・コントロール 《ネタバレ》 
 拳銃を使わない映画 セックスをしない映画 携帯電話を使わない映画 復讐すらも無意味な映画 そこにあるのはふたつのカップに注がれたエスプレッソ そして幾度も同じ台詞が繰り返される 目的はひとつ「自分こそ偉大だと思う男を墓場に送る」こと そんな殺し屋の映画  物語の起伏となる要素をすべて排し ただただ淡々と時間だけが直線上に流れていく  イザック・ド・バンコレ演じる孤独な殺し屋は 仕事中の堕落を一切禁じる またパス・デ・ラ・ウェルタ演じるヌードの女は すべてを破滅に導くファム・ファタールのような素振りだが ファム・ファタールとしてはまったく機能していない そしてティルダ・スウィントン演じるブロンドの女は 「上海から来た女」の話をし始める しかしラストのビル・マーレイと対峙するシーン 一面鏡張りの部屋にしたりはしない つまりこの映画はフィルム・ノワール的要素を散りばめながらも それらを一切禁欲する 新たなるフィルム・ノワールと言えるだろう  ジム・ジャームッシュのスタイリッシュさはとても正しく どのアングルも どのカットの繋ぎも どのハイスピード撮影も どの音楽の挿入も すべて納得させられるものだ  想像力さえあれば 映画には限界はないし 映画の行く路を決めることなどできない
[映画館(字幕)] 8点(2009-10-01 16:40:52)(良:3票)
12.  レイクサイド マーダーケース 《ネタバレ》 
巻頭、仰向けとなっている状態のモデルを俯瞰で撮影する眞野裕子演じる英里子は、ファインダー越しに自分自身の未来を覗き見ているかのような構図にもなるわけだが、このことは後にするとして、まずこの行為から、彼女が覗き見る/まなざしを向けるというところにこの映画の焦点があるのだということから始めたい。 これは彼女がまなざしを向けたことによって起きる事件なのだ。 名門私立中学の不正入試を暴くまなざし、自らの子供時代を思い返すように子供に向けるまなざし、不倫相手の妻に向ける敵視したあのまなざしがある。 ただすべてが彼女だけのまなざしで成り立ってはいない。 「そんな目で見るな」という役所広司の台詞にもある通り、これはすべてのまなざし/視線を意識しなければならないのだ。死体を湖に投げ捨てるとき、大人が皆森の中で立ち尽くすとき、車がそこを通り過ぎる。この実体のない見られているかもしれないという視線をもこの映画は適切に紡ぎだす。 もうこれは見るということへの執着だ。犯人が誰であるといったことが最重要視される映画ではないのは一目瞭然。つまり犯人をこの目で確かめることが重要ではない、そんなことよりここに出てくる人々を見なさい、行為を見なさいと言っている。 そして湖の奥深い底で仰向けとなることを余儀なくされた英里子は、レンズ越しに(これは映画を撮影したキャメラという隠喩も含まれるだろう)過去の自分自身と視線が交差しまうという見事な構図となる。すべてが巻頭に回帰する瞬間だ。そして結果としてライターは彼女の瞳に突き刺さりすべてを塞いでしまい物語の幕を下ろすのだ。 実はこの彼女のまなざしこそが、受験によって変化を遂げていく人々の唯一の救いの手であったのだろう。それがあの青空の中、深々とした緑に彩られた森を背に、湖畔の上をそよぐ彼女のまなざしへとここでも結実して暴かれる。 救いの手をもこの世から消し去ろうとするこの湖畔での殺人の場合、または受験というものの場合の恐ろしさが、あるいはひとというものの醜さが、狂ったかのようにひとを一変させてしまうのだが、それをすべて見たのは他でもない我々観客なのだという事実は誰にも回避できない。
[映画館(邦画)] 8点(2009-03-29 01:36:43)
13.  野獣の青春 《ネタバレ》 
誰が野獣で、何が青春なのかさっぱりわからない、日活時代の鈴木清順にしては珍しくコミカルさを廃したハードボイルドものだ。 冒頭、花だけが赤いという、要するにそこに注目を置きたい強調したいだけに過ぎないことを、そうやって派手にやるのが日活時代後期の鈴木清順なのだ。世には美学美学、美しいと言われるのだが、大きな間違いで、ただのデフォルメに過ぎないのだ。 当時の日活撮影所で作られる映画の本数など数えきれないほどだった。ではその中でどうしたら目立てるか、どうしたら人と違うことが出来るかということ、それがデフォルメということだ。やくざの事務所などという設定はあまりにもありふれている。しかしそれで映画を撮らなければならないのが、撮影所所属の鈴木清順の仕事なのだ。そこで思いついたのがキャバレーのミラー越しの事務所、映画館のスクリーンの裏の事務所、更には黄色い砂風荒ぶ荒野にまで及んだということだ。つまり何度も言うが、美学なんかではない、どうすれば他とは違うかという、既存の映画に対するデフォルメでしかないのだ。要するに文化祭の模擬店などで他の店より目立とうと屋台を派手に飾り付けるようなものだ。売っている焼きそば自体はどこも味は大して変わらないのにだ。 そして宍戸錠というなんとも覚束ない歩き方をするこの役者、この人が鈴木清順の最高の共犯者なわけで、とてもじゃないが二枚目でかっこいいなどとは言えないこの男、むしろ泥臭くてかっこ悪いのだが、宍戸錠は宍戸錠を自分でデフォルメする力を持っているらしく、それがかっこ悪いのだけれどかっこいいのだ。やること為すことあまりにも出鱈目で無茶苦茶過ぎてかっこいいのだ。あの笑顔が似合わない憎たらしい顔といったらこの上ないくらいにかっこ悪いけどかっこいい。 日活時代の鈴木清順の映画は、当たり前のように美味しい焼きそばは作る(ま、それ自体が凄いのだけど)。ただそれだけでは売れない。だから屋台を飾り付ける。つまり本当は目立ちたがりでちょっと気恥ずかしくなるなというようにかっこ悪いはずなのだが、あまりにもそれが出鱈目過ぎ(るにも関わらず、鈴木清順のたちの悪い知性が見え隠れしてしまっ)てかっこいいのだ。
[映画館(邦画)] 8点(2009-03-23 03:54:29)(良:1票)
14.  任侠ヘルパー 《ネタバレ》 
西谷弘のテクネーなどという論文があったとするならば、 先ず論ずるべきは間違いなく、視線で描く演出の美学なるものだろうか。 西谷弘がまなざしで映画を作っていることは『アマルフィ』や『アンダルシア』の時点で 既に散々と書いてきたことなのだが、役者が向けるまなざしとそのまなざしの先にあるもの 例えば、草彅剛が見ているというショットと、何を見たかというショット これらが物語を展開していくという流麗な手捌きこそが 西谷弘の映画の巧みさのひとつであることは誰にでもわかるだろう。 それは、誰をどのような玉で撮るのか、広角で撮るか、望遠で撮るか 後ろのボケ具合はどうかといった、撮影山本英夫の巧みさと相俟って成立している。 更に、このシーン繋ぎの見事さはなんだ。ひとつ例を挙げるとすれば 介護都市にしようという看板へのトラックインに、演説の音声をずり上げし そのまま香川照之の演説シーンへと移行する華麗さ。見事という他にないだろう。 そして冒頭のトンネルのシーン、ラストのトンネルのシーンという反復性。 つまり主人公がこの先どうなるのかという暗示であり、この映画の結末である。 西谷弘の計算され尽くした演出力は、凡庸な脚本をここまでに仕立て上げてしまう。
[映画館(邦画)] 7点(2012-11-26 00:38:33)(良:1票)
15.  アンダルシア 女神の報復 《ネタバレ》 
やはり悪くない。寧ろ前作より良くなっている。視線でのやりとりを描くことが前作より更に意味を増しているし、重要なアクセントとして機能している。 冒頭近辺での織田の登場シーンは秀逸だろう。一番初めの登場は視線云々とは無関係だが、背景に何気なく溶け込んでいるという登場のさせ方も良い。そして何より2度目。黒木と伊藤の視線で描き出す黒田という役の神出鬼没ぶりが上手く描かれている。 この映画の上手さというのは実は列挙に暇ない。黒木の証拠隠滅シーンのモンタージュ、織田から壁に掛かった地図へパンしての空間処理の仕方、織田とバイクをワンショットに収めることでのその後の省略、どれも映画として実に素直であり上手い。 風や窓、ラジオからの曲などという効果も上手く散りばめられている。特に、ラストへの伏線としての窓の開け閉めの描き方は非常に良いカタルシスをもたらす。 黒木が脚を引き摺りながら逃げる横移動の美しさ、そしてバックからのロングショットに銃声を被せた突入の処理の仕方も好感が持てる。 そして何よりも言いたい。ダウンジャケットの羽。織田と黒木のジャケットから羽が出るという共通項であり、これは完全にミスリードを誘っている。上手い。 ただしかしながら、やはりラスト近辺での織田再登場時の説明過多なインサートシーンの数々は頂けないし「アンダルシア」の良い部分を台無しにしている。思考停止し脳内補完できないと観客を馬鹿にした作り方をしてはいけない。
[映画館(邦画)] 7点(2011-07-01 18:19:46)(良:1票)
16.  パンドラの匣 《ネタバレ》 
冨永監督作品の持つどこか得体の知れない軽さというのはひとが生きている上での軽薄さに似ている。またあるときその軽さはポップさに姿を変えるのだが、それはひとが生きている上での明るさにも通ずるだろう。 「やっとるか」「やっとるぞ」「がんばれよ」「よーしきた」「いやらしい」「いじわる」「しるもんか」などと反復され続ける言葉、言葉、言葉と言葉で埋め尽くされた映画であるが故に、どれが真実の言葉であるかということは実に曖昧であり、ひばりが手紙で綴り続ける嘘という軽薄さがあり、即ち言葉自体の軽薄さだ。であるからこそ、その軽薄さというのがこの映画における徹底した同録からの回避というところに現れているのではないだろうか。ひとの本心と口から出てくる言葉や紙に綴られる言葉は必ずしも表裏一体ではないということだからだ。マア坊が布団部屋でひばりに詰め寄るシーンなどは言い方を変えただけの同じ台詞が多重録音され、どの言い方がマア坊の本心なのかなどさっぱりわからない。肉体と言葉が乖離するとき映像と台詞も乖離するのだ。 そしてやはり死と隣り合わせではあるものの、この作品は実にポップであり、生の明るさに満ちている。それは窓外を明るく飛ばし、全体をオーヴァーめにした撮影プランなどでもはっきりと伝わるのだし、それは実に清潔的で好感が持てる。しかしナイトシーンは実に情けない。夜は青くはない。夜は暗いのだ。べっとりと青く染まった人物の表情などは見るに耐えないものだった。 そして何よりも、歌手であり近年ではほとんど作家となっている川上未映子が女優として堂々と主演を勤めるわけだが、これが良い。贔屓目に見ても悪くない。ギターの演奏シーンなどは実に良い。このひとは一体どこへ向かっていくんだろうか。 この映画で冨永監督は太宰治の描くひとの軽薄さを軽やかに表現しているだろう。決して傑作というものではないが、太宰治の生誕百年を迎える今、作られるべき映画であったと言える佳作だった。
[映画館(邦画)] 7点(2009-11-05 01:29:21)(良:2票)
17.   《ネタバレ》 
この映画の幽霊の表現があまりにも大胆であることに驚く。 結果的に小西真奈美演じる春江は幽霊だったのだが、映画における幽霊という存在は大概が誰か、つまりある登場人物が見た幽霊という存在としてはじめて幽霊は存在するのが一般だが、この映画ではその幽霊が階段をひとりで降りて、道をひとりで歩いている。しかも真っ昼間にだ。誰に見られているわけでもない(あえて言うならキャメラを通してスクリーンにて我々観客が見ている)独立した存在の幽霊ということだ。まるで春江という幽霊がごく日常の中に生身の人間の如く存在していているようなのだ。これはかなり際どい表現であると思うし、今までの幽霊が出てくる映画ではこのような表現はほとんどない。 そもそも葉月里緒菜演じる最も幽霊らしい幽霊ですらおかしい。律儀に扉から出て行く幽霊というのは一体何だ。 結局、この映画における、というより黒沢清における幽霊の解釈が以前の彼の作品より遥かに自由になり、生身の人間の意識と平行して存在するわけでなく、彼女ら自身もそれとして意識を確立し日常にごく普通に溶け込んでいるという大胆な解釈になったのだ。 なのだから、この映画の幽霊は恐くない。生きている人間と死んでしまった人間というくらいの差異しかない。 ただ葉月里緒菜演じる最も幽霊らしい幽霊の迫り方は、「DOOR III」と全く同じだが、この表現方法はやはりなかなか怖い。  すべての過去はなかったことになどできない。過去は迫ってくるのだし、責任を負わなければならない。
[映画館(邦画)] 7点(2009-05-06 05:07:36)
18.  クロユリ団地 《ネタバレ》 
兎に角、冒頭から伏線張り巡らしまくるのだが、とりあえずすべて回収している。 100分ちょいでこれだけやるわけだから、流石中田秀夫だというところ。 手持での主観と客観の切り替えという伏線の張り方は上手いが、 そこから更に台詞の反復があり、しかも何度も、流石にあざとすぎるだろう。 分かり易さとか、ましてや観客が望むのや期待しているのものへと媚び売る作りは 作品の質を落とすだけでまったく効果的ではない。 わからないやつなど放っておけば良いのだ。 誰でもわかるように作る必要性などない。 そんなものはテレビの子供番組くらいにしておけば良いのだ。 であるからこそ、公園での前田敦子と子供の会話が全部アフレコなのは 完全なる見事な伏線であり、あんなものは気付かないひとは気付かない。 しかし、どこかおかしいという違和感を覚える。 その違和感こそが映画を映画館で観る面白さだろう。 それにしても手塚里美の登場シーンの数々には笑えた。 あれこそがホラー映画の醍醐味というかなんというか。 霊を祓うなどという無力さが炸裂し、最後は吐血するという見事な出来栄え。 幽霊なんて、結局最後は暴力でしか解決できないからね。 この映画ではそういうものが一切ないのだが、 これはなんだか主役を替えて続編でも作ろうとする企画力なのか、 秋元康といえば『着信アリ』とかもあるわけで、ふーんと思った。
[映画館(邦画)] 6点(2013-05-25 01:47:49)
19.  アナザー Another(2011) 《ネタバレ》 
前半にある主人公が南瓜が嫌いであるという食卓のシーン。 テーブルに用意されている食事はふたつ。 誰もが、何故ふたつしか用意されていないのだろうかと思うはずだ。 ここが完全なる伏線になっている。 中盤あたりからこの映画は死者探しへと物語を移行させるわけだが、 ああ、成る程、だからなのかと思う。 勿論、ここで死者が誰であるかということは誰にでも確信できるわけだが、 そこは問題ではない。 これは橋本愛のための映画だからだ。 あの眼帯を外す瞬間こそが、この映画の最高の見せ場であり、 そのためのライティングが成され、そのためのクロースアップで撮られている。 女優はスタッフにそうさせようと思わせる存在でなければならないが ただそれに甘んじてもいけない。 それはとても贅沢なことなのだから。 この映画での橋本愛が演じる鳴という存在の描き方。 その存在が一体なんであるのかが明らかになるシーンでの衣裳。 今までの制服から一転、私服になり人形に紛れる。 そしてラストシーンに至るまでの彼女の衣裳の変化だ。 徐々に徐々に明るい色へと変化していく彼女の私服は 彼女の感情の変化に他ならないはずだ。 これが演出というものだろう。 この映画は例えばルチオ・フルチのようなイタリアホラー的な要素が 詰め込まれていてそういう面でも楽しめるわけだが、 別にそんなことどうでもよく、結局は橋本愛だろう。 蛇足として、この映画には黒沢清『叫』の小西真奈美のシーンと 同じような解釈を施しているシーンがある。 勿論それは加藤あいが合宿の写真を見つけるシーンだ。 大胆というか、辻褄はまったく無視されているというか、 あのシーンの意味がね、まったくわからん。 あの絵のこととかを考えると、 実はさらりと感情的に深いとこをえぐっていたというとこなのだろうか。
[映画館(邦画)] 6点(2012-08-10 00:30:15)(良:1票)
20.  八日目の蝉 《ネタバレ》 
結局感情がいちばん揺さぶられたのは、自転車の動作の反復だった。 冒頭近辺で井上真央が坂道を自転車に乗り、脚を広げ下っていくというなんの変哲もないショットがある。このショットはその時点では本当に何の変哲もないショットなのだが、何かを凄く感じさせるものがある。それが何かはその時点では当然わからない。 これは溝口健二の「残菊物語」の勝手場での西瓜の件に何かを感じるのと似た感覚である。後にこの勝手場が同構図で反復される。「残菊物語」をご覧になっている方は勿論わかると思うが、反復された構図の中で主人公がただひとり佇んでいるだけなのだが、同構図が反復されることによって、観客はあのふたりで食べた西瓜の時を思い出しているのだろうと思うと、とても切なくなるのだ。 話は「八日目の蝉」に戻る。この井上真央が自転車に乗り、脚を広げるという動作は後に永作博美が行う動作である。つまり血の繋がりなど全くない母親と自転車に乗ったとき、その母親が行っていた動作「脚を広げる」ということを、思い出として身に染み入っていたということがここでわかるのだ。であるから、永作博美が自転車に子供を乗せた時点で、ああなるほどこれはやばいぞと思い、わたくしは迂闊にもここで涙した。 溝口は同構図という反復、この映画は動作。違いはあれど反復することで意味を成す場合、反復前のものに何かが宿ってしまうのは当然だ。だからこそ、井上真央の時点でスクリーンから何かが滲み出ていたように感じたのだ。  さて、涙したから良い映画なのかというとそれは少し違う。この映画は井上真央や永作博美や小池栄子に比重を置き過ぎで、その他があまりにも御座なりだ。特に男の描き方があまりにも極端だ。「お父さんみたいな男」という表現に全てを集約し、この映画の世界に完全に閉じ籠ってしまう。その閉じ籠った瞬間がある以上、その裏返しとして、女は伽藍堂であるかないかというだけの狭い世界となる。そうじゃないじゃんって思ってしまうわけだが、そこで小池栄子だ(彼女は素晴らしい。ホテルで告白するときのテンションの上げ方、背筋の曲げ具合、そしてあの台詞回しのテンポ、本当に凄まじい女優)。しかし、余りにも歪な役過ぎてそれを解消出来るポジションにはいないだろう。
[映画館(邦画)] 6点(2011-06-12 03:18:16)
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