1. デイ・アフター・トゥモロー
エメリッヒの映画の本質は、その「生真面目さ」にあると思う。いや、「優等生(おりこうさん)」だというんじゃなく、どこか“バカ”がつくほど「一本気(まっすぐ)」なところがあるのだ。 たとえばH・G・ウェルズの古典SF『宇宙戦争』を現代にリメイクしたなら(『ID4』)、やはり「タコ型(イカ型?)」風のエイリアンを登場させてしまう。あるいは、ファンのひんしゅくを買おうとも、あくまでゴジラの造型に生物的なリアリティを優先させる。さらに『パトリオット』みたく、善玉・悪玉をマンガチックなまでにはっきりと区別するのも、むしろ彼の「真面目さ」ゆえだろう。 その上で語られる「世界観」も、これまたボーイスカウト的(!)な単純さ・一本気ぶり。そこではアメリカ大統領が自ら戦闘機に乗って空中戦を演じ、(スパイク・リ-監督には「黒人奴隷の歴史を美化した」と批判されたが)黒人だけのユートピアめいたコミューンが、奴隷制のアメリカに存在しているのだ。いずれもエメリッヒにとって、「かくあらねばならぬ」という大上段の啓蒙的説教くささとはちがった、「かくあってほしい」という“まっすぐ”な理想として。 今回の映画においても、彼のその「生真面目さ」はいつにもまして発揮されている。ここでエメリッヒは、何よりも“寒さ”をいかに面白い映画に仕立て上げられるか、という一点においてひたすら「真面目」に取り組む。そして人類の危機に直面したとき、国家や人々は「どうあるべきか」ではなく、「こうであってほしい」と謳うのだ。…大国はエゴを捨て、人は最期まで愛と気高さを失ってほしくないという。 それを、あまりに単純すぎると失笑するのはカンタンだろう。というか、今どきそんなナイーブな「生真面目さ」など、ほとんど“バカ”扱いされるにちがいない(事実、エメリッヒ作品を「バカ映画」呼ばわりする風潮が、確かにある)。 けれど、“おりこうさん”ばかりがはびこる中、こうしたひたすら“まっすぐ”な人なり映画なりが存在していることは、少なくともぼくにとっておおいなる「救い」に他ならない。何だかんだ言われても、エメリッヒ作品にかくも観客が集まること自体、きっと多くのひとびともその「すがすがしさ」に惹かれてのことなんだ…と、ぼくは勝手に思うことにしている。 ローランド・エメリッヒ(の映画)は、理屈じゃなく、ただただ愛おしい。 8点(2004-06-19 17:47:13)(良:5票) |
2. アメリカン・スナイパー
《ネタバレ》 この映画の謳い文句によると、主人公クリス・カイルは「アメリカ軍史上最多160人以上を射殺した伝説のスナイパー」とある。が、「狙撃兵(スナイパー)」ではないものの、ひとりの兵士として敵兵を最も多く射殺した者といえば間違いなくオーディ・マーフィーだろう。そしてかつてドン・シーゲル監督は、この第二次世界大戦の英雄で後に西部劇スターとなったマーフィーを、『ダーティハリー』の連続殺人鬼である「狙撃犯(スナイパー)」“サソリ”役に起用しようとしたらしい。「なぜなら、彼は本物の大量殺人者だから」と。 この『アメリカン・スナイパー』におけるクリス・カイルは、中東で紛争が起こるたびに志願して戦場へと出かける。それは義務や使命感という以上に、“仲間を助けるために敵を殺す”という、単純にして彼にとっては絶対的な「倫理観」ゆえだ。しかし、ミサイル砲を手にした少年に照準越しに「それを捨てろクソッタレ!」と毒づく時、彼は自分が少年を「殺したがっている」ことに気づいたのだ。「殺すこと」そのものが、自分のなかで目的化(!)したことに気づき、だから愕然としたのだ。だからその後、家族のもとに帰還したクリスがどこか“不穏”なあやうさを漂わせ、これが実話であることを忘れてぼくたち観客は、彼による決定的な「カタストロフィ(悲劇)」の予感(予兆?)におののきながら固唾をのんで見守ることになるのである。 もちろん、実際は帰還後のクリスが「殺人鬼」になることはない。むしろ彼は、同じ帰還兵の手によって不慮の死をとげる。だが、この映画を見てきた僕たちは、彼を殺すその帰還兵とはもはやクリス自身のアルターエゴ(別人格)というか“もうひとりの自分”に他ならないことを確信する。そしてその時、これがドン・シーゲル監督が『ダーティハリー』でひそかにもくろんでいた〈主題〉を、そこで主演俳優だったイーストウッドが今度は監督として継承し完成させたものであることを、ある感動とともに深く納得するのである。ーー狙撃犯の“サソリ”と、狙撃兵のクリス。つまり彼らは、ともに「アメリカン・スナイパー」に他ならなかった・・・。 こうしてぼくたちは、底知れない“闇(=病み)”を抱えたイーストウッド的主人公像を前に、またも震撼させられることになるのだ。 [映画館(字幕)] 10点(2016-03-29 13:38:19)(良:2票) |
3. ターミネーター4
《ネタバレ》 まさにイーストウッドの硫黄島2部作を思わせる、冒頭のくすんで色褪せた映像による戦闘場面にはじまって、確かにこの映画は、これまでに見てきた様々な有名作・ヒット作・マニアックなB級作(マイケル・アイアンサイド! そして『スクリーマーズ』!)などのあのシーンこのシーンを彷彿させる“既視感”に満ち満ちている。全編これ引用=再現の連続、オリジナルに対する模造品[パスティーシュ]そのものだ。 それをオリジナリティの欠如だと否定するのも、ただのパクリじゃんと嘲笑するのも簡単だろう。が一方で、そういったシーンのすべてにおいて、無節操であることに開き直るあつかましさや、パロディやら引用と言い募るようないやらしさを感じさせないのも、また確かなのではあるまいか。ここにあるのは、マックGが愛してやまない映画たちへの単純にして純粋なオマージュであり、それらを自ら再現することへの無邪気なヨロコビそのものだ。そして、そんな〈愛〉の対象の最たるものが当の『ターミネーター』シリーズだったことは、たぶん間違いない。 そう、これは、映画が好きで、何よりキャメロンが創りあげたこのシリーズが大好きな男の手になる作品だ。だからこそ1作目と同じ容貌のシュワルツェネッガーが登場した時、単なる楽屋落ちやファンへの目くばせという次元を超えた「感動」があったのだと思う。マックGは、何としても『1』のシュワを自作で登場させたかった。ただそれだけの欲望と歓喜が、映画を見るぼくたちのハートに“共鳴作用”を呼んだがゆえの感動だったのだと。 それを、ただ「頭が悪い」と一笑に付すのは、先にも言ったように正しい。が、C・ノーラン監督のバットマン・シリーズみたくシニカルにお利口ぶった映画じゃなく、あるいは、映画を新奇な「見せ物[スペクタクル]ショー」程度のものとナメているとしか思えないマイケル・ベイ監督の撮るようなシロモノでもない、いいトシをしたオトナが「俺が見たいターミネーターを、俺自身が撮ったんだぜぃ!」と嬉々としているかのような本作にこそ、ぼくは文句なしに心ひかれる。しかも、数限りない制約だの軋轢の連続だったろう製作過程にあって、そういったノーテンキさをギリギリ貫けたあたり、この監督の“したたかさ”が窺えるじゃないか。 結論。「頭の悪さ」も、時には“才能”たり得るのです。 [映画館(字幕)] 8点(2009-08-19 12:52:26)(良:3票) |
4. Mr.インクレディブル
《ネタバレ》 世論の圧力(!)で引退を余儀なくされた元スーパーヒーローが、夜な夜なかつての仲間と人命救助なんかをコソコソとやっている…。このくだりに大笑いしながら、確信しましたです。うん、間違いない、これは単なるアニメを超えて、現代アメリカ映画におけるエポックメーキングたり得る大傑作だ! と。 正義のヒーローが、その圧倒的なパワーゆえに人々から敬遠され、“リストラ”される。誰もが「平等」であるべき社会にとって、彼らは許されざる者たちだっ! …これまで、ヒーロー礼賛を繰り返して飽くことを知らなかったアメリカ映画にあって、こういうカタチでその存在を“否定”する作品が(それも「子ども向け」アニメで!)現れるなんて。しかも、スーパーパワーという「個性」の発揮を抑圧された弟の鬱屈や、その「個性」ゆえに“自分は他の人と違う”と引っ込み思案な姉、そして、そんな夫や子どもたちに頭を悩ませる妻…と、ここには、思春期の問題やら、個性の画一化やら、家庭の事情といった、様々な〈主題〉が見事に織り込まれ、それぞれの日常がきっちりと画き込まれている。繰り返すけれど、それもあくまで「(一応は)子ども向け」アニメーションとして、だ。 彼らを危機に落とし入れる、主人公の崇拝者だった元「オタク」少年の屈折したキャラクターを含め、本作の人物造型は、昨今のどのジャンルの作品以上に錬り込まれ、アニメ的誇張を施されているとはいえ「リアル」な説得力に満ちている。その上で、アクション/ファンタジー/アドヴェンチャーの面白さを損なうことなく、万人向けのエンターテインメントとして成立させた、その何という力わざだろう。 「家族愛」と言うより、これは正しく「個性的であること」、それを発揮できることの大切さを、きわめてソフィスティケートに展開してみせた映画に他ならない。…どなたかもおっしゃっておられたように、ぼくも、ブラッド・バード監督はこの作品によって完全に「宮崎駿を越えた」と思います。脱帽!! 10点(2005-01-21 12:58:21)(良:6票) |
5. ダーク・シャドウ(2012)
《ネタバレ》 大江健三郎は、死を目前にした人間には独特の破壊的な想像力がある、というようなことを書いていた。それを、こう言い換えてみようか。「イジメられっ子にも、やはり独特の破壊的な想像力がある」のだと。・・・ティム・バートンの映画を見るたび、ぼくはそう思わずにはいられない。 バートン作品の世界は、肉体的・精神的な「フリークス」の饗宴だ。彼らは常に社会の秩序やら道徳(モラル)やらを嘲笑し、破壊しようとする。そしてバートンは、そういった「フリークス」の狂騒的な大暴れこそを嬉々として想像=創造することにかけて、文字通り独創的だったのだ。彼は、明らかに彼ら怪物やら怪人たちへと自分を一体化しつつ、社会への徹底した敵意というか〈悪意〉を爆発させる。そう、バートンにとって、彼ら“異形の者たち”こそ社会から迫害され排斥され追いやられる「弱者」であり、“イジメられっ子”に他ならない。そしてバートンは、そんな彼らのそれこそ必死の反撃を、バーレスクな「“負”の祝祭空間」としてヴィジュアル化してみせる。しかも、それを見事に上質な「エンターテインメント」に仕立て上げるところに、彼の本領があるのだった。 それがいつしか(というか、『マーズ・アタック!』以降の)その作品からは、ウエルメイドな画作りだけが前面化して、何より〈悪意〉が蒸発されていく。それとともに、彼の「フリークス」もすっかり“毒気”を失ってしまったかのようだ。だが、この最新作でバートンは、いかにも「ソープオペラ(TVの昼メロ)」の原作らしい醜悪な欲望むき出しの群像劇を得て、彼らを徹底的に茶化すことで社会そのものへの〈悪意〉を取り戻したかのようなのだ。相手に詫び(笑)を入れながら血を吸いまくるJ・デップの吸血鬼や、自己中心的すぎる(そして、演じるエヴァ・グリーンが素晴らしすぎる!)魔女を含めて、観客は本作の誰ひとりにも共感や感情移入できまい。だが、この自己の欲望にひたすら忠実な面々こそ、バートンの〈悪意〉による社会の、私やアナタの「鏡像」に他ならないのだ。しかしその、何と不愉快すれすれの「面白さ」であることか! なるほど、ここには「フリークス」ゆえの悲哀を湛えた、あのバートンらしいペーソスはないかもしれない。が、久々に“ふっきれた”バートン作品は、やっぱりタダ者じゃないことも確かなのだ。 [映画館(字幕)] 9点(2012-06-05 19:20:15)(良:1票) |
6. ダーティハリー
あらためて見直して(もう何度めだろう!)つくづく素晴らしい映画だと再確認、そして再感動! ハリーが最初にマグナムをブッ放す銀行強盗一味とのシーンで、ホットドックをもぐもぐしながらひとりずつ仕留めていき、最後に生き残った犯人に対して、ニヤニヤしながら「俺の銃にまだ弾が残っているか、運だめししてみないか?」と凄むあたりにウットリ…。これ以上カッコいいヒーロー(というか、アンチヒーロー)はいまだもって空前絶後ですよねえ! 自分をしか決して信じない男でありながら、そんな自分自身に対しても醒めた眼で見られる…これぞ男の中の男っす。クリント万歳、シーゲル御大万歳!! 10点(2003-09-16 11:20:30)(良:2票) |
7. 地獄のデビル・トラック
「恐怖」よりも、あきらかに「笑い」を意識しているところが、いい感じ。まあ、スティーブン・キングがおのれの趣味に走って50年代B級SFスリラーの再現を目論んだ代物だけに、同好のマニア以外にゃ今イチ楽しめんでしょうなあ。小生、大好き。 7点(2003-10-06 15:38:03)(良:1票) |
8. 愛妻記
う~む、書きたかったことはほぼ全て青観さんに書き尽くされてしまったので、それ以上付け加えることもないんだけど・・・まあ、小生もちょこっとコメントさせていただきます。 それにしても、この映画の司葉子は本当に素晴らしい。女学生時代の友人をたよって郷里の金沢から東京に出てきたという彼女は、まさに天真爛漫でいながら、それがたまらなくコケットリー(誘惑的)だ。しかも、そのことに彼女自身がまったく無自覚であること。その“無垢[ウブ]”なところが実に実に良いのであります。たぶんそれは、この昭和初期にあってもじゅうぶんに魅力的だったんだろう。だからこそフランキー堺の主人公が魅かれ、一緒になろうと決意したことも、素直に納得できる。そして、こんな貧乏作家のところに喜んで嫁いでくれる彼女のような奥さんと出会えた主人公に、大いに「嫉妬(笑)」してしまうんである! そんなふたりが、はじめて“結ばれた”シークエンスも忘れがたい。とはいえ、もちろんベッドシーン(というか、この時代じゃ“床入り”か)があるわけじゃない。司葉子がフランキー堺の下宿にやって来て、彼の部屋で朝を迎える。その明け方の場面。おたがいきちんと着物姿でありながら、それまでになかった彼女の恥じらいを含んだ様子ひとつで、ふたりがその晩に結ばれたことを、ぼくたち観客はハッキリと知ることになる。案の定、そこでフランキー堺は(貧乏作家のくせに!)「所帯を持とう」と切り出すのだ。・・・このあたりの“奥ゆかしさ”こそ、本作の美質であり、久松静児という監督の持ち味なんだろう。 ともあれ、まだ戦争の影がさしていない昭和初期の生活風景をていねいに素描しつつ、これほど魅力的なヒロイン像を造型し得ただけでも、ぼくにとってこの映画は忘れられない1本になったです。記録よりも、記憶に残り続ける映画。・・・そう、ひとりの映画ファンにとって、それこそが真の「名画」であり、宝物なのだから。 《追記》ユーカラさんのおっしゃる「軍国化」のくだりは、え、そうだったの? と思いもよりませんでした。さすがスルドイ。ただ木下恵介ならともかく、この映画の場合、ああいう兵隊たちや警察の横柄さも含めて当時の日常というかあたりまえの「空気感」であるという、それ以上の含意はないのでは・・・とも思うのですが、どうでしょう? でも、この映画って愛されてるんですねぇ。シミジミ [CS・衛星(邦画)] 8点(2008-08-21 13:48:08)(良:1票) |
9. ブロンコ・ビリー
小生にとって、イーストウッド作品のワン・オブ・ザ・ベスト。何度見ても、最後のあの星条旗のシーンに涙が…。この映画と『許されざる者』が、イーストウッドの西部劇への、ひいてはアメリカ合衆国への”挽歌”だったんでしょうね。彼が単なる愛国ナショナリストじゃないってことは、サム・ボトムズ扮する脱走兵の扱いを見ても明らか。ジョン・ウエインは絶対的に服従すべき「偉大な」親父=体制そのものだったけど、イーストウッドはいつでも自身の”弱さ”を隠さない一匹狼。そんな男が、弱者ばかりの一座=疑似家族を作っていく本作(と『アウトロー』)には、彼の理想とする「アメリカ」がどんなものかが、見えてくるようです。 10点(2003-05-20 12:37:26)(良:2票) |
10. ピンク・フラミンゴ
この映画くらい好き・嫌いがハッキリするのも珍しいと思っていたんだけど、意外と高評価なのでビックリするやらうれしいやら。確かにパンクな”変態チック”作品ではあるものの、世の良識とやらに唾して、マイナーな「世間からつまはじきにされるような種類の人々」をこそ肯定するその姿勢は、ジョン・ウォーターズならではの「心意気」を感じさせてくれる。何か見終わってハッピーな気分になれる…なんて言うと、やっぱりマズイかな? 10点(2003-08-04 11:12:51)(良:1票) |
11. ゲド戦記
《ネタバレ》 映画がはじまってまもなく、信望厚い「偉大な王」が、息子である王子に刺される。王子は魔法で鍛えられたという剣を奪い、そのまま逃走してしまう。その後、王が死んだのかどうかは分からない。けれど、父王を刺した王子の年齢が、「17歳」であることを観客は知らされる・・・。 この、「父親殺し」と「17歳」という設定にこそ、監督・脚本の宮崎吾朗はおのれの“すべて”を賭けたのだな、と思う。誰からも尊敬される父親を持つ17歳の少年が、その父親を殺す。そして彼は、彼自身の心の闇から現れる「もうひとりの自分」の“影”におびえ、逃げ続けるという展開がたとえ原作にあったとしても(ちなみに、ぼくは未読です)、それは、この映画の作り手にとってはるかに切実な意味を持っているに違いない。もちろんそこに、宮崎駿という「偉大な父」を、その息子である吾朗監督が「殺す」というエディプス的な〈家族の物語〉を見出すことは簡単だろう。彼ら父子がいったいどういう「関係」だの「葛藤」を抱えてきたのか、それがこの作品にどういう“影”を落としているのかを推察するのも、興味深いのかもしれない。 が、この映画が本当にめざそうとしたのは、なぜ「17歳」の少年が「父親」を殺したか、なぜ「17歳」の少年は自分の“影”におびえ逃げ続けるのか、なぜ「17歳」の少年は命の価値を省みないのか・・・を、自らに問い、懸命に答えようとすることだったんじゃないだろうか。少なくとも吾朗監督は、その“自問自答”を、それだけをただ繰り返す。物語よりも、展開の妙よりも、「面白さ」よりも、その問いかけこそがこの映画の「すべて」なのだ、と言わんばかりに。 そこに、とりあえずの「答え」は可能でも、本質的な「答え」は不可能だろう。それは作り手たちにも自覚されていたはずだ。だから、“とりあえず”のかたちでしか終わり得なかった本作は、明らかに破綻しているし、「失敗」している。しかし、その“問い”の真摯さは、間違いなく本作の主人公の、そしてたぶん「宮崎吾朗」という作り手の抱える“心の闇”を共有する「17歳」たち(もちろんそれは、実際に17歳であるかどうかということでなく)の、心の最も深い場所に届くものだ・・・とぼくは信じる。その意味でこそ、ぼくはこの映画を断固支持したく思うのだ。 ・・・そう、「面白い」以上に大事なことが、映画にも、人生にも、きっとある。 [試写会(邦画)] 10点(2006-07-20 14:28:37)(良:13票) |
12. BALLAD 名もなき恋のうた
《ネタバレ》 映画の中で、人々が「記念写真」を撮る場面は、どうしていつも感動的なのか。それは、たぶん人物の写真を撮ったり撮られたりすることが、まもなく彼や彼女たちに訪れる“別れ”を暗示し、予告するものだからだ。・・・小津の『麦秋』や侯孝賢の『悲情城市』における家族写真、『少年時代』の主人公と村のガキ大将が撮った2人だけの写真、等々。『二十四の瞳』でも、大石先生と子どもたちが撮った写真は、いくつもの別離のたびにその悲しみを深めるものだった。 この『BALLAD』にも、「記念写真」の場面が登場する。それは武将・又兵衛とその配下の武士たちが、明朝に敵陣を強襲する前に、未来から来た少年・真一の父親が「写真を撮りましょう」と提案する場面だ。初めての写真に、緊張する又兵衛たち。だが、思い思いのポーズをとったりふざけあいながら、彼らは、楽しげに撮影に臨む。そして又兵衛は、「これで、この世に生きたというあかしを残せた」と感謝するだろう。 この場面は、こよなく美しい。それは、死地へとおもむく者たちを描くための、ただの感傷的な設定に過ぎないのかもしれない。だが、監督・脚本の山崎貴の意図がどこにあったにしろ、わざわざ真一の父親の職業を「(売れない)カメラマン」にしてまで盛り込んだ、この、原作アニメにもなかった場面があるからこそ、ぼくにとって『BALLAD』は忘れがたい作品となったのだった。山崎監督は、映画において「愛する人々の写真を撮る」ことの悲劇性を、ここできっちりと見据えている。タイムスリップを題材とした荒唐無稽な時代劇が、先に挙げた小津や侯孝賢作品をはじめとするひとつの「映画(史)的記憶」に満ち満ちたものとしてあることへの驚き・・・。 もちろん、そういった小賢しい贅言を弄さずとも、その美しさは、『非情城市』や『麦秋』がそうだったように、誰の胸をも打つものだとぼくは信じる。確かに、少年の成長物語としても、姫と武将の悲恋ものとしても、この映画はただただナイーブにすぎて、「オトナ」である貴方は嘲笑するばかりかもしれない。しかし、そういった作品が一方で、驚くほど豊かな「感情[エモーション]」と「表現」を実現していること。その事実をぼくたち観客も、見る、あるいは感じ取る“責任(!)”があるとつくづく思う。 というワケで、満点献上でも良いのだけれど、やはりここは原作アニメに敬意を表して・・・ [映画館(邦画)] 9点(2011-09-02 18:05:58)(良:4票) |
13. 自転車泥棒
《ネタバレ》 こういう名作中の名作に、今さらながら満点献上することの野暮をあえて承知で…。ネオリアリズムうんぬんを言うより、あの当時のイタリアでは日常茶飯事だったろうような庶民のささやかな哀歓を、オールロケで、ここまで見事な「人情ドラマ」に仕立て上げたデ・シーカ監督の人間味溢れる眼差しがまず素晴らしい。父親と一緒に盗まれた自転車を探し回るあの男の子の使い方など、多分にチャップリンの『キッド』を意識しているんだろうけれど、本当に巧いし。特にあのラストで、自転車を盗もうとして人々に捕まり、小突き回される父親に男の子がすがりつくシーンは、今こうして書いていてもナミダが…。父と子にとってつらい1日となったけれど、きっとこの家族なら何とか生きていくだろう、といった願いとも希望ともつかない感情(感傷?)を抱かせる幕切れまで、人の子であり親なら生涯に一度は見ておきたい映画ではありますまいか。 10点(2003-10-17 15:46:32)(良:1票) |
14. 萌の朱雀
この映画の完成前に監督の女の子(まだ、そんな感じだった…)に会う機会があって、「もう、私がすることって、役者さんたちにこう演じてくださいって指示をあたえることだけなんです…」と、実質的に監督としての権限が与えられていないってことを認めていました。それが、カンヌで賞をとったとたんに、あの増長ぶり。キミ、やっぱりアカンと思うよ、それって。これで映画が良ければ文句はないものの、こんな程度の「家庭の崩壊劇」を映画に仕立ててみせるには、もっと人間や風景を凝視する視線の”強度”が必要なのでは。結論、映画賞なんてロクなもんじゃねえ! 4点(2003-06-06 16:47:33)(良:1票) |
15. トーマス・クラウン・アフェアー
武骨者マクティアナンに、これほどの洒落っ気があったとは! どうやら先のマックィ-ン版の方が評価が高いようですが、クロード・ルルーシュのモノ真似でしかないチャラチャラした映像美とやらにヘキエキさせられた者としちゃ、断然こちらに軍配をあげたい。ストーリー全体が、実は精神分析医を前にピアーズ・ブロスナンが語る一種のホラ話(男の夢!)ともとれる仕掛けなど、ディテールもさり気なく凝ってるしね。だいたい、レネ・ルッソのハダカを拝めただけでもありがたいことじゃありませんか! …小生のようなオジサンには、何ともうれしい「クリスマスプレゼント(笑)」的作品であります。 8点(2003-05-29 15:23:04)(良:3票) |
16. ルーカスの初恋メモリー
まるでひと昔もふた昔も前の少年漫画みたいなストーリーだけど(頭はいいけどチビで家庭に問題がある男の子が、年上の少女に恋をするが、彼女はハンサムなスポーツマンの別の男の子に恋をしていて…)、実に繊細かつ優しく主人公の日常を見つめる眼差しに好感大。”弱者”に対しての想像力が欠如したものの多いアメリカの青春映画にしては、ハートを感じさせてくれる貴重な作品かな。主人公にひそかな好意を持つ内気な少女役で、あのウィノナ・ライダー(映画デビュー)がとっても可憐な存在感を放ってるのもマル。DVDを買って持っておきたい1本です。 8点(2003-06-11 13:49:21)(良:2票) |
17. パッチ・アダムス
《ネタバレ》 この映画を絶賛する方々の気持ちも分かるし、否定する方々の言い分も理解できる気がする(ロビン・ウィリアムス大っ嫌いだから映画も嫌いとか言うのは、論外。小生も別に大好きな役者ってワケじゃないけど、彼が嫌いゆえに作品ケナすんなら、初めから見なければいいだけの問題では?)。個人的にはそんなに悪い出来の作品じゃないとは思うのだけど、この映画、カラダの病いに対しては”寛大”だけど、ココロの病いにはとてつもなく「偏見」をあらわにしているのが、どうしても気になるというか、悲しく指せられる…。精神病患者を笑い者にしたり、鬱病の青年を「アブナイ奴」どころか殺人者(!)に仕立てたり、よしんばそれが「実話」であろうと、こんな安易さで彼らの事を描くことは、ただ世間に「心を病む者=怖い人」と煽るだけじゃないか。で、犠牲になった主人公の恋人(彼女は、どうやら幼い頃に性的虐待を受けたらしい…)が、蝶々になったというあたりの展開は、メロドラマチックだからこそ余計にあの鬱病の青年を「悪者」として印象づけると、ぼくには思えました。くり返すけれど、出来映えは悪くない。だからこそ、作り手たちの「無知」と「安易さ」が残念です。 4点(2003-12-03 16:42:50)(良:3票) |
18. 六月の蛇
とにかく全編に降る雨に、セピアトーンの画面そのものが溶け出していきそうな映像の質感が素晴らしい! でもって、そんな世界に少しずつ同化していくかのような黒沢あすかのヒロインと、塚本晋也演じる男、神足裕司(絶品!)の3人が、これまた素晴らしい! …ハッキリいって2003年度の日本映画では、北野武以下を押さえてダントツのベストだとぼくは思ってます。とにかくこれって「3匹のかたつむり」が殻を脱ぎ捨てて「蛇(!)」になるまでの過程を描いた、実に意味深で、寓話的で、エロティックな作品であると。…ああ、何て美しいんだ。 9点(2003-09-16 14:57:46)(良:1票) |
19. マネーボール
《ネタバレ》 この映画の脚本は、アーロン・ソーキンとスティーブン・ザイリアンという2人のアカデミー賞受賞者が担当している。 ・・・弱小球団アスレチックスを、「マネーボール理論」によって奇跡の“再生”を実現した若きゼネラル・マネージャー、ビリー・ビーン。その半生を描くという展開だけを見るなら、これは米国版プロジェクトXというか、典型的なサクセス・ストーリー以外の何物でもない。 だが、ソーキン脚本の『ソーシャル・ネットワーク』がそうだったように、これは、実在の人物に材を得た単なる成功譚というより、はるかに同時代的かつ思索的な「内省」へと見る者を導く、すぐれて知的な映画だといえるに違いない。と同時に、ザイリアン脚本の『シンドラーのリスト』がそうだったように、これはひとつの「歴史」を変えた人物が、“何を成し遂げたか”という伝記的な側面より、その「内面」の変化(それを、「成長」とも「成熟」とも「覚醒」とも呼んでいい)を見つめた映画でもある。 そう、『ソーシャル・ネットワーク』は、主人公が“何かを成し遂げた(=成功した)ことで失ったもの”の大きさを、まさにひとつの「悲劇」として描いたものだった。一方、この『マネーボール』のビリーは、将来を嘱望されながらメジャーの選手として大成しなかった。そんな男が、今度は弱小球団のGMとして革新的な理論で優勝をねらえるチームづくりを実現してみせる。まさに、“失ったことで、何かを成し遂げた(=成功した)”人物なのである。そして、他球団から多額の年俸で引き抜きの声がかかっても、ビリーはアスレチックスにとどまる。彼は「金額」に置き換えられるような成功よりも、もっと「かけがえのないもの」があることを学んだのだ。あのオスカー・シンドラーのように。あるいは、驚嘆すべきザイリアンの初監督作、『ボビー・フィッシャーを探して』の天才チェス少年のように。 こうして『マネーボール』は、ソーキンとザイリアンという名脚本家たちの、理想的な合作ぶりを堪能できる作品となった。もちろん、それを見事に映像化してみせたべネット・ミラー監督の手腕も、高く評価されるべきだろう。メジャーリーグという喧騒と熱気に満ちた世界を描きながら、あくまでも静謐でクールな映像のなかから登場人物たちの“体温”が確かに伝わってくるような演出ぶり。まこと、これは近年最高のアメリカ映画の1本だ。 [映画館(字幕)] 10点(2014-10-29 14:25:45)(良:2票) |
20. シェーン
もう随分と前に、セルジオ・レオーネの『ウエスタン]と2本立てでリバイバル上映された時に見たのが、今思うと失敗だった…。まだガキだった自分にとって、レオーネ作品のインパクトの前ではいかなこの名作といえど、やはり霞んでしまったワケで。ただ、オジサンになって見直してみると、少年、母親、父親であり夫である農夫それぞれの視点・心情から”シェーン”というひとりの流れ者の存在を浮き彫りにする演出のきめ細やかさに、あらためて感心させられてしまう。シェーンに夢中になる少年に対し、やはり密かに「女」として心ひかれている母親が、「シェーンを好きになりすぎないでね。別れがつらくなりすぎるから…」というあたりの情感。そして、妻の気持ちを薄々感づいていながら、それを表に出さない夫の度量。それらの感情が絡まりあったダンスシーンは、さりげないけれどこの映画のハイライトのひとつでしょう。それが一転して、ガンファイトにおける強烈なリアリズムの衝撃! …ラスト、去りゆくシェーンを追うあの少年(と犬)に感情移入して、「シェーン、行っちゃいやだー!」と一緒になって叫んでしまったぼくなのでした。やっぱり、素晴らしい映画です。 9点(2003-11-13 10:48:53)(良:1票) |