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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2592
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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1.  キリエのうた
野外ステージの中央を真正面から捉えた望遠レンズの向こうで、アイナ・ジ・エンドが振り向き、こちらを真っ直ぐに見据えて、歌い始める。 178分に渡るこの“音楽映画”の中で、彼女は主人公“キリエ”として、最初から最後まで歌い続け、人間の脆さと儚さ、だからこそ眩くて手放せない“讃歌”を体現し続けた。 「歌」は、彼女にとっての唯一無二の伝達手段であり、表現方法であり、生き方そのものだった。  岩井俊二のフィルモグラフィーの中で、燦然と輝く“歌姫”の系譜。 グリコを演じたChara、リリイ・シュシュとして歌ったSalyu、里中真白を演じたCocco、その中に、個人的に5年間追い続けたBiSHを終えた“アイナ・ジ・エンド”が刻まれるというこの奇跡は、私にとってそりゃあスペシャルなコトだった。  公開初日に劇場に足を運び、深い情感と共に瞬く間に過ぎ去った178分に、しばらく呆然とした。 素晴らしい映画だと思った。ただしその一方で、この映画を彩る様々な要素が、私にとって特別過ぎることからの好意的なバイアスがかかってしまっているのではないかということを否定できなかった。  決して完璧な作品ではないし、万人受けする映画でもないだろう。 演技者として専門職ではないアイナ・ジ・エンドの“異物感”は、その是非は別にして確実に存在する。 2011年の石巻と大阪、2018年の帯広、2023年の東京、時間や社会状況を超えて行き交うストーリーテリングは、時に散文的で、歪だった。 それぞれの状況における登場人物たちの言動を裏付けるバックグラウンドを映し出しきれていないことに、一抹の物足りなさも覚えた。  そんな思いも抱えつつ、巡らせて、主人公キリエによる劇中歌をヘビーローテーションして、一週間後再び劇場に向かい、2回目の鑑賞に至った。 自分の中で消化しきれない部分を綺麗に呑み込みたいという思いもあったが、それ以上に、この作品を、そこで響き渡る歌声を、「映画館で観た」という記憶の中にもっとしっかりと刻み込んでおきたいという思いの方が強かったように思う。  2回目の鑑賞を経て、やっぱり歪で、ある部分においては非常に脆い映画だなと思った。 ただそれは、この映画が、極めて不安定で未成熟なこの世界の「人間」そのものを描き出していることの証明に他ならないと思えた。  大震災、不況、コロナ禍、遠い国の戦争や気候変動……。平成から令和へ、まさに文字通りの時代の移り変わりの中で、この国が直面した悲劇と苦難と、それに伴う深い鬱積。 この世界は、あまりにも理不尽で、往々にして優しくはない。けれども人々は、傍らの樹木にしがみつくようにして必死に生き延び、今この瞬間を生きている。 暗闇の中でも、僅かな光を見つけて、それを憐れみ、慈しみ、愛を込めて歌い続ければ、きっと“赦し”は訪れる。 それはもはや理屈でも無ければ、信仰でもないと思う。ただひたすらに、この場所に存在し続けることを決めた人間たちの強い意思だ。 “キリエ”が、“歌う”ということに求め続けたものは、例えば歌手としてプロになるというような世俗的なことではなく、その純粋な意思の表明だということを本作は物語っていた。  「音楽映画」と明確に銘打たれたこの映画で、「歌声」そのものにキャラクターとしての人格と映画のテーマを求められた役柄を体現し尽くした、アイナ・ジ・エンドには、ただただ感嘆した。 この5年間、BiSHでのパフォーマンスを通じて、ずうっとアイナ・ジ・エンドが歌う姿を観続けてきたけれど、彼女が辿り着いたその神々しくすらあるミューズとしての立ち振舞に心が震えた。  その主人公を映画世界の内外で支える存在として、役者としての新境地を開いてみせた広瀬すずも素晴らしかった。 心が締め付けられるくらいに相変わらず美しいその鼻筋と、キャラクターの心の奥底の闇を表現する漆黒の瞳に、終始釘付けになった。彼女が演じた逸子(真緒里)の2018年から2023年に至る「変貌」こそが、この現実世界そのものの激動と悲哀を象徴していたと思う。     語り始めるまでに時間はかかり、いざ語り始めたならば、それがなかなか尽きることはない。 「スワロウテイル」や「リリイ・シュシュのすべて」など、過去の岩井俊二作品と同様に、時代を超えて様々な世代が観続け、愛され、または嫌悪され、その素晴らしい音楽と共に思い出され続けるであろう、忘れ難い“現在地点”だ。
[映画館(邦画)] 10点(2023-10-15 00:05:50)(良:1票)
2.  キングコング: 髑髏島の巨神
「怪獣がいっぱい出てきてたのしい!」  まるで幼稚園児並みの感想だけれど、実際この映画の素晴らしさを表現するにはこの一言で充分だと思う。 なぜならば、この映画の製作陣は、観客にそれ以外の感想を求めていないからだ。 むしろ、観客がどう思うかなんて二の次で、怪獣映画や特撮映画大好きでたまらない自分たち自身が、観たくて仕方がない怪獣映画を“オタク魂”全開で作りきったのだと思える。 「俺が観たいキングコングはこうだッ!!」 と、言わんばかりの振り切れた映画世界が、同じく怪獣映画ファンとして、もう堪らない。  当初この映画に対する自分の反応は正直薄かった。 2005年のピーター・ジャクソン監督によるリメイク版に対する記憶も新しく、“キングコング”という題材自体に、今更な思いが先行したこともその要因の一つだろう。 ピーター・ジャクソン版は決して悪い映画ではなく、あの監督ならではの膨大な映像的物量を楽しめたとは思うが、1933年のオリジナル版に対して良い意味でも悪い意味でも忠実だったことで、どうしても「時代錯誤」な印象が際立ち、現代の娯楽映画として熱く迫るものがなかった。 そもそも1933年のオリジナル版には、「黒人差別」に対するメタファーが含まれているとも言われ、そういう題材をそのままのテーマ性で描き出すというのは、やはり色々な観点から“無理”があったというものだ。  しかし、この新しい「キングコング」には、そういった幾つものリメイク版が孕んでいた時代錯誤感を一蹴する描写で満ち溢れていた。 過去作のように、コングが人間により“鎖”に縛られ屈服する姿などは一切描かれない。 彼は終始一貫して、神々しいほどに強大で、只々雄々しい。 唯一無二の島の巨神であり、絶大な尊敬と恐怖を等しく内包する「畏怖」の対象として尊厳を保ち続ける。 強敵(悪役怪獣)とのラストマッチの最中、絡まった巨大な鎖を引き千切って反撃する様は、まさにその過去作に対するアンチテーゼの象徴だった。  熱い。コングのドラミングに呼応するように血潮が湧き上がってくるようだった。  怪獣を圧倒的な「畏怖」の象徴として描き出すことこそが、「怪獣映画」の本懐だと僕は思う。 そのことを、正しい憧れと遊び心を持ってして追求したこの映画を否定する余地は微塵もない。   鑑賞後、友人が「5歳の息子を連れて観に行っていいか?」と聞いてきた。 僕は「PG12」指定もなんのその即座に“太鼓判”を押した。 どうやら存分に楽しめたようで、とてもとても羨ましい。僕もはやく我が息子と「怪獣映画」を観に行きたいものだ。  エンドロール後のシークエンスにもニヤつきが止まらなかったが、順調にいけば2020年に「あの対決」が実現するらしい。 その時、息子は6歳。叶うことなら今すぐにでも前売り券を買いに行きたい。
[映画館(字幕)] 10点(2017-03-26 22:04:28)(良:1票)
3.  キャロル(2015)
許されない恋に没入していく二人の女性が、強烈に惹かれ合い、惑い、激しく揺れ動く。 惹かれ合うほどに、喪失と決別を繰り返す二人がついに辿り着く真の「恍惚」。 ラスト、大女優の甘美な微笑は、この映画を彩る悦びも哀しみも、美しさも醜さすらも、その総てを呑み込み、支配するようだった。 エンドロールに画面が切り替わった瞬間、思わず「すごい」と、声が漏れた。  1950年代のNYを舞台にしたあまりにも堂々たる恋愛映画だった。 パトリシア・ハイスミスの原作は、1952年に“別名義”で出版され、1990年になって初めて実名義が公にされたらしい。2000年代に入ってようやく映画化の企画が進み始めたことからも、この物語がいかに「時代」に対する苦悩とともに生み出され、翻弄されてきたかが伝わってくる。  そして、紆余曲折を経て今この映画が完成に至ったことに、奇跡的な「運命」を感じずにはいられない。 「時代」そのものが、この映画を受け入れるに相応しい状態にようやく追いついたことは勿論だが、それよりも何よりも、この映画に相応しい「女優」が、この時代に存在したことに奇跡と運命を感じる。 言うまでもなく、“キャロル”を演じたケイト・ブランシェットが物凄いということ。  冒頭に記した通り、この大女優のラストの表情が無ければ、この映画は成立しなかっただろう。 もう一人の主人公“テレーズ”を演じたルーニー・マーラも本当に素晴らしかったが、彼女の存在だけでは今作は「傑作」止まりだっただろう。 ケイト・ブランシェットという現役最強最高の女優が存在したからこそ、この映画は「名作」と呼ぶに相応しい佇まいを得ている。 随分前から名女優ではあったのだけれど、この数年の彼女の女優としての存在感は、文字通り神々しく、他を圧倒している。  マレーネ・ディートリッヒ、キャサリン・ヘプバーン、イングリッド・バーグマンら往年の大女優の存在感は、どれだけ時が経とうとも色褪せないが、将来その系譜に確実に名を連ねるであろう大女優の現在進行系のフィルモグラフィーをタイムリーに追えることに、改めて幸福感を覚える。   今作では、冒頭と終盤に同じシーンが視点を変えて繰り返される。 男から声をかけられる寸前のキャロルの唇の動き。冒頭シーンでは遠目に映し出されて何を発されているかは分からない。 逃れられない恍惚と共に、その言葉の“正体”に辿り着いたとき、テレーズと同様、総ての観客は、彼女の「虜」になっている。
[DVD(字幕)] 10点(2016-10-10 23:27:07)(良:2票)
4.  桐島、部活やめるってよ
上映が終わり手洗いに行った。鏡にうつる自分の顔をまじまじと見て、「老けたな」と思った。 そりゃそうだ。三十路を越え、結婚をし子供までいるんだから、ついさっきまでスクリーンいっぱいに映し出されていた高校生たちの“若さ”が、今の自分にあるわけはない。 あるわけないのだけれど、入り乱れる彼らの思いは、もはやうすぼんやりとし始めている記憶の甦りと共に、自分の感情の中に入り込み身につまされた。  きっと誰しもが、この映画に映り込む高校生たちの“誰か”と同じ“立ち位置”で、生活をしていたはずだ。 それが誰であったかなんて事は重要ではない。重要なことは、誰しもが「高校」という奇妙な「階級社会」においていつの間にか与えられた立ち位置で、もがきながら生きたということであろう。  高校生は大変だ。時に過酷なまでに。 それに対して一部の大人は、「実社会の荒波の厳しさ」を安直に強調するのかもしれない。 しかし、そんなものは比較の対象にはならない。 限られた経験値、限られた世界の中で、盲目的に自己を顕示し、また抑え込む。それをひたすらに繰り返し、葛藤を繰り返す。 それは先が見えない暗がりを、時に孤独に、時に手を取り合い歩んでいくようでもある。  でも、だからこそそこには、何にも代え難い輝きが存在する。 葛藤の果てに、「こいつら全部食い殺せ!」と高らかに言い放った映画オタクの主人公は、結果として何かを得たわけではない。 しかし、何も選び取れずフラフラと自分の成すべきことを定めきれずにいた幽霊野球部員は、逆光を背にした映画オタクが眩しくて直視できなかった。  それは、高校特有の歪なヒエラルキーが生み出した「光」だったのか「影」だったのか。  人それぞれ、誰に感情を移入するかで、この青春映画の「感触」は大いに異なるのだろうと思う。 面白いと思えるかどうかも、実際人それぞれだろうし、それでいいと思う。 ただ、きっと多くの人が、この映画を観て、自らのあの“限られた世界”で過ごした日々のことを思うだろう。 それだけで、この作品は青春映画として明らかな傑作と言える。
[映画館(邦画)] 10点(2012-08-26 00:37:16)(良:5票)
5.  CASSHERN 《ネタバレ》 
これほどまでに悲哀と残酷さに満ちたヒーロー映画がかつてあっただろうか。そのあまりに過酷なヒーローの運命に対し、予想を覆された僕は大いに戸惑ってしまった。しかし、残酷な環境を打開すべく、自らの悲しい運命を打開すべくために立ち上がったヒーローの厳しい宿命としてこれほどふさわしい物語はない。常軌を逸するほどのビジュアルセンスで描かれた鮮烈で秀麗な映画世界は現実とはかけ離れているが、描かれる人間たちの悲しさ、テーマとして語られる人間の憎しみの螺旋の本質は限りなくリアルであった。そう、アニメ版「キャシャーン」と同様に作られていたヘルメット(ソーラーメット)をこの映画の主人公はついに被ることはなかった。それはこの映画のヒーロー:CASSHERN、しいては敵キャラも含めたすべての登場人物がただの人間であること、そしてこれが生身の人間たちの闘いであるということの象徴に他ならない。新進の映像作家が撮り上げたこの処女作を「散々たる」と安易に酷評することは実に容易である。事実、改善すべき箇所は大いにあろうが、僕はこの映画世界に溢れる確固たる厳かさにも似た空気感に圧倒されずにはいられなかった。
[映画館(邦画)] 10点(2004-04-28 19:16:30)(良:1票)
6.  キング・オブ・コメディ(1982) 《ネタバレ》 
男がようやくたどり着いた“檜舞台”の直接的な描写を、この映画は一旦すっ飛ばす。 「え、ここを見せないのか」と一寸大いに不満に思ってしまったが、それも含めて巨匠と名優の手腕に踊らされていたようだ。 常軌を逸した行動を繰り広げる男が、コメディアンとして本当に成し遂げたかったことは何だったのか。 “ブラウン管”を通じてようやく映し出されたスタンダップコメディを目の当たりにして、彼の悲哀に溢れた「過去」と「真意」が見え隠れする。  想像の範疇を出ないけれど、何らかの「性質」を抱えて生まれた主人公は、早々に親からの教育を放棄され、学校では苛め抜かれ、それでも必死に自分自身の精神を守って生き抜いてきたのだろう。 そんな中で、唯一彼に優しく接してくれたのが、ヒロインの女性だったのかもしれない。  主人公のそういうあまりにもヘビーな青春時代の風景が、ラストのスタンダップコメディによって、映画の観客のみに投影される。そして、劇中の観客たちの「爆笑」が、その悲哀を更に深く、深く、増幅させる。  主人公の言動は終始一貫決して肯定できるものではない。“痛々しい”をとっくに通り越して、明確な犯罪行為の連続であるし、主人公も含め、あらゆる登場人物が「悲劇」を迎えていても何らおかしくない。 ただ、彼の必死さは火を見るよりも明らかに伝わってくる。そして、それが単なる虚栄心や功名心によるものではないことも。  果たして主人公は、このクソみたいな社会において、「自分」の存在が唯一“認識”される手段を強行し、成し遂げる。 そうして迎えたのは、個人的にはあまりにも想定外だったハッピーエンド。 しかし、ラストカットの彼の表情はどこか晴れない。そして、劇中でもっとも冷ややかで諦観的な視線を観客に向けている。 傍若無人のサクセスストリーの果てに、遂に“キング”と成った男は、何を得て、何を失ったのか。 マーティン・スコセッシと、ロバート・デ・ニーロは、「時代」を超えて、難しい問いを大衆に投げつける。脱帽。
[インターネット(字幕)] 9点(2019-10-02 22:56:11)(良:1票)
7.  キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー
前作「ザ・ファースト・アベンジャー」は、当時公開間近だった超大作「アベンジャーズ」の布石であり前日譚である要素が強く、単体としては娯楽映画の魅力に欠けていたことは否めなかった。 ただし、「前日譚」と割り切っている以上、この映画のあり方はまったく問題なかったと今となっては思うし、「アベンジャーズ」でのキャプテンの存在感を目の当たりにした後では、この一連のマーベル作品シリーズの中でも極めて重要な作品だと思える。  そうして、再びマーベルの“大祭”第二弾を控え、満を持しての続編。前作と同様に布石、前振り的な要素は大いにある。 しかし、今作は前作と比較すると圧倒的に主人公キャプテン・アメリカのキャラクター性が完成している。  彼が“アベンジャーズ”の中で最も「地味」なキャラクターであることは言うまでもない。 純粋な戦闘能力としてのタイマンなら、ソーは勿論のこと、アイアンマンやハルクの足元にも及ばないだろう。 ただそれでもチームのリーダーは、“キャプテン”を置いて他にいない。 それは、彼の最大のストロングポイントが、決して人体実験で生み出された超人的パワーなどではないからだ。 キャプテン・アメリカとなる前の一兵卒スティーブ・ロジャーズ本人が持つ揺るがない「正義感」こそが、このスーパーヒーローの最大のストロングポイントであり唯一無二の武器なのだ。  そのキャラクター性は、あまりに理想主義的で、あまりに青臭い。 でも誰も彼のことを否定などできない。  エネルギー破など出せず、飛ぶことも出来ない。 けれども決してひるむことなく、ひたすらに走り、ひたすらに盾を投げつけ、ひたすらに投げた盾を拾い、ひたすらに敵を叩く。 その姿を見て、どのヒーローも本質的な部分において「彼には敵わない」と思うのだろう。  勿論、弱みを突かれてのピンチには事欠かない。 ただしいつも彼には強力な仲間がいる。 真面目さが仇になるとあらば、ブラック・ウィドウが世渡りと危険回避の巧みさでフォローするし(あとガールフレンドの斡旋も)、空が飛べないとあらば、新戦力ファルコンが翼を与える。  自らが勝利する必要はない。結果として正義が悪に打ち勝てばそれでいい。 それが、キャプテン・アメリカというヒーローなのだ。  そういうことを、きっちりと“生真面目”に映し出すこの映画が面白くないわけがない。     (2018.5.12 再鑑賞)  この「キャプテン・アメリカ」の第二弾が、MCUの本流ど真ん中を紡ぐ作品でありながら、映画単体として非常に高評価を得たのは、ポリティカルサスペンスとしてのテーマの鋭さに尽きる。  即ち、「正義」を司る組織として存在していた“S.H.I.E.L.D.”が、実のところその中核的なところから「悪」によって動かされていたという、あまりにも虚無的な事実。 もはや、何が「正義」で、何が「悪」なのか。その言葉の意味すら曖昧になり、濃く深い霧の中に入り込んでいくような感覚。 そしてそれが、荒唐無稽なフィクションである筈の映画世界を超えて、現実世界の実情とリンクしてくるという絶望感。  ただ、そんな混沌とした状況だからこそ、我らがキャプテンは最後の最後まで、「親友」を見捨てることが出来なかったのだとも思う。 その感情は、この無慈悲な世界において、あまりにも不確かで危ういことだけれど、人間に唯一残された希望のようにも思える。  それは、70年の時を経て、変わらぬ愚かな世界の混沌の中で、「正義」の意味を背負い続けるヒーローが語るに相応しいテーマ性だ。
[映画館(字幕)] 9点(2014-04-28 00:01:37)(良:3票)
8.  キャビン
「面白かった」 映画を観た感想を表現する言葉は様々だろうが、もっとも単純で且つもっとも重要なことは、鑑賞直後にこの一言が頭に浮かぶかどうかだろうと思う。 観る者を、“恐怖”に直結した好奇心でまず掴み、数多の映画を観てきた者でさえ想像し難い“驚き”をもって揺さぶり、未体験の“高揚感”で包み込んで、爆発させる。 映画としての「粗」はありまくる。しかし、この映画の新しさは、そのすべてを一蹴し、「見事」の一言に尽きる。  「ホラー映画」の定石。そのお決まりのベタさに、そうでなければならない「理由」があったとしたら? そのアイデアを具現化し、問答無用の娯楽映画として貫き通した時点で、この映画の勝利は確定したと言っていい。  滅茶苦茶な映画ではあるけれど、ちゃんと真剣に滅茶苦茶なので完成度が高い。 この映画はそういう類いの作品で、どれくらい“本気”でこの「設定」を受け入れられるかどうかで、“是非”の判別は大きく揺れ動くことだろう。 “非”と判別する人も多いのかもしれないが、それは非常に不幸な事だと思わざるを得ない。 ストーリーの根底にある一つの「設定」を受け入れ、「そういうことならば仕方がない」と認識すれば、強引に思える数々の描写のすべてがきちんとまかり通るように出来ている。  極めて強引な映画ではあるけれど、強引な設定をしっかりと強引に引っ張り上げることで、ちゃんと整合性を付加していると思う。 例えば、一見するとあまりに非人道的でふざけすぎていると思えるある人間たちの描写も、諸々の設定と彼らが置かれている立場を冷静に鑑みれば、その心情と言動にも整合性が見えてくる。  そういう意味では、この映画は“アイデア一発”のように見えて、非常に練られたシノプスが魅力的な作品であることが分かる。  詰まるところ、要はノレるかノレないか。 そして、大概の場合、映画なんてものはノッたもん勝ち。
[映画館(字幕)] 9点(2013-04-24 16:41:11)(良:2票)
9.  キック・アス
数ヶ月前、某ニュースサイトのトピックスで、今作に主演した御年13歳の女優が注目の的に挙げらていた。 記事に掲載されていた本人画像を見て、「これ、ほんとに13歳か?」と、あまりに魅惑的な表情に唖然としてしまった。  それが、この映画の“スーパーヒロイン”を演じたクロエ・グレース・モレッツだ。  撮影当時は11歳の彼女が、放送禁止用語を連発しながら、悪党を次々に“虐殺”していく。 極端な娯楽映画であることは重々認識していながら、ほんとうに久しぶりに、「これは教育的によくない映画だなあ」心底思いながら、終止ほくそ笑み続けた映画だった。  アメコミのヒーロー映画は大好きで、散々観てきた。きっと、この映画の製作陣も、アメコミが大好きで、数多のヒーロー映画を心からリスペクトしているのだろうと思う。 そういうことを踏まえて、敢えて言いたい。  「サイコーに面白いヒーロー映画だ!」と。   冴えないオタク学生が、マスターベーション的ヒーローと成ることからストーリーは転じ始める。 実際、その“テイスト”だけでも充分にコメディ映画としては面白い。 “彼=キック・アス”を単独の主役として貫き通したとしても、娯楽映画として確実に評価に値する作品に仕上がっていたことだろう。  ただ、この映画が一筋縄ではいかないのは、前述の“11歳のスーパーヒロイン”の存在に他ならない。 主人公“キック・アス”の存在が、クロエ・モレッツが演じる”ヒット・ガール”と、ニコラス・ケイジ演じる“ビッグ・ダディ”のコンビを引き立たせるための“前フリ”となった時点で、映画は劇的に加速していく。    そして、最終的にはしっかりと“主人公”を活躍させてくれるという、分かりきった“くすぐり”が、問答無用にテンションを高揚させてくれて、深夜にも関わらず、馬鹿笑いが止まらなかった……。  「バットマン」をはじめとする“ヒーロー映画”のパロディに端を発している映画であることは間違いないが、その範疇をひょいっと越えた、唯一無二の娯楽性を携えたオリジナリティ溢れる“ヒーロー映画”の誕生だと思う。   P.S. そして、13歳の時に出演した「レオン」で一躍スターダムにのし上がったナタリー・ポートマンが、アカデミー賞主演女優賞を受賞したこのタイミングだからこそ、 クロエ・グレース・モレッツの、女優としての将来性には期待せずにはいられない。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2011-03-20 01:23:50)(良:1票)
10.  キサラギ
自殺したマイナーアイドル“如月ミキ”の一周忌に集まった曲者ぞろいの5人の”ファン”たち。 全編通してまんべんなく“笑い”を散りばめつつ、密室の中でアイドルの死の「真相」を突き詰めていく様は、「12人の優しい日本人」を彷彿とさせる。と言えるほど、よく練られた設定がスバラシイ。  5人のキャラクターそれぞれが立っていて、それぞれのキャラクター設定や、伏線となる言動が徐々に結びついていく様に、登場人物たち同様にハッとなる。それがサスペンスとしても心地よい快感となり、どんどんのめり込んでいけて、とても楽しい。  ストーリーやサスペンスとしての伏線自体は、実はとても安直なもので、それほど突き詰められたものではないのだけれど、愛すべきキャラクターと映像世界が、トータル的に「良い映画」として仕上げていると思う。 最終的に、観客も“如月ミキ”ファンになってしまうような、そんな愛着感こそ、この作品が映画として「スバラシイ」と言える最大の要因だと思う。  惜しむらくは、宍戸錠の出演はお宝DVDの中だけでとどめてほしかった。 5人揃って“見事”な振り付けを披露するファンキーなエンディングで幕を降ろしてくれていた方が、よっぽど映画としての後味が優れていたと思う。
[映画館(字幕なし「原語」)] 9点(2007-08-12 19:15:10)
11.  キング・コング(1933)
70年以上前に作られたこの大スペクタクル映画を、70年後の現在も容易に見られるということになんだか感慨深さを覚える。後に作られたリメイク作と違い、あくまで空想冒険映画というスタンスを貫き通し、意図せずに人間のエゴイズムを表現してしまっていることに、良い意味でも悪い意味でも“時代”を感じる。しかしその部分こそ、この映画が秀逸な特撮技術という魅力を超越して魅せるパワーであり、映画史における“価値”なのかもしれない。
9点(2005-02-02 17:55:08)(良:1票)
12.  Kids Return キッズ・リターン
「俺たち、もう終わったんすかね?」「バカ、まだ始まってもいねえよ」。このラストシーンにこれからも多くの若者たちが勇気付けられ、感動するに違いない。青春映画は数多いが、北野武の最高傑作の名にふさわしい今作ほど、「青春」というものの多感性と危険性を真摯に描いた映画はないのではないか。痛々しいまでにストレートな彼らの生き方は、不思議な共感を呼ぶ。
[ビデオ(邦画)] 9点(2003-12-05 16:35:58)
13.  キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン
200分を超えた物語の終着点で、主人公のアーネスト・バークハートは、劇中最も情けなく、そして力ない表情で、傍らにいたFBI捜査官の方を振り向く。気丈な捜査官も、思わず目を背けてしまうくらいに、主人公のその様とそれに至った妻に対する「回答」は、愚かすぎて目も当てられない。 この映画は、米国史上における確固たる「闇」と、その中で蠢いた人間たちの悍ましさ、そして罪を犯し続けた一人の男のひたすらな愚かさを容赦なく描きつけている。  主演のレオナルド・ディカプリオが本作で演じたアーネスト・バークハートという男は、おそらく彼のフィルモグラフィーの中で最も愚かで救いのない人間だったに違いない。 それ故に、本作の製作に当たって当初は事件を究明するFBI捜査官の方を演じる予定だったところを、自らの判断でこの愚男に配役を変え、演じきったディカプリオは、すっかり骨太な映画人だなと思う。  マーティン・スコセッシ監督の最新作に、彼が長年に渡ってタッグを組み続けたロバート・デ・ニーロとレオナルド・ディカプリオが揃い踏みするという事実は、世界中の映画ファンにとってやはりスペシャルなことであり、むしろそれこそが「事件」と言えよう。 それが206分という異様な上映時間であったとしても映画館に足を運ばずにはいられなかった。  1920年代のオクラホマ州で起きた先住民族“オーセージ族”を対象にした連続殺人事件の真相と顛末を描いた実録犯罪映画。 206分という上映時間には流石に構えてしまったが、実際に鑑賞が始まると、そこはやはり大巨匠の独壇場、プロローグシーンから一気に映画世界に引き込まれる。 オクラホマの荒野に追いやられた先住民族が、油田の発掘により一転して莫大な富を得て、そのオイルマネーに群がる白人たちの操作と支配、陰謀によって運命を狂わされていく様が、努めて淡々と描き出される。 実話ベースのストーリーテリング故に、そこには大仰な映画的な派手さや、劇的な顛末は存在しない。ただだからこそ、一人ひとりの人間の本質が、丁寧に、生々しくあぶり出されていくようだった。  前述の愚男を演じたレオナルド・ディカプリオ、そして、人間の悪意をそのものを演じきるロバート・デ・ニーロの競演からは、人間が孕む闇と腐臭が匂い立ってくるようだった。終盤、それに群がるかのように飛び回る蝿の羽音が不快感を助長していた。  また、両者の間で身も心も侵食されるオーセージ族の一人であり、主人公の妻を演じたリリー・グラッドストーンの存在感も抜群だった。 只々、嵐が過ぎ去るのを耐え忍ぶように、沈黙を守り、最後の最後まで愚かな夫への“赦し”を与えようとするその姿は、とても美しく、神々しい。 劇中、白人は神の存在を都合よく語り、オーセージ族も自分たちの信仰を貫く、がしかし、本当の「神」とは、一人ひとりの人間の中にこそ生まれ存在するものなのではないか。というようなことを、主人公の妻モリーの生き様から感じた。  時代や場所、価値観や常識を超えて、迫害や侵害を念頭に置いた理不尽な暴力は、この世界のあちらこちらで今なお繰り広げられ続けている。 本作で綴られたことは、決して「物語」ではなく、無情で端的な事実であるということを、映画の最後、自ら登場したマーティン・スコセッシは、強く強く伝える。
[映画館(字幕)] 8点(2023-11-11 00:47:33)
14.  君たちはどう生きるか(2023)
少し唐突な印象も残るくらいにあっさりと映画が終わった。 その時点で、とてもじゃないが言語化はまだできておらず、一抹の戸惑いと、何かしらの感慨深さみたいなものが、感情と脳裏を行き交っている状態の中、少しぼんやりとエンドロールを眺め見ていた。 すると、「作画協力」として、今やこの国のアニメーション文化を牽引する錚々たるスタジオの名前が整列するように並んでいた。 他のアニメスタジオが作画協力に名を連ねること自体は、さほど珍しいことでもないのだろうけれど、スタジオジブリ作品、そして本当に宮崎駿の最後の監督作品になるかもしれない本作のエンドロールにおけるその“整列”には、何か特別な文脈があるように思えた。  そしてはたと気づく、ああそうか本作の「真意」は、クリエイティブの極地に達した創造主からの、新たな創造主たちに向けたメッセージだったのだなと。  宮崎駿、その想像と創造の終着点。 そこには、彼がこの世界に生まれ落ち、いくつもの時代を越えながら吸収してきた数多のクリエイティブの産物で溢れかえっていた。 彼が吸収したものが、いくつものアニメーション作品の中で具現化され、一つ一つの「世界」となって、積み木のように積み上げられていったことをビジュアルによって物語っているようだった。 そしてその世界は、「崩壊」という形で、時を遡って、何も生み出していない無垢な自分自身に継承される。それはまるで、クリエイターの根幹たる魂が「輪廻」していくさまを見ているようだった。   宮崎駿が生み出した「世界」そのものは、創造した自分自身の手によって崩壊という終焉を経て、無に帰す。 ただし、同時にそこからは、色とりどりの無数のインコが飛び立っていく。 この色とりどりのインコたちこそが、エンドロールに名を連ねた新世代(ジブリ以降)のアニメスタジオであり、新たな創造主たち(=クリエイター)を表しているのだろう。  “声真似”をするインコを用いたのは、どこか“ジブリっぽい”アニメ作品を量産しているクリエイターたちへの皮肉めいた批評性、というか明確な“イヤミ”もあるのかもしれない。 その一方で、宮崎駿自身がそうであったように、先人たちの数多のクリエイティブを吸収し、真似て、発信しようとするプロセスは、必然であり、正道であることを暗に伝え、激励しているようにも思えた。   あらゆる側面において、極めて意欲的な作品だったと思う。 ただ、本作においいて、宮崎駿というクリエイターの本質とも言うべき“支配力”や“エゴイズム”が、全盛期同様に満ちていたかというと、そうではなかった。 クリエイティブという活動そのものの性質や限界を考えると、それは至極当然のことだろう。 むしろ、クリエイターとしての限界のその先で生まれた作品だったからこそ、本作はそれに相応しい「崩壊」や「終焉」をエモーショナルに描き切ることができたのだと思う。  創造と崩壊、巡り巡ったその先に、君たちはどんな「世界」を創るのか。 様々な解釈はあろうが、それは、「夢と狂気の王国」築き上げ、積み上げ続けた一人の狂気的なクリエイターの、決して優しくはないが、力強いメッセージだったと思う。
[映画館(邦画)] 8点(2023-07-20 12:47:44)(良:1票)
15.  キル・ボクスン
「ジョン・ウィック」を皮切りに、「ポーラー 狙われた暗殺者」「ブレット・トレイン」など、“サラリーマン社会”のように企業化され階級付された“殺し屋業界”を描いた娯楽映画がこの数年量産されている。 日本でも、「ベイビーわるきゅーれ」や「ザ・ファブル」がその系譜であり、レベルの高いアクション性と、ある種の“ファンタジー”の中での殺し屋たちの悲喜こもごもの群像劇が楽しい作品が多い。 本作「キル・ボクスン」も、まさしく韓国産の殺し屋業界映画であり、このジャンルと韓国映画の相性をきっちりと見せつけている。  韓国映画では、強烈なバイオレンス描写を見せるとともに、どこか気の抜けた台詞回しや、登場人物たちの言動とのギャップが、映画作品としての独特の味わいとなっていることが多い。 それは韓国という国の社会風俗や、思想、教育倫理を根底にしたアイデンティティであり、韓国映画が唯一無二の娯楽性を生み出している大きな要因だとも思える。  韓国映画が描き出す“殺し屋業界”は、極めて激しく暴力的であると同時に、生々しい滑稽さが、空想上の“リアル”を導き出していた。 「先輩」の命令は絶対である揺るぎないタテ社会の中での、殺し屋業界の面々の人間関係がまず面白い。 業界における伝説的エースである主人公を、畏怖と共に敬愛する“同業”の飲み友達が集まる居酒屋だったり、所属する殺し屋会社の訓練生たちからの尊敬の眼差しだったりと、他の国の同ジャンル映画には無かった人間模様が新鮮でユニークだったと思う。 ただし、だからといって殺し屋同士で馴れ合うばかりではなく、いざその“対象”となれば、躊躇なく殺し合うシーンへと転じる急激な変調が、アクション映画としての見事な抑揚を生み出していたとも思う。  韓国映画として、アクションシーンのクオリティの高さはもはや言うまでもない。アクションシーンのパターンやそれに伴うカメラワークのアイデアがとにかく豊富で、「ジョン・ウィック」のように決して銃弾が飛び交うような派手なシーンが多いわけではないにも関わらず、137分の時間が飽くこと無く過ぎ去っていく。  無論、殺し屋稼業と思春期育児を行き来するシングルマザーの主人公を描いたストーリーテリング自体が上手く展開していたことも本作のオリジナリティを高めていたと思う。 殺し屋としての苦闘以上に、15歳の我が娘との距離感や教育に苦悩する主人公描写こそが、本作の要であり、主人公を演じたチョン・ドヨンは両極端の人間性を絶妙なバランス感覚で、説得力をもって演じ分けていた。  冒頭の日本人ヤクザとの対決における片言日本語描写はご愛嬌。 組織内で主人公と並ぶ手練れとして名前だけ登場する“カマキリ”が、続編への布石であることを期待したい。
[インターネット(字幕)] 8点(2023-05-09 15:08:11)
16.  THE GUILTY ギルティ(2018) 《ネタバレ》 
鑑賞後、映画情報サイトで本作の詳細を確認したところ、“出演”の項目が主演俳優のヤコブ・セーダーグレンの表記のみで、残りのキャスト情報は“声の出演”になっていた。 当然認識していたことではあったけれど、本作が極めてミニマムなキャスティングによるアイデアに溢れた密室サスペンスであったことを再確認した。  とある業務上の問題行為による謹慎処分で緊急通報司令室に飛ばされているらしい刑事の男が、現場復帰前夜の職務で受けた一つの緊急通報により、人生の岐路に立たされる。 緊急通話の“会話劇”のみで紡ぎ出される或る事件が、緊迫感たっぷりに描き出されると同時に、主人公の置かれている立場や彼の人間性が浮き彫りになっていく様が、とても巧みだった。  主人公が偶然にも受けてしまった事件そのものの真相もサスペンスフルだったが、その顛末によって突如として彼本人に突きつけられた“罪と罰”の描写が非常にスリリング。 映し出される舞台は一貫して緊急司令室内のみであり、1カットも“外”の様子が挟み込まれることはない。故に映画的な絵面は地味なはずなのに、その緊張感をキープし続ける映画術は見事だった。   人間誰しも、自分が犯した過ちに対して気づかないふりをしてみたり、必死に正当化したりして、自分自身に対して「嘘」をついている。 ただ、ふとした瞬間に、その嘘を自ら暴かなければならなくなったとき、どういう言動に至るのか。そこに、人間としての本質が現れるのかもしれない。  本編を通じて、主人公は方々に電話をかけつづける。 ラストカット、彼は誰に最後の電話をして、外への扉を開けたのか。 (最後に扉を開ける映画は大体傑作説を本作は証明している)  デンマーク産のなかなか妙味な作品だった。 あと、本作ほど自室のPCモニターで“ヘッドホン”をして鑑賞するスタイルに相応しい映画も他に無いだろうと思う。
[インターネット(字幕)] 8点(2023-02-04 00:03:03)
17.  9人の翻訳家 囚われたベストセラー 《ネタバレ》 
久しぶりに、「良いミステリーサスペンス映画を観た」という充足感に包まれた。 マクガフィンとして物語の中心に存在するベストセラー小説の「デダリュス」というタイトルが最後まで覚えられなかったけれど…。  世界的大ベストセラーの最新作の多言語化に際し、世界各国から9人の翻訳家が秘密裏に集められる。 その翻訳家たちを人里離れた洋館の地下室に隔離して、徹底した情報管理体制のもとで翻訳作業を行わせるというプロットはなるほど映画的だなと思ったが、なんとこれは実際に行われた手法だというから驚く。ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」シリーズ最新作「インフェルノ」の出版の際に、同様のスタイルで翻訳作業が行われたらしい。  そんな事実に着想を得て練り上げられた脚本が、ずばり見事だったと思う。 慢性的なネタ不足で、世界的に小説や漫画の映画化が溢れる昨今において、この脚本のオリジナル性は価値が高い。 フランスの低予算映画で、それほど有名なキャストも揃っていないので(知っていたのはボンドガールを演じたオルガ・キュリレンコくらい)、最後まで登場人物たちに対する“焦点”が定まりきらなかったことも、サスペンス映画として効果的に機能していたと思う。  プロットの必然性により、国籍の異なる9人が集まり、彼らが織りなす言語と思考が入り混じることで、ストーリーの推進力と、巧妙な“ミスリード”を生み出していた。作中、アガサ・クリスティーの「オリエント急行の殺人」を引き合いに出したことも、巧い誤誘導だった。  もう少し、9人の外国人が群像劇を展開することによる現代的な視点や問題意識を盛り込めていれば、もっと映画作品として深みが出ていたような気もするので、その点はまたリメイク等にも期待したい。 ストーリーの顛末を知ってしまった今となっては、逆に各国出身のハリウッドスターを揃えたオールスターキャスト版も観てみたい。  ともあれ、サスペンス映画を観て純粋に“驚く”という機会も中々少なくなっているので、それを得られた時点で本作の価値は揺るがない。
[インターネット(字幕)] 8点(2022-09-19 23:34:00)
18.  キャプテン・マーベル
“マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)”は、最終章「エンドゲーム」公開を直前に控えたこのタイミングで、唯一欠けていた“ピース”を埋めてきたのだと思った。 多種多様なスーパーヒーロー達を描き連ね、「正義」という概念に対する様々な価値観と、それに伴う結束と決裂と崩壊を、MCUは大エンターテイメントの中で映し出してきた。 そんな中において、唯一にして明確に欠けていた要素があった。それは映画企画としては後発の“DC”では先に表されていたものでもある。  それは即ち、「時代」に即した、圧倒的に強く魅力的な女性ヒーローの存在だ。 無論、これまでのMCUの作品群の中でも、強くて魅力的な女性キャラクターは数多く登場する。 ブラック・ウィドウ、スカーレット・ウィッチをはじめとするアベンジャーズメンバーは勿論、ペギー・カーターやマリア・ヒルなどS.H.I.E.L.Dという組織を支えてきた面々、ガモーラやワスプなど主人公キャラをも凌駕する強さを発揮するキャラクターも幾人も登場している。 だがしかし、彼女たちはすべてスーパーヒーローやリーダーをサポートする役割であり、物語の“主人公”にはなり得ていなかった。 新たな時代の価値観を踏まえて、それぞれの作品のストーリーを紡いできたMCUであるが、その女性キャラクターの偏った立ち位置においてはあまりに前時代的だったと言わざるを得ない。  そんなシリーズの文脈の中でついに登場した女性ヒーローが、今作のキャロル・ダンヴァース=“キャプテン・マーベル”なのだと思う。 それはまさに、ライバルDCエクステンデッド・ユニバースが、起死回生の傑作となった「ワンダーウーマン」で成し得たことそのものであり、作中の類似性も含めて「ワンダーウーマン」が無ければ、今作は誕生しなかったのではないかとすら思える。  ただ単に強い女性ヒーローを誕生させただけであれば、それこそ「ワンダーウーマン」の真似事に過ぎないところだが、そこは流石のMCU、しっかりと大河の本流に組み込ませつつ、想定を大いに超える圧倒的な無双ぶりを展開させ、問答無用の高揚感を与えてくれる。 若きニック・フューリー(aka サミュエル・L・ジャクソン)を“相方”とすることで必然的に生じる軽妙な台詞回しとユーモアも全編通して気が利いており巧い。   「感情的」で何が悪い? 怒り、悲しみ、泣き、笑い、「女」は何度だって立ち上がる。 その神々しいまでの勇ましさは、「インフィニティ・ウォー」によるあまりに大きな絶望感に対してようやく生まれた一筋の光だ。 とにもかくにも、ニック・フューリーが最後の最後まで隠し持った“切り札”はとんでもなかった。
[映画館(字幕)] 8点(2019-03-23 13:18:42)(良:1票)
19.  寄生獣 完結編
「映画化」のインフォメーションに際し、最も眉をひそめたポイントは、“田宮良子”を演じるのが深津絵里だということだった。 深津絵里は大好きな女優の一人だ。ただ、原作漫画において殆ど主人公の一人と言っても過言ではないキーパーソンである寄生生物“田宮良子”の文字通り「異質」なキャラクター性と、これまで深津絵里という女優が演じてきた多くのキャラクターとのイメージが、全く合致しなかった。 原作漫画の“信奉者”故の過剰な拒絶反応が、そもそも「映画化」という報にあった上に、その主要キャラクターにおけるイメージの乖離が、この映画を遠のかせた大きな要因だったと思う。  しかし、鑑賞後、結果的には、まさに手のひらを返すようにこの映画作品を称えたくなった。 その最大の要因も、深津絵里演じる“田宮良子”だった。 原作漫画に登場するキャラクターとは、やはり風貌も雰囲気も異なっていたけれど、深津絵里の“田宮良子”は素晴らしかった。 原作漫画のハイライトである“田宮良子”の最期のシーンが、映画化においても当然肝になると思っていたが、このシーンがほぼ完璧で、原作同様に泣いてしまった。正直、もうそれだけで、この映画化の価値は揺るがないと言っていい。 “田宮良子”の独壇場であるこのシーンで、深津絵里は、確固たるキャリアに裏打ちされた女優力で、見事にアプローチし、表現しきっている。  深津絵里に限らず、出演する俳優陣の演技がみな安定しているからこそ、諸々の改変点も許容の範疇に収まったのだと思える。 無論、改変点に対する違和感や拒否感が無くなることはないけれど、演者の演技に「説得力」が備わっているので、「これはこれでありだな」と思えたところも多かった。  “田宮良子”が「人間の真似をして笑ってみた」シーンは、原作においても印象的な場面だが、その“真似ごと”のきっかけを映画では「嘲笑」から「慈愛」に変えている。 原作通りのキャラクター表現であれば、この改変は完全に「改悪」と断罪すべきところだったが、映画のキャラクター設定と深津絵里の演技プランが、原作キャラに対して一歩踏み込んだものになっているので、原作とは別の感動を生み出していた。 また、前述の“田宮良子の最期”と、同じくハイライトの一つである“広川の最期”を並行して描いた点は、映画製作における「予算」「尺」など諸々の制約を超えていくための巧い改変だったと思う。  期待を超えた出来栄えに対する、原作ファンならではの「補完」も大いにあったのかもしれない。 が、鑑賞後確かな「満足感」を携えて、すぐさま自室の本棚に並ぶ原作全巻を読み直させたのだから、大成功の「映画化」であったことは認めざるを得ない。
[インターネット(邦画)] 8点(2019-02-24 23:53:18)
20.  君の名は。(2016) 《ネタバレ》 
「独りよがり」な映画である。 普通この言い回しには、多分に否定的な意味が含まれているものだが、新海誠というアニメーション監督が生み出す作品においては、それは必ずしも当てはまらない。 「独りよがり」だからこそ、表すことができる「美学」と「美意識」。それがこの監督の作品の唯一無二の魅力だと思う。  他に類を見ないあまりにも美しいアニメーション表現が、やはり素晴らしかった。 ただ、この監督の過去作には、その“美しさ”が際立つあまり、ただただそれに自己陶酔しているだけに見える作品があったことも否めない。  特に前作「言の葉の庭」は、むせび泣くように降り続ける雨に包まれた街並みが美しい映画ではあったけれど、そこに描き出された物語は、ひたすらに“青臭い”ばかりで、まったく感情移入することが出来なかった。 それは、独善主義的に、自らの美意識を追求する新海誠作品ならではの、孕まざるを得ない“あやうさ”だったようにも思う。 新海誠の名を知らしめた名作「秒速5センチメートル」にも、その“あやうさ”はあった。 そして、今作においてもその側面が無くなったわけではない。 主人公たちの言動はやはり青臭く、ストーリーテリングには都合のいい自己満足感が溢れている。  でも、今作においては、その青臭くて、独りよがりな描写そのものが、何にも代え難いエモーションとして、満ち満ちている。  “星降る夜”という数多の表現作品の中で、“美しきもの”として表されてきたものが孕む圧倒的な神々しさと絶対的な脅威。 それは、美しすぎるものが併せ持つ荘厳さと残酷さの象徴だったように思う。 そして、その美しさと残酷さは、そのまま主人公二人の“若さ”に直結する。 若く、未成熟な彼らは、安直で直情的であまりに危うい。でもだからこそ、何よりも美しくて、エネルギーに溢れている。  その美しいエネルギーは、“流星”のそれを遥かに凌駕し、神にも抗う。 それこそが、この映画が最も描き出したかったことなのだと思える。  「過去」は、どうやったって変えられない。 身近な交通事故から“3.11”のような天変地異に至るまで、ありとあらゆる悲劇を目の当たりにしてきている人々は、そのことをよく知っている。 ただし、その「理」を、強引だろうが、無謀だろうが、ご都合主義的だろうが、人物の“感情の力”一つだけで時に覆してしまえることも、「映画」に許されたマジックだ。と、思う。  世界が終わるその間際だろうと、ついに果たせた焦がれた人との邂逅においては、状況を忘れて、その人と話し触れ合うことだけに没頭する。 「そんなことをしている場合か」という非難は、あまりに無意味だ。 若者たちのその無垢な「感情」と「行動」こそが、世界を救う唯一の「方法」だと、この映画は伝えているのだから。   繰り返しになるが、独りよがりで、青臭い映画であることは間違いない。 この種のストーリーを繰り広げるのであれば、辻褄が合わない点もあまりに多過ぎたと思う。 これだけ素晴らしい作品なのだから、ディティール面でもう少し他者の介入があったならば、もっと絶対的な名作になっていたのでは。と、思わなくはない。 けれど、思い直す。 この肯定と否定が渦巻く不完全さこそが、この作品が表現することの価値なのだろう。 若い二人が、町よりも、世界よりも、何よりも先ず「君」のことを思って、闇雲でもなんでも全力で何かに向かって走る。 そのエモーションに勝るものなど、実際無いのかもしれない。  恐らく、いやほぼ確定的に、この作品の社会現象的な大ヒットに伴って、新海誠監督の次作には、更に潤沢な環境と引き換えに、ありとあらゆる制限としがらみが生まれることだろう。 その時、この“独りよがり”なアニメーション監督が、一体どのようにして、どのような作品を生み出すのか。 今から、不安と期待が入り交じる。
[映画館(邦画)] 8点(2016-09-14 10:28:21)(良:1票)
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