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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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21.  君の名は。(2016) 《ネタバレ》 
「独りよがり」な映画である。 普通この言い回しには、多分に否定的な意味が含まれているものだが、新海誠というアニメーション監督が生み出す作品においては、それは必ずしも当てはまらない。 「独りよがり」だからこそ、表すことができる「美学」と「美意識」。それがこの監督の作品の唯一無二の魅力だと思う。  他に類を見ないあまりにも美しいアニメーション表現が、やはり素晴らしかった。 ただ、この監督の過去作には、その“美しさ”が際立つあまり、ただただそれに自己陶酔しているだけに見える作品があったことも否めない。  特に前作「言の葉の庭」は、むせび泣くように降り続ける雨に包まれた街並みが美しい映画ではあったけれど、そこに描き出された物語は、ひたすらに“青臭い”ばかりで、まったく感情移入することが出来なかった。 それは、独善主義的に、自らの美意識を追求する新海誠作品ならではの、孕まざるを得ない“あやうさ”だったようにも思う。 新海誠の名を知らしめた名作「秒速5センチメートル」にも、その“あやうさ”はあった。 そして、今作においてもその側面が無くなったわけではない。 主人公たちの言動はやはり青臭く、ストーリーテリングには都合のいい自己満足感が溢れている。  でも、今作においては、その青臭くて、独りよがりな描写そのものが、何にも代え難いエモーションとして、満ち満ちている。  “星降る夜”という数多の表現作品の中で、“美しきもの”として表されてきたものが孕む圧倒的な神々しさと絶対的な脅威。 それは、美しすぎるものが併せ持つ荘厳さと残酷さの象徴だったように思う。 そして、その美しさと残酷さは、そのまま主人公二人の“若さ”に直結する。 若く、未成熟な彼らは、安直で直情的であまりに危うい。でもだからこそ、何よりも美しくて、エネルギーに溢れている。  その美しいエネルギーは、“流星”のそれを遥かに凌駕し、神にも抗う。 それこそが、この映画が最も描き出したかったことなのだと思える。  「過去」は、どうやったって変えられない。 身近な交通事故から“3.11”のような天変地異に至るまで、ありとあらゆる悲劇を目の当たりにしてきている人々は、そのことをよく知っている。 ただし、その「理」を、強引だろうが、無謀だろうが、ご都合主義的だろうが、人物の“感情の力”一つだけで時に覆してしまえることも、「映画」に許されたマジックだ。と、思う。  世界が終わるその間際だろうと、ついに果たせた焦がれた人との邂逅においては、状況を忘れて、その人と話し触れ合うことだけに没頭する。 「そんなことをしている場合か」という非難は、あまりに無意味だ。 若者たちのその無垢な「感情」と「行動」こそが、世界を救う唯一の「方法」だと、この映画は伝えているのだから。   繰り返しになるが、独りよがりで、青臭い映画であることは間違いない。 この種のストーリーを繰り広げるのであれば、辻褄が合わない点もあまりに多過ぎたと思う。 これだけ素晴らしい作品なのだから、ディティール面でもう少し他者の介入があったならば、もっと絶対的な名作になっていたのでは。と、思わなくはない。 けれど、思い直す。 この肯定と否定が渦巻く不完全さこそが、この作品が表現することの価値なのだろう。 若い二人が、町よりも、世界よりも、何よりも先ず「君」のことを思って、闇雲でもなんでも全力で何かに向かって走る。 そのエモーションに勝るものなど、実際無いのかもしれない。  恐らく、いやほぼ確定的に、この作品の社会現象的な大ヒットに伴って、新海誠監督の次作には、更に潤沢な環境と引き換えに、ありとあらゆる制限としがらみが生まれることだろう。 その時、この“独りよがり”なアニメーション監督が、一体どのようにして、どのような作品を生み出すのか。 今から、不安と期待が入り交じる。
[映画館(邦画)] 8点(2016-09-26 23:33:11)(良:1票)
22.  キングスマン
“英国王”もとい“英国紳士”然としたコリン・ファースが、いかにもスパイ映画風の魅力的なギミックを駆使して小悪党どもを小気味よく打ちのめす。 この白眉のアクションシーンをはじめ、映し出される映像の娯楽性は極めて高く、楽しい。  この映画が、マシュー・ボーンという英国出身の新人監督のデビュー作というのであれば、娯楽映画史におけるエポックメイキング的な作品として手放しで評価できたのかもしれない。 しかし、そういうわけにはいかない。マシュー・ボーンという名前はもはや大きくなり過ぎている。 「キック・アス」で大出世を果たし、「X-MEN:ファースト・ジェネレーション」を成功に導いた今最も最新作が期待される映画監督の一人となった彼の最新作として、「駄作」と言わざるをえない。  ハリウッドの超大作のしがらみに疲れた映画監督が、その鬱憤を晴らすかのように母国で自由に作った“悪ノリ”映画なのだと思う。 “ジョーク”として笑い飛ばす映画なのだろうし、そのブラックでキツいジョークの部分は確かに笑えた。 “悪ノリ”が過ぎる映画は、時に傑作になり得る。「キック・アス」はその顕著な例だろう。  でもね、悪ノリが過ぎるからと言って、ストーリーテリングそのものの雑さが許されるわけではないと思う。ストーリーが雑な映画は、当然ながら傑作にはなり得ず、きっぱり駄作だと思うのだ。  コリン・ファースの“退場”の仕方があまりに雑だったり、主人公が“キングスマン”として認められるための最終試験の顛末はおざなりだし、大体他のキングスマンは何をしているんだといったように諸々の設定があまりに大雑把で腑に落ちない。 主人公が裏切り者を出し抜くくだりや、そこから始まるクライマックスの“面白げ”な雰囲気も、引いて見てしまうと特段の新鮮味はなく、ただのマスターベーションに見えてしまう。  悪ノリの中で暗に国際的な批判精神を盛り込んでいるからこそ、ストーリーの些細な部分が引っかかってしまい、非常に気持ち悪かったのだと思う。  世間的には好評の様子でどうやら世界的にも大ヒットしているようなので、続編の製作は既に確定しているのだろう。 根本的な悪ノリ自体は決して嫌いではないので、次作はストーリー的にも練り込んだ問答無用の悪ノリスパイ映画に仕上げてほしいものだ。
[映画館(字幕)] 4点(2015-09-25 16:28:10)(良:1票)
23.  キングコング対ゴジラ
そりゃあ突っ込みどころは満載だし、キングコングの振る舞いをはじめとしてギャグシーンも多く、完全に“怪獣コメディ映画”と言いたくなる。 今作はシリーズ第三作目だが、1954年の第一作目に満ち溢れる恐怖と悲壮感からは、映画としての気質自体があまりに乖離しているように見える。 けれども、全編に渡ってつくり手の「愛情」を強く感じることが出来る。「娯楽」を真剣に作っているという気概に溢れている。 だからこそ、笑える映画ではあるけれど、決して馬鹿になんて出来ないし、製作から何年経っても楽しめる映画に仕上がっているのだと思う。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2015-05-17 23:05:34)(良:1票)
24.  きっと、うまくいく
誰しも、いくら普通に生きていたって、大なり小なり困難はつきまとう。 僕自身、瞬間的に生きていくのが嫌になるくらい些細な苦悩に苛まれることが多々ある。 そんな時、自分に唯一残された“手段”は、結局、「大丈夫だ、きっと、うまくいく」と己に言い聞かせることだけだ。 苦しいことも、楽しいことも、始まりがあるのだから、大抵の場合終わりがある。 自己暗示でもなんでも、「きっと、うまくいく」と言い聞かせて、今この瞬間を生き抜きさえすれば、大体の物事は解決しているものだ。  このインド映画のタイトルは一見浅はかに見えるし、紡ぎだされるストーリーもベタベタでご都合主義的だとも言えるが、それでも、「人生」って、結局そういうものだよなと思うことが、この幸福な映画には溢れている。  「多幸感」こそが、インド映画という文化が最も重要視する要素である。今作もその例に漏れず、愛すべき多幸感とそれに伴う娯楽性が満ちている。 ただそれと同時に、インド社会が持つ慢性的な“闇”もしっかりと背景として描き出している。 国家の発展のための学歴至上主義がもたらした社会的な圧迫感は、若者たちの自殺者を増大させた。 それは、インドに限らず世界中のあらゆる国々が、同様に抱える現代社会の病理だろう。  その原因となっている社会のしくみに対して、真っ向から異を唱える主人公は、その存在そのものがエンターテイメントであり、インドに限らず世界の“理想”を体現するものだった。 そんな主人公を中心にして描き出される笑いと涙の尽きない青春群像には、決して悲しみにばかり暮れることはないインド映画の心意気が表れていたと思う。  今この瞬間も、世界中、あらゆる国のあらゆる人々が、何かしらの問題で行き詰まっていることだろう。 でも、大丈夫。「うまーくいーく」と心のなかで唱えていれば、いつも間にか苦しい時間は過ぎ去っている。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2015-05-02 20:05:37)
25.  清須会議
ここ数年の“彼”の作品に対しては殆どすべてに共通して感じることだが、この小心者の劇作家は忙し過ぎるのだ。  数年前に原作小説が書店に並んだ時の期待感はよく覚えている。 三谷幸喜が描く時代劇、それも“会議もの”。「12人の優しい日本人」をはじめ、“密室劇”こそがこの劇作家の最も特異とする舞台設定であることは明らかで、ようやく三谷幸喜がそこに帰ってきたのかと喜んだ。 その時点で原作小説を読んでも良かったのだが、同時に映画化決定という報を聞き、我慢することにした。  そうして鑑賞。  題材自体は極めて面白いし、描き出そうとした人間描写とテーマ性も興味深い。 決して面白くない映画ではないと思う。 ただし、物語としての作劇が浅く、故に後に残るものがとても薄い。  辿り着いた結論としては、結局冒頭の一文に尽きる。 もっとしっかりと時間と労力をかけてストーリーテリングの作り込みに注力したなら、歴史的にも、人間的にも、深みが備わった喜劇に仕上がった筈だ。  過剰なほどに豪華なキャスティングが悪いとは言わない。 けれども、揃いも揃った豪勢な俳優陣を並べ立てたはいいものの、それに対してただ浮き足立つばかりで、目先の陳腐なコメディに走っていては、本末転倒もいいところ。 残念ながらこの劇作家には、これほどの豪華キャストを“監督”としてさばくだけの度量は見受けられない。 西田敏行や天海祐希をせっかく呼んだけど思ったよりも面白いシーンにならなかったから、カットしよう!くらいの剛胆さがなければ、このキャスティングが逆に勿体ない。  三谷幸喜は、監督業に早々に見切りを付けて、今一度“脚本家”としての原点回帰をしてみるべきだと改めて思う。  そして、西村雅彦、梶原善、相島一之ら劇団時代からのメンバーで再構成された舞台版「清須会議」が観てみたい。 あ、大泉洋はTEAM NACSからの“客演”として秀吉役を続投で良いよ。
[CS・衛星(邦画)] 5点(2014-11-12 21:41:00)(良:2票)
26.  96時間 リベンジ 《ネタバレ》 
“超神経質最恐親父活劇”第二弾。 完全な二番煎じではあるが、前作が生み出したオリジナリティは継承されており、その部分の娯楽性だけは評価できるし、アクション映画はそういう娯楽要素があればそれでいいとも言える。  そのオリジナリティとは、もちろんリーアム・ニーソン演じる主人公の“親父(元CIA)”の超絶なキャラクター性に他ならない。 愛娘の運転練習のために迎えに行くという日常から、その超神経質な精神は張りつめられ、ただ一カ所のウィンドウのくもりも、一秒の遅刻も許さない彼のスタンスは、明らかに「異常」と言ってしまっていい。 ただし、その途切れることが無い危機管理意識が、「危険」との邂逅の瞬間に何の迷いも無く発動され、ピンチを乗り越えてゆく。  突如巻き起こった危機に、本来何の事前準備も無い状態から、どう対処し、どう回避していくかということをつぶさに映し出す描写こそが、このシリーズのハイライトであり、クライマックスで悪を駆逐しく様自体は、はっきり言って“おまけ”と言ってしまっていい。  そういうある意味割り切った構成が今作のオリジナリティである一方で、やはり”それだけ”という希薄さが残ることも事実ではある。 特にこの第二作については、登場する悪党の規模も前作に対して明らかにトーンダウンしてしまっているので、終盤に欠けての迫力の無さは欠陥と言わざるを得ない。  前作から引きずった“憎しみの螺旋”を結局断ち切れぬまま、映画は軽薄なハッピーエンドを迎える始末。 もしかして、今度は“孫”まで登場させる第三弾を目論んでるんじゃあるまいな……。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2014-08-17 22:35:49)
27.  キック・アス ジャスティス・フォーエバー
衝撃の問題作でありながら、その類い稀なエンターテイメント性を世界中が“スルー不可避”だった前作「キック・アス」。 その待ちに待った続編に対しては、当然誰しもが、4年前の衝撃の再熱を期待しただろう。  前作で一躍若手女優のトップスターとなったクロエ嬢をはじめ、主要キャストをきちんと再結集させ、ジム・キャリー、ジョン・レグイザモら魅力的な新キャストを揃え、体制は万全だったと言える。 おそらく、前作の“二番煎じ”をすれば、大多数の観客は分かりやすく再び熱狂しただろう。  が、前作監督のマシュー・ボーンの後を引き継いだジェフ・ワドロウなる無名監督は、果敢にもその「既定路線」をハズしにかかった。 もしかすると、この続編に対して、前作ファンの多くは「愚かな」と否定するのかもしれない。自分自身、呆気にとられた感は否めない。  けれど、結果として大多数に受け入れられるか否かは別にして、この無名監督の挑戦(暴挙)は正しかったと思う。 別の言い方をすると、この「キック・アス」という映画素材において、「既定路線」と辿ることこそが愚かなことであり、どんな形であれ観客の思惑をハズしてなんぼということなのだと思えてならない。  前作の奇跡的な娯楽性に対してこの続編が遠く及ばないことは否定しない。 ただし、前作があってこそ描き出された今作であり、この映画世界が抱える本質的な魂みたいなものは決してハズレていない。ならば「続編」としてこれほど相応しい作品もないのではないかと思える。  詰めれば詰めるほど粗だらけの映画であることは間違いないし、そもそもこの映画の製作陣は“真っ当”に作ろうとなんて端からしていない。完全に独りよがりだったとしても、ただただ自分たちが作りたい(見たい)モノの構築に没頭している。  ならば観客は、前作の余韻を引きずりながら、前作にも増して歪な映画世界の中で再度クロエ・グレース・モレッツの「支配力」にただひたすらにうつつを抜かす。 それがこの映画の正しい鑑賞のしかただ。   ただし!ジム・キャリーの使い方はあまりに勿体なかった……。
[映画館(字幕)] 7点(2014-07-06 13:17:27)
28.  キャプテン・フィリップス
あらゆる側面において、真っ当な映画だったと思う。  実話を元に描いているとはいえ、これほどまでに徹底的に描くべきことをきちんと描ける映画はそれ程多くない。    先ずはこの映画の主演にトム・ハンクスをキャスティングした真っ当さ。  ヒーロー役が似合う華やかなスター俳優などを起用してしまったならば、分かりやすい娯楽性は高まるだろうが、この映画が求めるべきリアリティは著しく損なわれてしまったことだろう。 (勿論、この名優に華がないというわけではない) 絶体絶命の危機の中で、この主人公が見せるリーダーシップと勇気と智恵、そして執拗に突きつけられる恐怖感、そういったものを決して大袈裟すぎない絶妙なバランスで表現できる俳優は、やはりトム・ハンクスを置いて他にいなかったろうと思う。    次にソマリア海賊を演じた無名俳優たちのリアリティを追求した真っ当さ。  本当にソマリア出身の人材を見出し、主要キャストに配したことは、この映画の類い稀な説得力と成り得ている。  特に海賊側のリーダーを演じたバーカッド・アブディの存在感は抜群だった。風貌から喋り方に至るまで、映画におけるその支配力は時に名優トム・ハンクスをも凌駕していたと思う。    そして、ポール・グリーンダグラス監督による演出の真っ当さ。  元々、抑制の利いたリアルな描写が巧い監督ではあるが、今作でもその演出力は際立っている。  もっとエンターテイメントに走ったり、船長と海賊両者のバッググラウンドをドラマティックに描き出すことも容易だった筈だ。  しかしそれをせず、ひたすらに実際に起こったであろう描写のみを連ねた構成は、映画として極めて潔く、特筆すべき緊迫感を終始観る者に与え続ける。    その潔さは、今この瞬間も起こり得ている事実を描いているということへの責任と覚悟の表れだと思える。  無政府状態のソマリア、世界中の人々に荒らされた漁場、行き場を失った漁民たち……。  劣悪な環境の中で叩き起こされ、“彼ら”は海賊行為に駆り出される。  最初から彼らに「後退」という選択肢は無かったのだろう。  勿論、海賊行為を続ける彼らに対して肯定も同情もするつもりはない。    ただ、米国海軍の圧倒的な兵力の前に、完全敗北を喫した海賊のリーダーからは、茫然自失の中に一寸の安堵感が垣間見えた気がした。 
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2014-03-21 09:21:29)(良:1票)
29.  キャリー(1976)
無類の“ホラー映画嫌い”なので、映画史上に残る超有名作品でありながら、ずうっと敬遠してきた作品の一つだった。 ただ、三十路を越えていい大人の映画ファンが、「怖い」からといって問答無用に毛嫌いするのもいかがなものかと思い始めていた。 そんな折、劇場で間もなく公開されるリメイク版の予告を観て、ちょっと気になったので、今作のジャケットを“初めて”手に取った。 「あー主演はシシー・スペイセクなんだ」とか「え、デ・パルマ監督作なの!?」と、おおよそ映画ファンらしくない無知ぶりを露呈しつつ、初鑑賞に至った。  率直な感想としてまず感じたことは、「これはホラー映画なのか?」という疑問。 恐ろしい部分は確かに恐ろしいけれど、それよりも哀しい少女の哀しい青春映画ということに対してのインパクトの方がずっと大きかった。  ただ普通でいたかった少女が、あらゆる不遇の中でもがき苦しみ、ほんの一瞬垣間見た光の眩い美しさと、即座に閉ざされる果てしない悲劇。 「恐怖」によるインパクトはあくまで装飾的なものであり、主人公の少女のめくるめく悲哀に胸が締め付けられたことは、本当に想定外のことだった。  その映画世界にはやはり巨匠ブライアン・デ・パルマ監督の多彩なカメラワークによる映画術が光る。 おぞましい場面はどこまでもおぞましく、一転して美しい場面はどこまでも美しい。 その映像的なギャップは、少女の心象風景そのものをまさに映し出していて、「流石」の一言に尽きる。  そして何と言っても主人公“キャリー”を演じたシシー・スペイセクが素晴らしい。 不遇の鬱積にまみれた序盤の姿では、大衆から拒絶されるにある意味相応しい“歪さ”をこの上なく体現し、一転、光を追い求め彼女の人生における最高の「舞台」に駆け上がる姿は、目を疑う美しさに溢れている。 そしてクライマックスにおける“悲劇的大解放”に伴う怒りと憎しみと豚の血にまみれたあの姿!  映画としては、展開的に唐突で説明不足な部分は多々あるのだけれど、この主演女優の奇跡的な表現力が、そのすべてを打ち消しているとさえ思えた。  どの映画も突き詰めればそうなのだろうけれど、この映画は特にどういう「解釈」をするかどうかで賛否は大いに分かれる作品だと思う。 また数多の知識を踏まえて繰り返し観る程に、その解釈に深みが生まれ、味わい深くなる作品だとも思う。
[DVD(字幕)] 8点(2013-10-31 00:22:24)
30.  凶悪
恐ろしい映画だったと思う。  自分はこの映画に登場する“彼ら”ではなく、“彼ら”に関わった人間でもないという無意識の立ち位置による屈折した「愉悦」を知らぬ間に敷き詰め、この映画に「娯楽」を感じている自分の意識に気付いたとき、この映画の「凶悪」というタイトルの真意を垣間見た気がし、ゾッとした。  描かれる事件と犯罪が「真実」であることを念頭において観ているわけだから、映し出される凄惨な描写に対して「痛み」や「悲しみ」を感じなければならないという“建前”を意識しているにも関わらず、ピエール瀧(=須藤)の爆発的な残虐性に何故か高揚し、リリー・フランキー(=先生)のおぞましいまでの狂気に引き込まれてしまう。 実在の被害者に対して後ろめたい気持ちを多分に感じつつも、描きつけられる「凶悪」が次に何を見せるのか、どこか期待をしてしまい、その都度「不謹慎」という言葉をぬぐい去ることに苦労した。  「あなた こんな狂った事件追っかけて 楽しかったんでしょう?」  終盤、主人公の妻のこの台詞により自分の中で見え隠れしていた感情が突如丸裸にされる。 見て見ぬ振りをしていた自分自身の深層心理がふいに明るみに放り出されたような気がして、主人公と同様に「やめろ!」と叫びたくなった。  「映画」である以上、いくらノンフィクションが原作だとはいえ、脚色されている部分は大いにあるだろう。 ピエール瀧が度々発する「ぶっこんじゃお」というあまりに印象的な台詞や、リリー・フランキーの脱帽するしかない「怪演」など、映画的な面白さが加味されている要素は多く、それはまさにこの作品が映画として優れている点でもあると思う。 俳優たちの表現はことごとく素晴らしい。一つ一つのシーンも綿密な計算と明確な意思をもって構築されており、見事だったと思う。  ただ敢えて苦言を呈するならば、もう少し「編集」の巧さがあれば、同様の深いテーマを孕んだまま、もっと“面白い”映画に仕上がっていたようにも思う。 もし同じ題材で、というかこの監督と俳優が撮った同じ映像素材を、世界的な映画巧者が編集したならば、例えばアカデミー賞をも席巻するような名実ともに質の高い映画になりそうな気さえする。  ま、そんなのは一映画ファンの身勝手な妄想であり、実際どうでもいいことだ。 こういう本当の意味で骨太な映画が、もっと沢山国内で製作されることを願いたい。
[映画館(邦画)] 8点(2013-10-29 00:26:27)
31.  巨神兵東京に現わる 劇場版
「特撮」という“業”は、「破壊」の為にあると言っていい。 それは即ち、人間に唯一許された“神の真似事”と言ってもいい。  その真理において、“この題材”を「特撮」で描いたことは、まさに正しい。   「創造」とそれに伴う「破壊」に総毛立った。以上。
[映画館(邦画)] 7点(2013-05-28 23:40:44)(良:1票)
32.  金融腐蝕列島[呪縛]
大手銀行の経営崩壊危機、それに伴う日本経済の混乱、日々のニュースのトピックスでそういった言葉が乱れ飛んでいても、小さな一般市民にとっては、事の重大さの意味は理解出来ても、どこか別世界の出来事のように思えてしまうのが実情。 でも、それらを司る金融機関の職に就いている人々も、当然ながら小さな一般市民である。 この映画はその彼らを中央に据えて描き出す事によって、金融危機は常に社会の中心にあり、その影響は極めて身近なところに存在するということを訴えてくる。  経営崩壊危機からの脱却・再出発を図る大銀行の内情をつぶさに描き、一級のエンターテイメントに仕上げることに成功している。 実力派キャストを揃えた群像劇には、今作にも出演している仲代達矢、丹波哲郎らがメインキャストとして常に顔を揃えていた時代の日本映画にあった“熱量”を彷彿とさせるものがあった。 そこに役所広司の安定感や椎名桔平のギラギラ感等が加味され、「芝居」としての見応えが溢れていたと思う。  明らかに意図的だったと思うが、時に過剰なまでに仰々しい台詞回しや俳優の動きの付け方にも、見栄え的には極めて地味になってしまいがちな題材を「娯楽」として見せようとする「工夫」が感じられ、原田眞人監督の演出の冴えを感じた。この人は、こういう社会派ドラマを撮らせると本当に巧い。  断ち切れたかに見えた「呪縛」の闇の深さを漂わせるラストシーン。 すみやかに晴れ渡っているように見える空に、突如として不穏さを感じる。その空はそのまま現実社会に繋がっていることを暗示させ、恐ろしい。   P.S.椎名桔平の存在がいいスパイスとして効いていたと思う。ラストの“開き直り”は最高。 個人的には「アウトレイジ」の役柄と人間的な部分で通じるものを感じた。 もしかして彼は、あのまま身を落とし、「大友組」に拾われたんじゃないだろうな……。
[インターネット(字幕)] 7点(2013-05-13 21:41:50)
33.  キャビン
「面白かった」 映画を観た感想を表現する言葉は様々だろうが、もっとも単純で且つもっとも重要なことは、鑑賞直後にこの一言が頭に浮かぶかどうかだろうと思う。 観る者を、“恐怖”に直結した好奇心でまず掴み、数多の映画を観てきた者でさえ想像し難い“驚き”をもって揺さぶり、未体験の“高揚感”で包み込んで、爆発させる。 映画としての「粗」はありまくる。しかし、この映画の新しさは、そのすべてを一蹴し、「見事」の一言に尽きる。  「ホラー映画」の定石。そのお決まりのベタさに、そうでなければならない「理由」があったとしたら? そのアイデアを具現化し、問答無用の娯楽映画として貫き通した時点で、この映画の勝利は確定したと言っていい。  滅茶苦茶な映画ではあるけれど、ちゃんと真剣に滅茶苦茶なので完成度が高い。 この映画はそういう類いの作品で、どれくらい“本気”でこの「設定」を受け入れられるかどうかで、“是非”の判別は大きく揺れ動くことだろう。 “非”と判別する人も多いのかもしれないが、それは非常に不幸な事だと思わざるを得ない。 ストーリーの根底にある一つの「設定」を受け入れ、「そういうことならば仕方がない」と認識すれば、強引に思える数々の描写のすべてがきちんとまかり通るように出来ている。  極めて強引な映画ではあるけれど、強引な設定をしっかりと強引に引っ張り上げることで、ちゃんと整合性を付加していると思う。 例えば、一見するとあまりに非人道的でふざけすぎていると思えるある人間たちの描写も、諸々の設定と彼らが置かれている立場を冷静に鑑みれば、その心情と言動にも整合性が見えてくる。  そういう意味では、この映画は“アイデア一発”のように見えて、非常に練られたシノプスが魅力的な作品であることが分かる。  詰まるところ、要はノレるかノレないか。 そして、大概の場合、映画なんてものはノッたもん勝ち。
[映画館(字幕)] 9点(2013-04-24 16:41:11)(良:2票)
34.  キリング・ショット
ブルース・ウィリスの意味深な台詞回によるファーストカット、郊外のドライブインでの軽妙っぽいガールズトークから突如始まる銃撃戦、静止画によるキャラクター名表示に、時間軸を行ったり来たりする場面転換……etc。 冒頭から立て続けて映し出されるそれらの要素に対して、「あーハイハイ、“彼”のような映画にしたいのね」と苦笑いが出るのに時間はかからなかった。 “彼”とはもちろん、“クエンティン・タランティーノ”である。  不思議なもので、明らかに“タランティーノっぽい”映画づくりになっているのに、そう思わせるシーンが登場する度に何だか「ダサい」と感じずにはいられなかった。 真似はどこまでいっても真似だし、クエンティン・タランティーノ以上の映画オタクでない限り、いくら真似たところであの世界観は導き出せないということだろう。 元も子もないことを言ってしまえば、タランティーノ映画はタランティーノにしか作れないという至極当たり前な結論を痛感してしまった。 クエンティン・タランティーノの映画を全く見たことがない人ならば、それなりに楽しめるのかもしれないが、“オリジナル”を経てきている以上、この映画は決して褒められたものではない。  何やらミステリアスな真相を秘めたようにストーリーは展開していくが、蓋を開けてみれば中身は空っぽに近く、雰囲気だけで切羽詰まった感を強引に出しているに過ぎなかった。 キャラクター描写も今ひとつ中途半端で、マリン・アッカーマン演じる主人公は映画内の設定程美人に見えないし、アカデミー賞俳優フォレスト・ウィッテカーが演じる殺し屋は「狂気」が空回りしていてただの馬鹿みたいに見えた。  パッケージに大写しになっているブルース・ウィリスに関しては、ある程度予想はしていたが、“キーパーソン”という肩書きの完全な脇役。 この人は相変わらず小金稼ぎが上手い大物俳優だと思う。こういうしょうもない映画にも出るし、脇役も端役も厭わない一方で、話題の大作映画にも主演し続ける。さらには日本のCMにも顔を出すのだから、本当に俳優としての商魂が逞しい。
[ブルーレイ(字幕)] 4点(2012-11-29 23:06:58)(良:1票)
35.  恐怖の報酬(1953)
大量のニトログリセリンを荷台に積んで悪路を延々運転する主人公に、同乗する相棒が言う「2000ドルは運転の報酬だけではない、恐怖に対する報酬でもあるのだ」と。 それはまさにその通りで、後半の主人公は年老いて恐怖におののく相棒を罵倒し続け、「お荷物だ」と悪態をつくが、もし一人であれば到底この任務を全う出来る筈はなく、早々に逃げ出していたことだろう。 そういう極限状態の中で左右される人間の心理が、巧みな演出の中に盛り込まれた映画だったと思う。  有名な映画なので、タイトルはもちろん「ニトログリセリンを運ぶ」という大体のプロットも認知していた。 そのことも影響したのか、主人公たちが置かれている環境と人間関係をつぶさに描いた導入部分は、少々冗長に感じてしまい、「いつニトロが出てくるんだ?」と間延びしてしまった印象は否めない。 序盤の人間模様が不要だとは思わないが、このストーリーで約150分の尺はやはり長過ぎると思えた。 “オチ”をああするのであれば、もっとシンプルな構成にした方が、「恐怖」とそれに伴う人間の心理が際立ち、映画としての娯楽性が高まったのではないかと思う。  ただ、繰り返しに成るが、中盤以降の演出は極めて巧みだ。 度重なるハプニングがバランスよく配置され、ニトログリセリンを運搬するトラックを二台描き出すことにより、どちらがいつ危機を迎えるのかという緊張感が効果的に持続された。 決して主人公のみをヒーロー的に描き出すのではなく、運搬にあたる4人それぞれの人間性をしっかりと描き、彼らが陥っている生活環境と、非人道的ですらある危険任務に自ら身を捧げざるを得なかった状況が、ドラマの中にきちんと盛り込まれていた。  最大の危険を乗り越え、一服しようとした瞬間、フッと巻き煙草が飛び散る。的を得た非常に良い演出だったと思う。 大ラスの言葉の通りの“オチ”については賛否が分かれるところだろう。実際、思わず呆気にとられてしまった。 しかし、この作品がフランス映画あることを思い出すと、ある意味「真っ当」な顛末のようにも思えた。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2012-11-09 16:01:10)
36.  木更津キャッツアイ 日本シリーズ
正直、木更津のノリで2時間は長い!ドラマの段階からストーリーなんてあってないようなものなのだから、映画として120分ぶっ続けってのはキツいものがあるのは否めない。ただそれでも最後まで見せてしまう。それこそこの「木更津キャッツアイ」という奇異なエンターテイメントの奇跡なのかもしれない。もはや惰性的なノリだけで押し通す映画、そんなものがあってもいいのかなあ……。
[DVD(邦画)] 3点(2012-10-10 23:07:55)
37.  桐島、部活やめるってよ
上映が終わり手洗いに行った。鏡にうつる自分の顔をまじまじと見て、「老けたな」と思った。 そりゃそうだ。三十路を越え、結婚をし子供までいるんだから、ついさっきまでスクリーンいっぱいに映し出されていた高校生たちの“若さ”が、今の自分にあるわけはない。 あるわけないのだけれど、入り乱れる彼らの思いは、もはやうすぼんやりとし始めている記憶の甦りと共に、自分の感情の中に入り込み身につまされた。  きっと誰しもが、この映画に映り込む高校生たちの“誰か”と同じ“立ち位置”で、生活をしていたはずだ。 それが誰であったかなんて事は重要ではない。重要なことは、誰しもが「高校」という奇妙な「階級社会」においていつの間にか与えられた立ち位置で、もがきながら生きたということであろう。  高校生は大変だ。時に過酷なまでに。 それに対して一部の大人は、「実社会の荒波の厳しさ」を安直に強調するのかもしれない。 しかし、そんなものは比較の対象にはならない。 限られた経験値、限られた世界の中で、盲目的に自己を顕示し、また抑え込む。それをひたすらに繰り返し、葛藤を繰り返す。 それは先が見えない暗がりを、時に孤独に、時に手を取り合い歩んでいくようでもある。  でも、だからこそそこには、何にも代え難い輝きが存在する。 葛藤の果てに、「こいつら全部食い殺せ!」と高らかに言い放った映画オタクの主人公は、結果として何かを得たわけではない。 しかし、何も選び取れずフラフラと自分の成すべきことを定めきれずにいた幽霊野球部員は、逆光を背にした映画オタクが眩しくて直視できなかった。  それは、高校特有の歪なヒエラルキーが生み出した「光」だったのか「影」だったのか。  人それぞれ、誰に感情を移入するかで、この青春映画の「感触」は大いに異なるのだろうと思う。 面白いと思えるかどうかも、実際人それぞれだろうし、それでいいと思う。 ただ、きっと多くの人が、この映画を観て、自らのあの“限られた世界”で過ごした日々のことを思うだろう。 それだけで、この作品は青春映画として明らかな傑作と言える。
[映画館(邦画)] 10点(2012-09-15 11:15:27)(良:5票)
38.  銀河ヒッチハイク・ガイド(2005)
「天地創造」の真理に何の変哲も無い“一般ピープル”が触れるという物語の設定は、藤子・F・不二雄のSF短編漫画を彷彿とさせる。 惑星の崩壊と再生という大スペクタクルが、SF的観点と哲学的思想を巡り巡って、一人の男の言動に集約されるという顛末は、個人的に非常に興味をそそられる題材で、知らず知らずに異様な映画世界に引き込まれていた。  レンタルショップをぶらりと巡って、タイトルを聞いたことも無かった今作を、製作年も誰が出演しているかも確かめぬまま、“衝動借り”した。 「ロスト・イン・スペース」的なスペース・コメディものだという認識で観始めて、概ねその想定は外れてはいなかったが、想像以上にシュールな展開には少々面食らった。 馴染み難い異質なコメディが怒濤の如く羅列されるため、序盤から中盤に至るまで、映画の世界観に入りきれなかった部分があることは否めない。 ノリ自体は嫌いではないが、この映画が伝える“真理”が掴みきれず、戸惑ってしまったというのが正直なところだろう。  しかし、壮大な宇宙哲学的な要素を踏まえて、ストーリーが想定に反して次第にディープに深まってくいくのを目の当たりにして、この映画の存在性そのものに対して興味が深まってきた。 何がどう導き出されるのかということにようやく焦点が定まり、「結論」に至るまで映画世界を堪能することが出来た。  大いなる宇宙意思の中であまりに小さい生命体が無数に存在していて、すべての生命体の行く末はその宇宙意思に委ねられているように見える。けれど、突き詰めてみれば、結局は或る一つの生命体の意思によって宇宙意思そのものの行方が変わっていくという無限のロジック。 即ち、その「問い」に「答え」などは存在せず、「問い」と「答え」のどちらが先かも定かにはならない。 ただ、だからこそどんなに小さな生命体であっても生存していく“意味”があって、その事実こそが最も素晴らしいことだという…………。  多分に独りよがりな要素や、“テキトー”で“チープ”な部分も多い映画だった。 でも、そういう永遠に答えが出ないことをつらつらと頭の片隅で考えつつ、生きていく事自体がほんの少し楽しくなるという、へんてこりんな映画であることは間違いないと思う。
[ブルーレイ(字幕)] 7点(2012-05-15 00:16:53)(良:2票)
39.  Q&A
「巨悪」に立ち向かう正義感溢れる若手検事が主人公。彼が巨悪を打倒し、正義を証明することに結する映画かと思ったが、そうではなかった。 自分が対峙する巨悪が、「支配者」であり、自分自身が巨大な“仕組み”の中の些細な“パーツ”であったことを叩き付けられ、無力さに打ちのめされる様を描いたドラマだった。 当然、そこにカタルシスは生じないが、シドニー・ルメット監督らしい社会の裏側を描いたドラマ性は興味深かった。  最大の見所はニック・ノルティ。モンスター的な悪徳刑事を言葉の通りに「怪演」していた。 彼の存在感が強すぎて、殊更に主人公のキャラクター性が希薄に映ってしまったことも否めない。主人公を演じる俳優にもっと厚みがあれば、悪徳刑事との構図がもっと明確になり、映画自体に深みが出たと思えた。  世の中を動かしているものは決して正義だけではない。たぶん多くの人が、そのことを“見て見ぬふり”をしているのだろう。 “見て見ぬふり”が、悪いことなのか、正しいことなのかさえも実際よく分からない。 手放しに面白い映画だとは言い難いが、そういう社会全体が抱えるジレンマの一側面を描いた作品だとは思う。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2011-11-05 21:27:51)
40.  キック・アス
数ヶ月前、某ニュースサイトのトピックスで、今作に主演した御年13歳の女優が注目の的に挙げらていた。 記事に掲載されていた本人画像を見て、「これ、ほんとに13歳か?」と、あまりに魅惑的な表情に唖然としてしまった。  それが、この映画の“スーパーヒロイン”を演じたクロエ・グレース・モレッツだ。  撮影当時は11歳の彼女が、放送禁止用語を連発しながら、悪党を次々に“虐殺”していく。 極端な娯楽映画であることは重々認識していながら、ほんとうに久しぶりに、「これは教育的によくない映画だなあ」心底思いながら、終止ほくそ笑み続けた映画だった。  アメコミのヒーロー映画は大好きで、散々観てきた。きっと、この映画の製作陣も、アメコミが大好きで、数多のヒーロー映画を心からリスペクトしているのだろうと思う。 そういうことを踏まえて、敢えて言いたい。  「サイコーに面白いヒーロー映画だ!」と。   冴えないオタク学生が、マスターベーション的ヒーローと成ることからストーリーは転じ始める。 実際、その“テイスト”だけでも充分にコメディ映画としては面白い。 “彼=キック・アス”を単独の主役として貫き通したとしても、娯楽映画として確実に評価に値する作品に仕上がっていたことだろう。  ただ、この映画が一筋縄ではいかないのは、前述の“11歳のスーパーヒロイン”の存在に他ならない。 主人公“キック・アス”の存在が、クロエ・モレッツが演じる”ヒット・ガール”と、ニコラス・ケイジ演じる“ビッグ・ダディ”のコンビを引き立たせるための“前フリ”となった時点で、映画は劇的に加速していく。    そして、最終的にはしっかりと“主人公”を活躍させてくれるという、分かりきった“くすぐり”が、問答無用にテンションを高揚させてくれて、深夜にも関わらず、馬鹿笑いが止まらなかった……。  「バットマン」をはじめとする“ヒーロー映画”のパロディに端を発している映画であることは間違いないが、その範疇をひょいっと越えた、唯一無二の娯楽性を携えたオリジナリティ溢れる“ヒーロー映画”の誕生だと思う。   P.S. そして、13歳の時に出演した「レオン」で一躍スターダムにのし上がったナタリー・ポートマンが、アカデミー賞主演女優賞を受賞したこのタイミングだからこそ、 クロエ・グレース・モレッツの、女優としての将来性には期待せずにはいられない。
[ブルーレイ(字幕)] 9点(2011-03-20 01:23:50)(良:1票)
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