1. ラッシュ/プライドと友情
デジタル化が進んだなかで、映画は何でもありというか、映像で表象=再現できないものはない(と、自負する)次元にいたった。が、昨今のアメリカ映画を見ていて思うのは、もはや過去の映画や映画人たちが遺してきたもの(それは「技法」であり「法則」であり何より「精神」というべきものだ)が、どうやらすっかり顧みられないというか、失われてしまったということだ。なるほど、往年の名作や巨匠たちの一場面やタッチを想起させ、あからさまに「引用」する場面にでくわすことは、最近の映画にあっても珍しいことじゃない。けれどそこにあるのは、その名画や巨匠たちの映画的な「記憶(それを、「愛」と呼んでもいい)」ではなく、単なる映像的な「コンテンツ(!)」として“再利用”するものでしかないだろう・・・ そのなかで、たぶんロン・ハワードは、今なお「記憶」によって映画を撮り続ける数少ない存在だ。この『ラッシュ プライドと友情』にしても、2人の伝説的なF1ドライバーのライバル関係を描きながら、まるでアニメ『トムとジェリー』の猫と鼠よろしく“仲良くケンカ”しあう両者に、思わずぼくは『港々に女あり』のヴィクター・マクラグレンとロバート・アームストロングを連想してしまう。さらに、“ああ、ダニエル・ブリュールは『ハタリ!』におけるハーディ・クリューガーのようじゃないか!”などと思ったりしてしまうのである。というか、そもそもこの映画自体が、『群衆の歓呼』や『レッドライン7000』といったカーレース映画の精神的な「リメイク」ではないのか? ・・・等々、そこにハワード・ホークス監督の諸作品をダブらせずにはいられなかったのだ。 もちろん、そういった見方があまりにシネフィル的なものであり、何も語ったことにならないことは承知している。ただ、ホークス作品の男たちが「意地」と「心意気」のためだけに生き、時には死んでいくという“単純さ”ゆえに輝いていたなら、このロン・ハワードの映画もまたその“単純さ”こそを継承しようとしている。そしてそれが、どれだけデジタル技術が発達しようが表象=再現しようもなかった「(アメリカ映画の)精神」を、2人の主人公の生きざまを通してぼくたちに見せ(=魅せ)得たのだ。 とどのつまりは、「ロン・ハワード(・ホークス)万歳!」。以上。 [映画館(字幕)] 10点(2014-04-05 15:56:23) |
2. ゼロ・グラビティ
《ネタバレ》 冒頭近くであっという間に出演者が2人となり、その後はほとんどがヒロインを演じるサンドラ・ブロックのひとり芝居。しかも、大半は宇宙船内という限定された舞台設定は、まあ巨額の予算をSFXに投じただろう映画にしては何とも“こぢんまり”とした印象を与える。しかも、上映時間が90分ちょっとというのが、ますます「B級映画」風じゃないか。 もちろんそれは良い意味で言っているわけで、近頃のアメリカ映画「大作」におけるやたら詰め込みすぎたサービス過剰感や、それゆえの長すぎる上映時間を思う時、本作の魅力はその「B級」ぶりにこそあるのだ、とすら断定したいくらいだ。そして何といっても、映画をほとんどひとりでしょって立つサンドラ・ブロックの素晴らしさ! 途中で下着姿になるんだけど、なんだか容貌も肉体もより若々しくなっているんじゃないか、と思わせる“いいおんな”っぷりに目がくぎ付けとなった(もちろん、ヘンな意味じゃなく・笑)。 もっとも、監督のアルフォンソ・キュアロンは自分が「B級映画」を撮っているという意識など毛頭なかったろう。劇中でもオマージュを捧げていたように、『2001年宇宙の旅』や『アポロ13』などの超「A級」な作品こそがキュアロンの念頭にあったことは、画面のはしばしから見受けられる(その「野心」の最たる発露こそ、冒頭の10何分に及ぶ“長回し”場面にちがいない)。そして、『バーバレラ』からせっかく“宇宙ストリップ(!)”を引用=再現したのに、これがちっともエロくないのもまた、たぶん生真面目すぎるほど真面目なこの監督らしいというべきか・・・ ということで、良くも悪くも“マジメなくせに野心的”な本作は、それこそB級映画的にハジケる契機[チャンス]をかえりみることなく、この「女性宇宙飛行士の帰還」という単純な物語を、「胎内(=宇宙船)→出産(=大気圏突入)→羊水(=湖)から這い出て二本足で立つ(=人間の誕生)」というスタンリー・キューブリック風(?)の壮大な(と同時に、いささか図式的すぎる)「象徴劇」としてみせた(その結果の「アカデミー賞」というワケだ・・・)。ともかくオメデトウ、アカデミー賞授賞式に同席していたべっぴんな奥様もきっとホレ直したことだろうね、キュアロン監督! (と、やっかみを込めて・・・笑) [映画館(吹替)] 6点(2014-04-02 15:38:46) |
3. リトル・ランボーズ
《ネタバレ》 英国映画の「男の子」たちは、いつもオトナや社会と〈葛藤〉している。階級差や家族関係、あるいは抑圧的な学校と教師たちなど、文字通り“四面楚歌[スクエア]”な現実に対して闘争、あるいは逃走し、自分たちだけの「(精神の)ユートピア」を築こうとするのだった。たとえば『小さな恋のメロディ』しかり、『リトル・ダンサー』しかり・・・。 ・・・そこにあるのは、ともに家庭に問題をかかえ、孤独だった少年たちが、いっしょに何かを成し遂げようとすることで心のきずなを結んでいく姿だ。だからこそ、スタローンの『ランボー』に熱狂し、自分たちだけで“リメイク(!)”しようとする11歳の少年ならではの奇想天外・抱腹絶倒・天衣無縫な撮影シーンは、大笑いさせられながらもあれほどみずみずしく、感動的なのである。同時にそれは、ふたりをとりまく家庭や社会や学校からの“逃避”であり、その時彼らが創ろうとしていたのは、映画である以上に、家庭や学校や教会から唯一自由になれるふたりだけの「ユートピア」に他ならないのだった。 やがて、そんなふたりだけの「ユートピア」に割り込んでくる大人びたフランス人少年の登場で、ウィルとカーターのあいだに決定的な“溝”ができる。文字通り身も心もカーターを傷つけてしまったウィルは、もう一度カーターとの心のきずなを築き直そうとするだろう。なぜなら、友だちへの裏切りこそ最も恥ずべきことであり、その回復こそが男の子たちにとって至上の〈倫理〉なのだから。 「友情はセックスのない恋愛である」といったのは、作家の橋本治だった。そのことの意味を、この映画ほど実感させてくれるものもないだろう。それは、どんな美男美女が演じる「恋愛ドラマ」よりも純粋[ウブ]で、歓喜に満ち、痛ましく、そして感動的だ。・・・この映画の原題『Son of Rambow(ランボーの息子)』の“Rambow”は、本当なら“Rambo”の綴り間違いだが、ぼくはそれを“Rainbow”と見まちがえた。しかし映画を見終わって、“ランボーの「息子」たち”は、“虹[レインボウ]”こそがふさわしいじゃないかと、思い直したのだった。そう、「男の子」であるのは、まさに虹のようにはかない一瞬であり、だからこそ美しいのだ。 [映画館(字幕)] 8点(2011-04-26 12:16:28)(良:2票) |
4. 小さな恋のメロディ
《ネタバレ》 これはもう、メロディちゃんを演じるトレーシー・ハイドに尽きる! ・・・と書こうとして「トレーシー・ローズ」って打ってしまった小生は、もはや永遠にこの映画について語る資格を失ったような気がする・・・ けれど、まあ、気を取り直してコメントさせていただくなら、英国の厳然たる「階級(クラス)」をシニカルに戯画化しつつ、そんな現実を軽やかにブッ壊していく主人公たちはじめ少年少女たちの姿に、あらためて感じ入りました。脚本のアラン・パーカーやワリス・フセイン監督らの作り手は、もはや挫折に終わった当時の世界的な「革命」の夢を、トロッコで地平線の彼方に消えていく“小さな恋人たち”に託したんだろうなぁ。そう思うと、なんか切ない気分の映画でもあります。 それでも、ビージーズの歌をバックにメロディちゃんが金魚を持って街をゆくシーンは、最初に見た中学生の時も、そしてオジサンの今も、変わりなく胸がキュンとしてしまう。いかにもロンドンの下町のオンナノコ風な彼女に、映画自身が“恋”したかのような眼差しが、そこにはある。(それでもやっぱり小生は、実のところローズ嬢こそ“もっと大好き”だったりするんですが・笑) とにもかくにも、自由恋愛万歳!! [CS・衛星(字幕)] 7点(2009-09-01 16:10:56) |
5. ターミネーター4
《ネタバレ》 まさにイーストウッドの硫黄島2部作を思わせる、冒頭のくすんで色褪せた映像による戦闘場面にはじまって、確かにこの映画は、これまでに見てきた様々な有名作・ヒット作・マニアックなB級作(マイケル・アイアンサイド! そして『スクリーマーズ』!)などのあのシーンこのシーンを彷彿させる“既視感”に満ち満ちている。全編これ引用=再現の連続、オリジナルに対する模造品[パスティーシュ]そのものだ。 それをオリジナリティの欠如だと否定するのも、ただのパクリじゃんと嘲笑するのも簡単だろう。が一方で、そういったシーンのすべてにおいて、無節操であることに開き直るあつかましさや、パロディやら引用と言い募るようないやらしさを感じさせないのも、また確かなのではあるまいか。ここにあるのは、マックGが愛してやまない映画たちへの単純にして純粋なオマージュであり、それらを自ら再現することへの無邪気なヨロコビそのものだ。そして、そんな〈愛〉の対象の最たるものが当の『ターミネーター』シリーズだったことは、たぶん間違いない。 そう、これは、映画が好きで、何よりキャメロンが創りあげたこのシリーズが大好きな男の手になる作品だ。だからこそ1作目と同じ容貌のシュワルツェネッガーが登場した時、単なる楽屋落ちやファンへの目くばせという次元を超えた「感動」があったのだと思う。マックGは、何としても『1』のシュワを自作で登場させたかった。ただそれだけの欲望と歓喜が、映画を見るぼくたちのハートに“共鳴作用”を呼んだがゆえの感動だったのだと。 それを、ただ「頭が悪い」と一笑に付すのは、先にも言ったように正しい。が、C・ノーラン監督のバットマン・シリーズみたくシニカルにお利口ぶった映画じゃなく、あるいは、映画を新奇な「見せ物[スペクタクル]ショー」程度のものとナメているとしか思えないマイケル・ベイ監督の撮るようなシロモノでもない、いいトシをしたオトナが「俺が見たいターミネーターを、俺自身が撮ったんだぜぃ!」と嬉々としているかのような本作にこそ、ぼくは文句なしに心ひかれる。しかも、数限りない制約だの軋轢の連続だったろう製作過程にあって、そういったノーテンキさをギリギリ貫けたあたり、この監督の“したたかさ”が窺えるじゃないか。 結論。「頭の悪さ」も、時には“才能”たり得るのです。 [映画館(字幕)] 8点(2009-08-19 12:52:26)(良:3票) |
6. 風の中の恋人たち
何だか見終わって、いや、見ている間じゅうも、まるで“夢”のような感触を与える映画なのだった。そして夢が、常に“自分が知っている(経験した)こと”の反映であるのなら、この映画のなかで描かれているひとつひとつが、どこか既知(デジャ・ヴ)めいた、なつかしい、甘やかな感傷に浸らせてくれるものとして、ある。それは、この映画を見てずいぶんと時間が経った今もなお、小さな余韻を残し続けているのだ。 上流階級に育った10代の英国娘が、旅先で出会ったフランス人労働者の青年にひかれ、彼が暮らす田舎町で一緒に住むことになる。けれど、国も、生活も、まるで違うふたりは、愛し合いながらも心がすれ違いはじめていく。 ・・・それだけを聞くなら、何て陳腐! と思われるかもしれない。実際この映画に、何ひとつ「目新しいもの」はないだろう。しかし、異国の小さな町で暮らす主人公の少女の、日々の生活のなかで感じるささやかな喜びや幸福感、とまどい、悲しみといった感情のひとつひとつに、見るぼくたちはきっと誰もが心を動かされ、前述の通り“不思議ななつかしさ”を覚えてしまうのだ。 たぶんそれは、この映画の描こうとしているのが、人生のある一時期だけにゆるされた“恋”であるからではないか。子供の無分別とも、大人の打算とも違う、純粋ゆえに不器用で、優しいくせに傷つけてしまう、けれど真っ直ぐに相手と自分を見つめようとする“恋”。 なるほど、いわゆる「青春」の恋を描いたものなど、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』を筆頭に古今東西数えきれない。が、この映画が本当に描こうとしたのは、“恋”そのものではなく、それが「ある一時期だけのもの」であるという“かけがえのなさ”ではないか。だからこそ、遠い極東の島国で、30歳(だったんです、見た時は・・・)の男にもそれは受け止めることができた。何故なら、どんなカタチではあれ、きっと誰もが人生の「ある一時期」を経てきているのだから。 その意味で、これはむしろ「大人たち」こそが見るべき映画かもしれない。そして、今では忘れた(あるいは、忘れたふりをした)あの頃の“自分たち”を見出してほしい。その時、この何の変哲もない「青春映画」は、あなたにとっても“夢の1本”になってくれるはずだから。 [映画館(字幕)] 8点(2006-09-12 13:35:17) |
7. チャーリーとチョコレート工場
《ネタバレ》 ダニー・エルフマンの音楽に乗って、奇妙かつ奇ッ怪な機械が、踊るように、歌うように、チョコレートの原料を溶かし・固め・包装していく。そのオープニングで、ぼくは確信した。“これだ、この感じだ。あのバートンが還ってきた!”と。…そう、ティム・バートンの映画は、常にこんな「ガジェット感覚」に満ち満ちていた。どこかグロテスクなまでに誇張された、オブジェのような機械が、精確無比に動き出すことの驚きと快感。その「荒唐無稽さ」が、もはや忘れていた(と言うか、「封印」していた)幼い子供時代の「熱狂」と「破壊衝動」を呼び覚ます(…そう、子供たちは「動くもの」が大好きで、しかもそれを「壊すこと」に夢中になるものだ)。それこそがバートン作品の“核心”でなり、そのアナーキーな魅力の中心だったはずなのだ。 それが『マーズ・アタック』以降、彼の映画は、そんな破壊的なパワーをあっさりと失ってしまう。一見するといかにもバートンらしい題材や物語であり、美術やセットでありながら、そこにはあの「熱狂」も「破壊衝動」もすっかり消え失せてしまっていたからだ…。 しかしこの最新作でバートンは、ふたたび彼独自の「ガジェット感覚」を、そのアナーキーな“毒(!)”に満ちた魅力を、画面いっぱいにブチまける。あの、子供たちをひとりひとりを見事に、そして最高にイヂワルく“始末”していく装置=機械の、何というブラック・チョコレートな味わい! そう、やはりバートンはこうでなくっちゃイカンのだ。 しかも、初期のバ-トン作品が「父親」を失った「孤児」の物語であったこと。彼らの“反社会的”な振る舞いが、結局のところ「孤独」に起因し、それがいびつな形で表出されてあったものであったことを、この映画はあらためて教えてくれるだろう。最後にジョニー・デップの主人公が父親と“和解”する。その父親を、クリストファー・リーが演じていることにも、ぼくたちはナミダするだろう。…そう、バートン作品で真に「父親」を演じられるのは、ヴィンセント・プライスとリーしかいない。ユアン・マクレガー=アルバート・フィニーでは駄目なのだ! とにかくバートンの<天才>は、この「クリスマス映画」において見事に復活した。そのことを、何より嬉しく思う。 [試写会(字幕)] 9点(2005-09-07 13:35:42) |
8. 星の王子さま(1974)
まだ映画館が入れ替え制じゃなかった中坊の頃、朝から夕方まで続けて3回見ました。それからサントラLPも買って、何度も何度も聴きました。その後、残念なことに1度も再見する機会がないままだけど、この映画を愛おしむ気持ちは、今も変わりません。それが多分に、記憶の中で美化されたものであることを承知しつつ、あらためてこの映画にささやかなオマージュを捧げたいと思います・・・。 ぼくはこの映画の、何よりその“小ささ”を愛する。アメリカのミュージカル作品でありながら、大規模なセットも、華麗なダンスシーンも、目を見張るようなカメラワークとも無縁な、むしろそういった「メイド・イン・ハリウッド」的な(あるいは、「ブロードウェイ」的な)要素とは徹底して逆をいくその“小ささ”を。それはあくまで原作に忠実であろうとしたからであり、「見えるもの」よりも、「見えないもの」こそが大切なんだ…と語りかける物語が要請したものであるだろう。いかにもアメリカ映画らしいスペクタクル(見せ物性)じゃなく、スペキュレイティブ(思索的)なものをめざされた映画。その静けさと、純粋さ。 だからここでは、あのジーン・ワイルダーですら驚くほど透明感あふれる演技を見せるのだし、ボブ・フォッシーの演技と圧倒的なダンスも、それ自体は過剰なまでに突出していながら、決して作品を破壊するものではない。それすら精神的なものへと消化=昇華され、この、「愛と孤独をめぐるささやかな寓話」へと内面化されていく。その慎ましい“小さな(寓話)世界”を構成するものとして、静かにおさまっていくのだ。 もちろんこの作品は、難解でも、知的ぶったシロモノでもない。だが一方で、有名な童話をミュージカル映画化した単なる「ファミリー映画」でもないだろう。これは、「本当に大切なものは目に見えない」という、その「目に見えないもの」を映画にしようとした、ほとんど無謀なと言ってもよい作品だ。そしてぼくという観客には、確かにその、「大切なもの」が見えたように思えたのだった。 ・・・たとえ世界中がこの映画を忘れても、きっと、ぼくは決して忘れない。 [映画館(字幕)] 10点(2005-07-22 14:03:51)(良:1票) |
9. 火星人地球大襲撃
《ネタバレ》 【なにわ君】さん、ぼくはかなり以前に見たっきりですけど、この映画が大好きなんです! 地下鉄工事現場で謎の宇宙船が発見され、触れた者は奇怪な幻覚に錯乱状態になるという序盤から、何となく『ミミック』を想わせるサスペンスフルな趣にもうワクワク・ドキドキ。やがてその幻覚が火星人の「思念パワー」によるもので、宇宙船の中から巨大な昆虫型の火星人の死骸が現れ、博士が火星での「最終戦争」のカタストロフィを“幻視”するあたり、「ああ、エメリッヒの『インデペンデンス・デイ』でもこの設定を頂戴していたっけ」と、もう完全にストーリーに没入。そして火星人の思念パワーが全開となり、ロンドンの街に邪悪なエネルギーが実体化して人々を狂乱させるクライマックスは、トビー・フーパーの『スペース・バンパイア』と同じじゃん! と大興奮でありました。何より、あのゆらゆらとそびえるエネルギーの塊の、実に「悪魔」的な視覚イメージの卓抜さ! そう、このたいして予算もかかっていそうにないSFスリラーは、前述の通り、その後に作られた数々の大作映画の「原典(オリジン)」として、未だその魅力を喪っていないとぼくは思っています。いわゆる「侵略ものSF」でありながら、エイリアンを未知の怪物とせず、“攻撃本能”と“憎悪”の感情の増幅されたもの、とするあたり、これがまぎれもないH・G・ウェルズの『宇宙戦争』の、巧妙な翻案であることを証明するものでありましょう。そしてウェルズの小説が、戦争と破壊の「黙示録的世紀」だった20世紀への予言と警鐘として読み得るように、この映画もまた、ひとつの「アポカリプス」の現前化として創られていることを、ぼくは信じて疑いません。 …クライマックスで、あの巨大なエネルギーの塊を「アース線」の原理で“消滅”させるあたりも、戦いの神「マルス(=火星)」に対する地球(=アース)の勝利を謳う《寓話》としてお見事! 怪奇ゲテモノ映画専門のハマー・フィルム製作であるこの作品、なかなかどうしてスミに置けない小さな大傑作だと思いますですよ。 8点(2005-03-23 14:16:52)(良:1票) |
10. アレキサンダー
《ネタバレ》 何なんだ、この“居心地の悪さ”は…。 まるで「新派悲劇(!)」のように大仰な役者たちの演技。「引き(ロングショット)」も「寄り(クローズアップ)」もほとんど考えてないかのような、一本調子のキャメラ。10何年という遠征の長さをまるで感じさせず、さらにはアレキサンダーの父王暗殺シーンの“場当たり的”な挿入や、ラストの、アンソニー・ホプキンス扮するプトレマイオスに語らせた言わずもがなの“仰天発言”などなど、一種ア然とさせられるストーリーテリングの朴訥さ。…その他、まるで「映画がやってはいけないこと」を、あえてと言うか、わざとやっているかのような感じなんですよね。 確かに戦闘シーンなど、予算をかけただけのことはある壮麗さだと認めつつ、みなさんご指摘の通り『ロード・オブ・ザ・リング』や『トロイ』などの後だと、やはり二番煎じの感はまぬがれない。しかもインドの密林におけるそれなど、まったく『プラトーン』のベトナム戦争と同じ撮り方(画面が真っ赤になるソラリゼーション処理は『ドアーズ』か…)で、斬新であるよりも、オリバー・ストーン監督の才能の「枯渇ぶり」を印象付けるんじゃあるまいか…。いったい、これが本当に「ストーン監督の生涯の企画」だったのかと疑いたくなったのは、ぼくだけ? が、もはや「失敗作」ですらないこの映画を茫然と見続けながら、その画面の向こうに、ただ途方に暮れているオリバー・ストーンの姿がありありと浮かんでくる。何が「原因」かは分からない。けれど、とにかく本作におけるストーンは、『JFK』などのようなふてぶてしいまでの自信や強引さ(そして、それゆえの嫌らしさ)を、ほとんど微塵も感じさせない。彼らしいこれみよがしなあざとさを喪失したこの“脆弱”な超大作は、だからこそぼくのような「ストーン嫌い」な観客にとって、逆に不思議な「感銘」を与えるのも確かなのだ。…そう、一抹の悲哀とともに。 と、書いて、これと同じ気持ちを前にも抱いたことがあったことを思い出した。そう、これは、マイケル・チミノ監督の『天国の門』を見た時と同じだ… [映画館(字幕)] 5点(2005-02-16 14:40:26)(良:1票) |
11. 命ある限り(1949)
《ネタバレ》 舞台は、戦争が終わって間もないビルマの野戦病院。その一室で帰国の時を待つ連合国の兵士たちは、リーダー格のアメリカ兵をはじめヤンチャ坊主のよう。そして、彼らを見守る美しく聡明な看護婦は、憧れの女教師といったところか。そんな彼らのところへ、誰にも心を閉ざしたスコットランド兵が送られてくる。さあ、ますます「学園ドラマ」風になってきたぞ。彼は、自分が余命いくばくもないことを知らない。この偏屈者で困った“転校生”の残りわずかな生を何とか幸せなものにしてやろうと、心優しきヤンチャ坊主どもの奮闘努力がはじまった…! 原作は舞台劇ということで、役者たちのアンサンブルが主体。確かに映像的な面白味には欠けるかもしれない。けれど、この作品全体から発散される「健康さ」はどうだろう。その屈託のない笑顔が素晴らしくチャーミングなロナルド・レーガン(!)をはじめ、「内面」を演じることが優れた演技だとするスタニスラフスキー・システム風の演技にまだ“毒されていない”俳優たちの、すがすがしい佇まい。そんな彼らを常に複数で画面におさめるため引き気味に置かれたキャメラと、思わせぶりな陰影など邪魔だと言わんばかりにたっぷり注がれたフラットな照明。今じゃ少年マンガですら取り上げられない「友愛」という主題ひとつをストレートに押し通すことで1本の映画を創ってみせた演出の、控えめな、だが慎ましい“野心”。…どれをとっても、そこには心洗われる清潔感とまっとうさがある。 1930年代の黄金期も過ぎ、やがてテレビの台頭で衰退期を迎える映画。それが決定的になる1950年代の直前に製作された本作は、たぶん映画が「健康」であり得た最後の時代の産物であり、“証人”だ。ぼくたちがこの地味な作品を見て、今なお感動し心打たれるのは、きっとそういった「健康さ」こそがもはや失われてしまった映画の「本質」のひとつだからに違いない。 映画の中で、スコットランド兵にみんなが贈った民族衣装のスカート(「キルト」でしたっけ?)。アメリカ兵たちは、「あの下に、下着をはいているかどうか」でスッタモンダする。で、最後の最後に彼らは「答え」を知るんだけど…ズルイぞ、観客にも教えろよっ!(笑) 8点(2004-12-28 18:04:07) |
12. 脱走四万キロ
《ネタバレ》 ロイ(・ウォード)・ベイカー監督と言えば、ジェームズ・キャメロンの『タイタニック』でもかなり“参照”されたとおぼしい『SOSタイタニック』や、あるいはハマー・フィルムのドラキュラ映画でご存知の方も多い(?)のでは。実を言うと、ある時期まで(いや、実は今なお)このベイカー監督の名前は、ぼくにとって、例えば同じイギリスのデヴィッド・リーンなんかよりもずっと“偉大(!)”だったんである… この監督の映画は、「ドキュメンタリー的」な面と「ドラマ性」とが融合し、時には対立しながら、あるひとつの濃密な“劇的空間”を画面に構築していく。そして題材やストーリーによって、「ドキュメンタリー的」な要素が勝ったり「ドラマ性」が大きくなったりする、そのバランス感覚においても傑出してたんだと思う(…後年、ハマーのゲテ物ホラー映画を撮る頃には、そういったバランスなどほとんど“放棄”しているかのようだったが…)。 例えば、この『脱走四万キロ』だ。イギリス映画でありながら実在したドイツ軍パイロットを主人公とし、しかもまんまとイギリス軍の収容所から脱走するまでの顛末を描くという本作。冒頭の空中戦から、主人公が不時着して捕虜となるまでのくだりにおいて、実写フィルムを巧みに織りまぜながら見る者を一挙に「ドラマ」へと引っ張り込んでいく。その後は、何回も脱走を繰り返すパイロットの“一人舞台”となるのだけれど、特に後半、厳冬のカナダの収容所に送られた彼が、雪の平原や森、凍った河を逃亡する描写は、ひたすらロングに引いた苛酷な自然の中にポツンと映る主人公の姿を延々と追うだけでありながら(ほとんどセリフすらない)、本当に血沸き肉躍る、いっときも眼が離せない、スリリングな冒険譚になっているんである! …昨今の大げさな設定やらCGによるド派手な映像やらがなくても、この地味なモノクロ映画は、主人公の置かれた“状況”をキャメラで捉えるだけで、かくも濃密な「ドラマ」が描きうることを教えてくれる(そんなベイカー監督の才能が遺憾なく発揮されたのが、本作の翌年に作られた『SOSタイタニック』に他ならないだろう)。何も「ドキュメンタル」な撮り方だから良いんじゃない、その“状況”の描写力において傑出しているからこそ、素晴らしいのだった。 この監督をきちんと再評価してくれる評論家センセイ、誰かおられませんかねぇ… 9点(2004-11-20 15:58:23)(良:1票) |
13. モーターサイクル・ダイアリーズ
「アメリカ」と聞けば、ぼくたちは、すぐに「アメリカ合衆国」のことだと思ってしまう。しかし「アメリカ」とは、南北にまたがる広大な大陸(=土地)に与えられた名前でもあるのだった。そしてまだアルゼンチンの若い医大生だったエルネスト・ゲバラが、友人とともに敢行した冒険旅行のなかで見出したもの。それは、常に虐げられ“搾取”される「(南)アメリカ」という土地と人々という現実に他ならない…。 この映画は、50年前にゲバラたちが見た風景を、あらためて映し出す。それらは、ゲバラが眼にした時とほとんど変わらないのだろう。同じく、差別と貧困にあえぐ先住民や、工事現場での苛酷な労働を余儀なくされる人々の姿もまた、きっと当時のままだ。ウォルター・サレス監督は、まるでドキュメンタリ-作品であるかのようにナマの土地を、人間たちをフィルムにおさめていくことで、そういった「現実」を静かに告発する。そうしてぼくたちは、ゲバラが見た・感じた・考えたままの「現実」、今も変わることのない南アメリカの「現実」と直面することになるのだ。 …ただ、このハンサムで喘息持ちの理想主義者に過ぎなかったひとりの青年エルネストが、後に真の「革命家」チェ・ゲバラになっていったことを、本作は描くものでなかったこと。そのことだけは、やはり少し残念に思う。ゲバラがこの旅を通じて見出したもの、それは“ふたつの「アメリカ」”だったのではないか。ひとつは土地としての「アメリカ」であり、もうひとつはそんな土地を搾取し続ける国家としての「アメリカ」。その構図と直面したことが、彼を“アクティヴィスト(実践的革命家)”へと成長させたはずだ。その“ふたつの「アメリカ」”の関係を、本作は巧妙に避けている。確かに後半のハンセン病患者たちとの交流を描くシーンは、美しく感動的だろう。が、あれだけでは、ゲバラとは単なる「理想主義者」のままにしか見えない。そして「理想主義者」とは、決して偉大な「革命家」たり得ないのだ…。 それでも、映画のなかのナレーションにもある通り、これは「偉業の物語ではない」のかもしれないが、「偉大な“魂”の物語」であることは間違いないだろう。本当に、こんなにも“美しい人”を、ぼくは映画のなかで久しぶりに見た気がする。そのことだけでも、この作品に出会えたことを心から喜びたいと思う。 7点(2004-10-27 17:23:14)(良:2票) |
14. ピンクの豹
免許証なるものを1枚も持っていない(あ、教員免状は確か持ってます。…何の役にもたたんが)者を受け入れてくれた街の弱小レンタルビデオ店の片隅で、日に焼けて文字通りピンク色になったパッケージを発見。「うわぁ、昔テレビで見たよなぁ。懐かしい~」と早速借りて見ましたです。 で、あらためて知ったのは、この映画が決して「ピンク・パンサー」シリーズの第1作じゃないってことでした。だって、クル-ゾ-警部のキャラが、ここでは「自分じゃ有能で頭がいいと思っている単なる“オロカ者”」でしかない。あの、遂には上司を精神病院行きにさせた狂騒的かつ破壊的な“デタラメぶり”とは、まだ無縁なのだから。 代わりに、作品はかなりスマートで「オッシャレー」なソフィスティケイテッド・コメディをめざそうとしております。それは、キャストを見ても明らか。怪盗ファントム演じるデビッド・ニーブンとロバート・ワグナーの新旧二枚目コンビ、そこにクラウディア・カルデナーレの王女と怪盗一味のキャプシーヌという美女連が絡んで、クルーゾーは言わば時々物語を逸脱させ、活性化させる「トリックスター(道化)」的扱いなんですね。ほら、ブレイク・エドワ-ズ監督は『ティファニーで朝食を』でも、ミッキー・ルーニー扮する珍妙な「日本人」を登場させていたけど、あれと同じ手です。 そう思って見ると、お堅いカルデナーレの王女がシャンパンで酔っぱらった時の素晴らしくコケティッシュでチャーミングな姿といい、ニーブンとワグナーが金庫をはさんで堂々めぐりする、マルクス兄弟の『我が輩はカモである』を再現してみせたシーンといい、さすが才人エドワーズ! という感じで小生的には十分楽しめました。 さあ、ではクルーゾーがいよいよ「クルーゾーらしさ」を発揮した(らしい)次作『暗闇でドッキリ』を…と思ったら、ビデオがありませんでした。トホホ。 7点(2004-07-27 15:05:11) |
15. トロイ(2004)
伝説的な戦士アキレスを主人公とした映画を撮ることになった時、ペ-タ-ゼン監督には、かつてフリッツ・ラング監督が映画化した『ニーベルンゲン』二部作のことが脳裏に浮かばなかったんだろうか…。あの第一部『ジーグフリード』において、竜の血を浴び不死となった主人公は、確か一枚の葉が背中に付いていた部分だけが不死身ではなかった。ちょうど、アキレスにおける“アキレス腱”のように…。 ラングはその後、ナチス・ドイツ政権下のドイツからアメリカへと亡命する。そしてハリウッドの「御用監督」として、娯楽映画を撮りまくったのだった。同様にペーターゼンも、(亡命じゃないけれど)ドイツからアメリカに招かれ、エンターテインメント大作の監督として重宝がられている。しかし、彼の前作『パーフェクトストーム』には、間違いなく〈運命〉というものへのゲルマン民族的(!)な感受性というか、眼差しがあったとぼくは信じているのだ。それが、あの映画を現代における《叙事詩》的なるものを、奇蹟のように実現してみせたのだと。…人は、どんなに抗おうとも自然(=神)の前に破れ去る。しかし、その抗う姿にこそ人間の「偉大さ」があることを描き、称えるのが《叙事詩》なのだから。 だからペーターゼンが、ホメロスの神話的叙事詩を映画化すると聞いて「やっぱり!」と期待していたのだったけれど… たぶん、「エンターテインメント」としては申し分のない映画ではあるんだろう。ブラッド・ピットは文句なしにカッコいいし、エリック・バナは儲け役だし、ローランド・ブルームだって損な役回りを懸命に演じているし。戦闘シーンも、どこまでがCGなのかぼくなんかには判断がつかないほど精巧で、スケール感において大したものだ。しかし、それだけのことだ。一瞬でもラングの名前を思い浮かべ、『ニーベルンゲン』を重ねようとした自分が、ひたすらバカだった… 見終わってその期待が、「やっぱり…」という嘆息に変わったことを、ここにご報告しておきます。映画が悪いというんじゃなく、ぼくが悪いんだろうけど。…嗚呼ペーターゼン 、本当にアンタは“この程度”のカントクなのか? 5点(2004-05-28 13:03:33)(良:2票) |
16. ジョアンナ
《ネタバレ》 サイケでアナーキーでレボリューションでフリー(・セックス)な、1960年代スウィンギング・ロンドンにやって来た女の子が繰り広げる、“本当の「自分」と「愛」探し”。…なんて言うと、何だか当時のありがちな〈トンでる若者(笑)の無軌道な青春像〉を描いたシロモノと受け取られかねないなあ。でも、主人公のジョアンナは、たとえばロンドンという“不思議の国”に迷い込んだアリスのようでいて、実のところ、彼女の方が「ワンダー」なんだ。階級も、人種も、何もかもを超えて、すべてを受け入れるジョアンナ。恋人の黒人青年が殺人を犯しても、彼の子どもを宿した彼女はそれすら受け入れるんだから。そんなジョアンナを優しく見守るかのような映画の眼差しに、いつしか観客のぼくたちの眼差しが同化してしまう。このブッとんでいる“自然体”な女の子を、限りなく愛しく慈しんでいる自分に気づくんだ。…確かに、「好き・嫌い」がハッキリ分かれるタイプの映画かもしれない。けれど、素ッ晴らしいナンバーの数々(そう、これは一風変わったミュージカルとしても見ることができる)や、映像以上に音にこだわり、様々なサウンドトラックをコラージュしてみせる演出の「才気」も微笑ましい、これは心から愛すべき1本であります。少なくとも、ぼくの中では未だ「彼女」は輝き、生き続けている。…ジョアンナ、まだトンでるかい! 9点(2004-04-06 19:31:46) |
17. 姿なき殺人(1967)
サーカス内で繰り広げられる、残虐な連続殺人! …いや~、この設定にソソられるのは、やはり『怪物團/フリークス』の頃からのホラーとサーカスという組み合わせの“相性の良さ”ゆえでしょうか。ジョーン・クロフォードが女団長で、その娘がジュディ・ギーソン。わき役でマイケル・ガフやダイアナ・ドースというあたりの面々が出演しているのも、ポイント高し。殺人場面も今日的には「牧歌的(?)」ですらあるけど、それなりにサディスティックな興奮に満ちているのは↓サイケデリコンさんのご指摘通りです。最後の「意外」な犯人出現も、確かに唐突だけど、観客に「えっ!」と思わせたとたんにエンドというのは、それなりに悪くないんじゃないでしょうか。…しかし、万事に四角四面なお国柄の英国で、一方じゃどうしてこんな「悪趣味」が好まれてきたんでしょうね? そのへんの「文化論」を、どなたか説いていただけませんかねぇ。 6点(2004-02-16 16:54:56) |
18. 白馬の伝説
…美しい、そしてどこか神秘的で、もの悲しい、もうひと口では言い表せない不思議な映画。ジプシーの血が流れている飲んだくれの父親とダブリンの街で暮らす幼い兄弟が、一頭の神秘的な白馬と出会う。しかし、その馬が売り渡されると知った時、兄弟は馬とともにあてのない旅へ…というような物語(だったと思う。何せ、見たのは随分と以前なもので)。このいくらでも甘くも辛くもファンタスティックにも仕立て得る内容でありながら、そのいずれでもない「過酷なポエジー(詩)」としたのは、やはり舞台が“妖精の棲む国”アイルランドであるのと、脚本が『マイ・レフトフット』のジム・シェリダンだからか。とにかくふたりの少年が健気で、様々な苦難の旅を続ける姿には、何度も目頭が熱くなること間違いなし。特にクライマックス、すっかり白馬に心を奪われてしまった弟を助けようとする兄には泣かされます。…それにしても、こんな力強い繊細さに彩られた「児童映画(!)」に続いて『フォー・ウェデイング』を撮ってしまうマイク・ニュ-ウェル監督の才能は、もっと認められてしかるべきだっ! 9点(2004-02-03 12:02:39) |
19. ラブ・アクチュアリー
試写会で幸運にも見ることが出来ました。だって、あと何回でも見たい! と思わせてくれる素晴らしい映画でしたから。 とにかく、ここには《愛》というものが人にもたらすものの、ほとんどすべてがある。それは「喜び」であり、「慰安」であり、「優しさ」であり、時には「苦痛」や「絶望」であり…。ドストエフスキーは愛を失った心を「地獄」と言ったけれど、いくつもの《愛》が交叉する、一見すると他愛ないこのロマンチック・コメディは、その実そんな「地獄」を直視することで成立しているのだと思う。そう、きっと誰もが一度は愛に惑い、見失うことの絶望を、「地獄」を知っている。だからこそ、それが一方でどんなに苦悩やせつなさをもたらそうとも、人は愛さずにはいられないのだ…と。 個人的には、リーアム・ニーソンの父親と息子のエピソードが最も好ましかった。いや、誰もがこの「小さな恋の行方」を、それこそ愛さずにはいられない、と断言しておきましょう。もちろん、その他の様々な《愛》のカタチの、そのどれをとっても、人生のささやかな“現実”と“真実”がしっかりと盛り込まれている。 それをここまで軽やかでスウィートな「コメディ」に仕立て上げたリチャード・カーティスの脚本・監督に、今は最大限の賛辞を贈ろう。そしてこう言いたいと思う。 「…この映画のおかげで、今少し人間を、世界を、信じていけるような気がする。ありがとう」と。 10点(2004-01-17 18:33:22)(良:3票) |
20. ブラニガン
今や「巨匠」監督のリチャード・アッテンボローが、ロンドンに乗り込んできた”ヤンキー刑事”ジョン・ウエインのお目付役で共演。でかい図体のウェインと小男アッテンボローの凸凹コンビぶりが、なかなかいい味だしてます。特に、ウェインがビールとウィスキーのちゃんぽんみたいな怪しげなカクテル(?)を愛飲しているのを、このスコットランドヤードの堅物警部がこっそりと試すあたりの微笑ましさが、実にいい感じ。パブでの乱闘も、ウエイン映画の「お約束」って調子で、作り手たちがこの神話的スターとの撮影を楽しんでいるさまが伝わってくる。米英のカルチャーギャップをメインに据えたあたり、まあありがちな展開ではあるものの、刑事ものの前作『マックQ』よりも、格段にチャーミングな作品に仕上がっております。 7点(2003-12-08 18:30:17) |