181. PTU
《ネタバレ》 すべての登場人物がコソコソと何かしている話。誰もが自分のプランだけはコソッと済まそうと思っていたのに、とんでもない殺し合いになってしまってうわー、というラスト。 マーの殺害場面しかり、こういう一瞬で勝負するタイプの作品は、集中して画面を凝視しなければ途端にわからなくなるため、このごろ苦手です。疲れます。あ、夏だからバテているし。 これがもし2時間あったら、休憩入れないとキツいなあ、と思う。 なんというか、バラエティに富んだ拷問方法をこれでもかと見せられた感じがする。どいつもこいつも他人をいたぶるが、ハゲが息子の仲間を丸刈り裸にして極小の檻に閉じ込めていたのが最もキツかった。何か「西太后」を思いだす。中国四千年の歴史である。 ダメ刑事のサアが偶然から命拾いし、冷徹な美人警部は一発も撃てずに車の中でもだえているだけという皮肉な最後。誰の側にも立たないニュートラルさ。 拷問シーンが苦手な人を除けば一度は見て損は無い作品。あっ私は拷問苦手だった。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2008-08-11 12:37:03) |
182. ディープ・ブルー(2003)
《ネタバレ》 上から下から同時撮影してみたり、暑さ寒さに負けず非常に手間のかかった映像なのだと思うが、小学3年の姪は1時間経たないうちに飽きてしまった。ちなみにその凝りまくった回転する小魚タワーとかのあたりで。 確かにすごい、よく撮れた!の貴重映像満載なのであろうが、「すごい!」だけで一時間半もたすのは大人でも難しいなあと思った。 思うに、作品としてのどのような方向性を持っているのかが中途半端なのでは。 「これだけの映像美および技術を解する観客に評価してもらえればそれでよいという硬派」なのか、「観客を選ばずよりたくさんの人に見て欲しい」なのか「子供が喜べばそれでよい」なのか、どれともつかない。また、「温暖化なんたら」で終わるラストは説教くささを露呈し、純粋に映画を楽しみたくて金を払った客をバカにしている。 今「アース」を見せているが、そちらはほぼ無事に見終えることになりそうだ。 [CS・衛星(字幕)] 5点(2008-08-11 12:16:42) |
183. 善き人のためのソナタ
《ネタバレ》 ヴィースラー大尉はおそるべき無私生活者で、家族もなく、その住み家も生活感のないホテルのような部屋だった。唯一の趣味は仕事、規律に従うことを何より重んじ、曲がったことが許せない。そんな彼の生きがいは他人の嘘を暴くこと。嘘を暴き、秘密を告白させることすなわち他人に勝利する瞬間である。そうしてヴィースラーは他人に勝ち続けているので、私生活が無くても精神の均衡を保てた。 けれどドライマンの盗聴という、他人との直接対決無しでの秘密の収集作業は、ヴィースラーの精神状態をおびやかした。盗聴によって秘密を知りえても、彼には勝利の味も達成感も他人を組み敷いた優越感も感じられなかった。彼は尋問によって喜びを得る人間として成立していたため、盗聴向きの人間ではなかった。 子供とボール遊びをし、美人女優を恋人にし、誕生日にはパーティーに人が集まり、友人たちの心配をし、気が向けばピアノを弾く。そんなドライマンの生活と、暗い屋根裏で盗聴機器に囲まれ何時間も過ごしたうえ、誰も居ない無機質な部屋に帰りデブな売春婦(しかもショートタイム)しか相手にしてくれないヴィースラーの対比が見事である。二人は陰と陽。光と影。 私の解釈では、ヴィースラーは政治的に共感したというよりはドライマンたちを家族のように感じ、彼らの一部として関わってみたくなったのである。 その序章として、バーに入ってきたクリスタに話しかけてしまう。ドライマンの代わりに忠告してしまう。あげくは彼らの代わりにタイプライターを隠すところまでエスカレートする。 私はヴィースラーのとった行動を、レジスタンスを助けたというようないわゆる「いい話」レベルには考えたくない。これはもっと、純粋に個人的な問題なのだ。 ドライマンがヴィースラーを問い質したとて、彼は決して真実を語らなかったと思う。だからあのようなやり方で謝意を示したことは、リアリティにこだわる意味でも映画のしめくくりとしても最良であった。 ひとつ残念なのは女性の扱いで、女性はクリスタしか出てこないというのに彼女は薬物依存で他の男とも寝るうえ、最後は秘密を暴露して恋人を窮地に陥れるという、甚だ情けない人物としてしかも死んでしまうというところ。それならばー、せめてもう一人、頼りになるマトモな女性を出して比較させるべき。「だから女は信用できない」死んで償え、で終わるのは納得いかない気がするぞ。 [DVD(字幕)] 8点(2008-07-28 19:23:38)(良:2票) |
184. ゾディアック(2007)
《ネタバレ》 ゾディアック事件は、未解決であるゆえに犯人が過大評価され、完全犯罪をやってのけた知能犯のように思われているけれど実はそうではないよ。というような方向性はうっすら感じられる。フィンチャーが観客を、特にアメリカ人の観客を導きたいのはそこらへんなのではないか。 真犯人を指し示すのではなくて、犯罪の事実をできるだけ正確に提示したのち、なにゆえ未解決に至ったのかをねっとりと説いていくというスタイルである。解決を目指すのではなくて、未解決になった理由を明らかにしたいように見える。犯人のプロファイリングは全くせず、容疑者の生い立ちなどの背景は全く無視し、えんえんと「ダメだった歴史」を時間に沿って説明していく。暦日が示されるたびに、時間だけが空疎に過ぎていることを知らされる。どこに行っても警察の捜査のお粗末さに突き当たる。 「コイツなんのために居るんだろ」といぶかしく感じられたグレイスミスが、散らばった情報のまとめ役として後半から機能しはじめるあたりは、うまい演出だ。 フィンチャーの望みはたぶん、自分の生きているうちに犯人の関係者が名乗りをあげ、事実が明らかにされた際にこの映画の存在意義があらためて認められることなんだろう。今すぐに得られる興行的な見返りを期待しているわけではないのだたぶん。 いろんな意味でアメリカは何が起こるかわからない国なので(大統領は世界一殺されやすいうえ絶対バレないと思った不倫相手が裏切ったりするし、イラクで囚人を虐待した兵士が後で後悔してマスコミを呼んで告白したりするし)、ゾディアックの関係者が金欲しさもしくは他の理由で真相を語る可能性はあると私は思っている。ただし、それにはまだ時間がかかるだろう。関係者がだいたい死んで世代交代が行われた後に期待したい。ただしフィンチャーも死んでる可能性大。 [DVD(字幕)] 5点(2008-07-27 16:26:19) |
185. サルバドールの朝
《ネタバレ》 これはとてもバランスの悪い作品ですね。 冒頭のクレジットに「圧制と闘った青年の実話」という決意表明がされているし、ラストのクレジットでも同様に「サルバはフランコ独裁政権下の犠牲者」という扱いになっています。作り手はサルバドールをヒーロー扱いしているはずなのです。 ところが、本編に入ると、サルバのやっていることは武装した銀行強盗ですね。銃で人を脅かしてお金を奪い取るという普通の犯罪だ。これは普通の青年である彼らには銃が無ければ絶対に不可能な行動ですが、銃を手に入れたことによって、いきなり不可能が可能になってしまう。そのことによって、彼らに無意味な全能感が生じていく様子がシビアに描かれている。 フランコがひどいので闘って倒そう→闘うには武器と軍資金が必要→フランコを倒すためなら強盗してもかまわない→俺たちの銀行強盗は犯罪ではなくレジスタンス、という、当時日本にもよくあったような論理でサルバ青年たちは行動していました。 サルバは死亡した警官について、最後まで何のコメントもしません。5~6発当たった中に、自分の撃った2発が入っていたかどうか、それが致命傷になったかどうか、全く気にしない。「ただ逃げたかったから撃っただけさ」というサラっとした言葉しか、彼の中には存在しない。その警官に家族が居たのかどうか、聞きもしない。 サルバは無実の罪で死刑になると思っている。…そうなんでしょうか。 無実というのは冤罪のことをいうのではないのか?それともサルバの銃弾が当たっていない場合のことを無実というのか?なんだか私にはこの映画の作り手のポリシーも、サルバや家族たちのポリシーも、はっきりいって理解できない。 サルバに罪の意識はゼロ、自分の家族の心配ばかりして、死亡した警官のことは無視、刑務所での態度は一貫して生意気。いつも人を見下した態度でいる。自分に同情してくれた刑務官にさえ、同等以上の態度を取り続ける。…私には単なる生意気なお坊ちゃんにしか見えないのだが。レジスタンスのヒーローとは思えないのだが。 フランコ独裁下のスペインを経験した人なら、サルバがヒーローに見えるのだろうか。私にはわからないが、前後のクレジットを見る限りでは、作り手はそのつもりで公開したんだろうなあ。極東日本で見るぶんにはドジった銀行強盗にしか見えないが。 [DVD(字幕)] 5点(2008-07-23 11:34:11)(良:2票) |
186. ダイ・ハード4.0
《ネタバレ》 脚本がダメなところにもって、ワイズマンという若手監督の未熟さが露呈してしまったというか…。 FBIやNSAが全くの無力でなんにもしないところとか(だいたいトップがアラブ系アメリカ人だなんてあるわけないじゃん)、強引に娘人質エピソードに持ち込んだり、これだけの労力を投入した犯人の動機が不十分だとか現実味のかけらもない脚本であるのだが。脚本がダメダメであった場合でも演出で少しでもマシになったかというと全くそんなことはない。コロコロと人が死に、マクレーン本人もテロリストの仲間を次から次に殺していくのだが、その描き方がまさに「ここで死んでいるのは端役ですからご安心を。メインのキャラクターは決して死にません。」というようなものだ。…ゲームぽい。 バンパイア映画にCGや特殊メイクをじゃかすか使って喜んでいるのはそんなに不自然なことではないが(ワイズマンは)、ダイハードにそれを持ち込まれるとは。だいたいあの戦闘機は垂直浮上していなかったか? 映画というよりはサバイバルゲーム・ダイハードスキンヘッドバージョンを、コントローラー不要でプレイしてくださいつーような無味乾燥な後味である。しつこいようだがダイハードⅠはそのリアルさにおいて観客を釘付けにしたのであーる。 [DVD(字幕)] 3点(2008-07-22 20:32:42) |
187. ナンバー23
《ネタバレ》 シューマカーはこういうの向いてないんじゃ…。ジム・キャリーを使ったのもよくなかった。 途中まで悪魔系の話かと思っていたら、フツーに記憶喪失って。 あまりにも夫をかばいすぎる妻の行動についても、「あなたは立派な夫で父親よ」と言われるほどのシーンを何も見せられていないため「えっそうなの」。 13年前に結婚した相手は実は妄想性の精神病患者で自殺未遂歴があり殺人も犯していた…と知ったらフツーはどうするだろう。 とりあえず子供を連れて逃げる、ではないのか? [DVD(字幕)] 4点(2008-07-22 16:49:49) |
188. アイ・アム・レジェンド
《ネタバレ》 何かすごくもったいない作品です。娯楽作品にしたかったのか、神様映画にしたかったのか、リアルなSF映画にしたかったのか、どれにしても中途半端なのだ。 ウィル・スミスを主役に据えた時点でそれは「娯楽映画」志向になってしまう。 けれど、作品の半分以上の時間を費やして、ネビルの孤独感を丁寧に描いているところを見ると、そうでもないのかもしれない。 けれど、鹿だの感染者だのに平気でCGを多用するところを見ると、リアリティなんかどうでもよくてやっぱりドンパチ系のアクションを見せたいのだろうか。 と思っていると、最後の方で急にあらわれた女が「神様」とか言い出す。おっとこれは神様を称える系の映画だったのけ? 終わり方が唐突すぎて、ネビルが神の啓示を受けて納得して実行にうつすまでのプロセスが全然描き足りない。そこんところはほんの一瞬しか割かれていない。 私としては、犬の名演により相当印象が上がったのだが、これは娯楽映画路線をきっぱり諦めてシリアスに行くべきだったと思う。神様を出すのであれば。 ということは、ウィル・スミスは絶対に使ってはいけないということになる。 どんなにがんばっても、マッスルボディのウィル・スミスが地下室でシコシコ研究をする人間などにはなれない。 ウィル・スミスに銃火器、OKだ。マシントレーニング、OKだ。スポーツカーでディアハンティング、OKだ。地下室で研究、NOである。 誰も居ないNYで犬を友に3年も研究しているのはいったいどんな人間だろう。 それは、ティム・ロビンスのような顔色の悪い、たるんだ皮膚の持ち主である。 そして、研究者ならではのマッドな空気を持っていなければ。それは「知的好奇心が時にすべてを凌駕してしまう」異常さである。これがなければ研究などできるものか。大なり小なり学者先生はこれを漂わせているので、見たい方は放送大学をご覧になるとよいです。とにかくウィル・スミスはこれっぽっちも持ち合わせない。 でもまあ、犬のサムだけでも見る価値はあります。私はひと抱えくらいあるデカい犬が大好きです。サム万歳(メスだったのね)。 [DVD(字幕)] 5点(2008-07-22 16:35:18) |
189. 呪怨 パンデミック
《ネタバレ》 結局清水崇でちゃんと怖がることができたたのは呪怨の初回作だけだったように思う。 パンデミックでは加椰子と剛雄が大放出のサービスぶりで、こんなに出されれば「怖い」というレベルを超えて見慣れた景色に近づいていく。そして、人種を問わず登場人物の誰も彼もがビビってばかりいるので、映画のトーンが平坦に感じられる。要するに、「ビビってる人間を出す→加椰子か剛雄を出す→行方不明か死亡」をただ繰り返しているだけではないのか? そしてまた、加椰子か剛雄が出た場合の効果が一律でないことの理由がよくわからない。行方不明と死亡と意識混濁(イーサンのみ)の差はどういう理由によるものなのか?ただ適当に割り振って演出しているだけということでいいのですか? 本作では、劇中の時間軸を3つ交差させるというトリックが採用されていて、ラストでパーカーの中身の人物を見ることによって、「海外輸出」の事実を明かすようになっている。 が、パーカーの中身はだいたい途中でわかっているし「輸出」されたこともなんとなく想像はついている。例の家で加椰子の追体験をさせられたオーブリーは家に囚われて加椰子の代わりに外人の少女を脅かし、その後「輸出」されたのはオーブリーではなくて加椰子と剛雄だった、ということになったようである。この場合はオーブリーがパーカーの少女にとりついて故郷に戻るというほうが自然な気がするが、あの家の霊たちの戦略はきっとそんな単純なところにはないのであろう。そうとでも思うしかないわな。 また、アクションやスプラッタでなく心理的に怖がらせるホラーであるからして、リアリティを大切にすることは不可欠である。そんな鉄則を初回作で守りきって勝利した清水にして、「全く日本語がダメな白人女が一人で山奥の祠まで辿り着く」「山奥に住む老婆がいきなり英語を話す」「日本語が得意なことになってるイーサンが、とてもそうは思えないカタコトを話すか、もしくは聞いているだけで日本語で返事ができない」などを許したという志の低さが信じられん、まったく。 パン兄弟にしろ、アジアで芽が出てハリウッドの息がかかるとどんどん本来の持ち味が侵食されてしまう。そっちのほうが「呪怨」的ではないだろうか。 [DVD(字幕)] 4点(2008-07-22 13:48:23)(良:1票) |
190. ブラックブック
《ネタバレ》 ネタばれますのでご注意を。 ややこしいので一貫してエリスでいこうかと思いますが、物語がはじまってから彼女が知り合う人間の中で、「信用してしまいそうだけど絶対に信用してはいけない人間」はいったい何人いたでしょうか。 私の計算では、ファン・ハイン、ハンスの2人だけです。意外に感じられると思いますが、フランケンとかナチの将軍のように「悪い奴」と顔に書いてある人間は、信用してしまう可能性はまずないので安全なのです。彼らは脅威ではない。 本当の脅威は「信用してしまいそう」な人間のほうです。エリスはその2人を信用してしまいます。 けれどもわりとのん気に育ったらしきエリスは、そんなこと見抜けるわけがなく次々と騙されるわけです。 しかし、本当は、エリスが信用した相手のほとんどが、つまりその2人以外が「信用してもいい人間」だった、ということのほうが驚かなくてはいけないのかもしれない。 居心地の悪かった最初の隠れ家の住人も、次のヨットの彼氏も、川の虐殺から逃れたエリスを救ってくれた農家の人々も、ハンス以外のレジスタンスのメンバーも、愛するムンツェも、愛人仲間のロニーも、「信用してもいい人間」だったのです。 ということは、この混乱の時代にあって、世の中のほとんどの人間は信用してもよくて、その中にとても邪悪な人間が2人いました、というようなバランスになる。広いお花畑の中に、2箇所だけ地雷が埋まってる感じ。 エリスは信用してはいけない人間を信用してひどい目にあいますが、めげずに最終的には信用してもいい人間と共に復讐を遂げます。そうですたぶん、人は、地雷が埋まっているからといって、お花畑を歩かないわけにはいかないのです。 貴金属や現金で話が始まってキブツのシーンで終わるということは、この映画が、ユダヤ人が長年の習慣を捨て財産を動産から不動産に持ち替えたプロセスを描いたものといえるでしょう。 評価をいただいたあとですが一部訂正しました。エスねこさんご指摘ありがとうございました。 [CS・衛星(字幕)] 9点(2008-07-21 00:29:54)(良:4票) |
191. キングダム/見えざる敵
《ネタバレ》 私は監督ピーター・バーグのファンなので、監督欄に彼の名を見つけたら迷わず見る。 ついに、こんな大作を任されたとは出世したものだバーグよ。けっこう金かかってるじゃん。 と期待に胸をふくらませ、いそいそと画面に向かうがバーグも最近のはやりに抗しきれず、一貫して揺れるカメラ大作戦になってしまっていた。目が、目が痛い。 明らかに「ブラックホークダウン」を意識した作品だが、一回りも二回りも小ぶりな仕上がりを見るとやはりリドリー・スコットは偉大な変態、変態だから偉大、彼に比べればピーター・バーグは良識の人、と言わざるを得ないかなあ…。資金面での差というだけでなく。 ただその精神は「ブラックホークダウン」を踏襲していると感じる。ピーター・バーグはバカではないので間違ってもアメリカ万歳では終わらなかった。 この架空のテロ事件については最初に国務省次官が言った「サウジにアメリカ人が居るのがテロの理由」というのが正解で、「これ以上捜査員を送り込まないで静観し、サウジ当局に任せる。」というのが大正解なのである。 それをFBIは上から下まで「仲間の報復」で一致団結し、裏の手段を使ってまでサウジに乗り込んでテロの首謀者を捕まえようと大暴れする。その過程で「ブラックホークダウン(拉致された仲間の救出のために更なる危険を冒すこと)」が発生し、無茶苦茶な市街戦の最中でもアメリカ人には一発の銃弾も当たらず、ついにFBI仲間ではなくてなんとサウジ人の警察官が死んでしまうのである。…アメリカ人はなんて自分勝手で要領が良いんでしょうか。 仲間の一人を助けるために、彼らはいったい何人の現地人を殺したでしょうか。ここから導かれる明解な論理は「アメリカ人一人の命はサウジ人一人の何倍もの価値がある」です。 というようなシビアな目線をピーター・バーグは失っておらず、テロの首謀者を殺した上FBI全員が生還したという作戦の成功を、大喜びするシーンは一切ない。 その代わりに、テロリストの孫のセリフで「テロは終わっていない」ということを示す。 …で、話は「サウジにアメリカ人が居るのがテロの理由」に戻るのであり、冒頭のラッシュにあったように「石油を分けて欲しいばっかりによその国にずかずか乗り込んで現地の有力者と癒着してきたアメリカという国のあり方」に戻るわけだ。すごく徒労感が残る映画だった。 [DVD(字幕)] 7点(2008-07-18 16:09:18)(良:5票) |
192. ゴースト・ハウス(2007)
《ネタバレ》 これは名義貸しですよね? いやはやパン兄弟が現地へ行って撮ったなどとはとーても信じられません。だいたい脚本も書いてないし。 ストーリー自体は使い古されたどうにもならない代物だが、パン兄弟の手にかかれば素晴らしく怖いものができるのかもしれない…そりゃ、パン兄弟が一から十までやれば。 いくら白人俳優を使って、アメリカの田舎町を背景に使ったとて、パン兄弟がこんな駄作を仕上げるわけはないと思う。明らかにパン兄弟は現地へなど行ってない。演技指導も編集作業もしてない。 なぜ名義を貸す、パン兄弟よ。なにか映画会社と取引があったのか。君たちは二流の白人TV俳優なんか使わなくたっていいものが作れるじゃん。アジアへ帰って来い。ホームで勝負し続けようよ。 [DVD(字幕)] 3点(2008-07-18 15:34:41) |
193. バイオハザードIII
《ネタバレ》 ふと気付けば、これはすごい貧乏映画ではないのか? ヘリコプターが1機しか出てこないうえ、壊さないで返すことになっているのか銃弾の一発すら当てず、血で汚したりもせず窓ガラスにヒビさえ入れず…。 アリ・ラーターがいくら売り出し中といったってまだまだB級だし、ミラ以外に目玉俳優を一切使わず、アンダーソン本人が監督もせず。ヒジョーにお粗末な作品じゃあないか。 Ⅰはそれなりに良かったとはいえ金がないならなぜ無理をしてⅢなど作る、アンダーソンよ。 見どころのアクションシーンはすべてスロモ仕様でその点ではⅠ以上にお粗末だし、ミラのワイヤーアクションがフワフワしてしまったり、とてもまともに見られぬ出来。 カルロスが仲間のために犠牲になる部分とて、最大の盛り上げ場だというのにあんまりにもあっさりしている。感染した仲間の件とて、ゾンビ映画のお約束のエピソードなのに全然盛り上がらない。 ゾンビを出すならばー、喰われた仲間の葛藤とか、やむを得ず仲間を見捨てる苦しみとか、土壇場で必然性のある自己犠牲とか、そういうのが見たいんだ。登場人物と一緒になって、悩みたいんだよ。 この作品には、お約束のファクターは盛り込まれているけど「死の恐怖」「生への執着」という決定的なマターがゼロに近いほど無視されているためホレ、これだけつまらない。金が無いならドラマに力を入れるしかないのに本当にお座なり。ああーアンダーソンよキミはどこへ行く。 [DVD(字幕)] 3点(2008-07-18 15:22:35)(良:1票) |
194. リーピング
《ネタバレ》 前振りとヒラリー・スワンクにすっかり騙されて、期待して見てみたのがマチガイだった。 ヒラリー・スワンクが出ようが、やっぱり映画は作り手が問題なのだ。1に監督、2に脚本、3に製作と編集、俳優なんてのは10位以下である。ああ、しょうこりもなくまただまされてしまった。お金返して。 こんなにノレない宗教映画ははじめて見たような気がする。 登場人物の誰一人として現実味が無く、ヘイブンに着いてからは「科学」の「か」の字もカンケーなくなって、ひたすらオカルトに一直線。 なんにもコワくないので無理にでも恐怖を盛り上げようと、音などでスワンクを驚かすこと度々というお粗末さ。 それぞれのキャラクターの過去のエピソードとて、取ってつけたがごとくで何の関心も持てない。 少女のオチが割れたとて私はなんの感慨も浮かばなかった。エンディングが「ローズマリーの赤ちゃん」であろうが、これっぽっちも感心などせぬ。 どうしてこんなにつまらないんだ。こんなに退屈な宗教映画もない。…彼らはマジメすぎたのか? [DVD(字幕)] 2点(2008-07-17 19:28:29)(笑:1票) |
195. クジラの島の少女
《ネタバレ》 おそらく作り手が己のルーツに敬意を捧げた作品であるとともに、フェミニズムの映画なのですね。 「フェ」と言っただけでそっぽを向かれそうですが、どう見てもそういうメッセージが込められた作品なんだから仕方ない。 マオリの族長の家系というシチュエーションを借りたうえでの、「男の子じゃなかった」という理由でいろいろな不便や面倒を感じながら成長してきたすべての女の子へのメッセージ、癒し、でもあるのだと思う。 マオリの人々の祖先は、約1千年前にニュージーランドに移住して住み着いた。何百年か経つと、そこへヨーロッパ人がどんどん入ってきて、数においてマオリのほうがマイナーになってしまった。 けれど、パイケアの祖父コロのように、「高貴な血」をもつ長たちは、文化と伝統の灯を絶やすまいとそのことのためだけに生きている。個人は100年もすればどうせ死ぬ。個人が死んだ後に引き継ぐことができるものは文化だけだ。文化が引き継がれなければ、人はただ生まれて死ぬだけの存在になる…族長コロを見ていると、その信念が痛いほど伝わってくる。 パイの父は優しいが弱い男であったため、妻の死に耐えられず育児も教育も後継者としての義務もなにもかも放棄してヨーロッパへ逃げた。そして何年かしたら、考え方もふるまいもヨーロッパ人になっていて、金髪碧眼の女と勝手にくっついていた。彼は族長の重責を担うには優しすぎたのだ。 後継者探しにやっきとなった祖父のもとで「男の子じゃない」というだけで、隠れて棒術の練習をしなければならないパイ。自分より劣る男子たちが祖父から教わっている内容を、物陰からじっと観察するパイ。…このへんではもう完全にウルウルしてしまっていけない。 世界中の女の子たちは、みな多かれ少なかれパイケアと同じ経験をしてきている。 心の中で、何度「パイケアのような優秀な子が男子だったら」と思ったかしれない祖父が、「女子でも後継者」と認めるまでには、クジラの座礁という不思議な現象とパイ本人の命をかけることが必要だった。「優秀」というだけではダメなので、本当に女子の行く先には難題山積である。 ラストで不肖の父が戻ってきているあたりは、やりすぎハッピーエンドの感があるし突っ込みたくなるところだが、とりあえずは祖父とパイケア両人の健気さにやられました。泣きます。 [CS・衛星(字幕)] 9点(2008-07-16 20:06:09)(良:2票) |
196. 人生は、時々晴れ
《ネタバレ》 原題がなぜこれなのかということを一所懸命考えた結果、タイトルの前にtakeかacceptが入るということではないかなあと思った。 階級社会の国に生まれてしまったことも、労働者階級の親のもとに生まれてしまったことも、その結果低所得者向けの団地で一生暮らしていくことも、タクシーの運転手で一生を終わることが確実であることも、息子は生涯まともな職につくことはなさそうだし、娘は掃除婦程度の仕事しかできないうえジーさんにしか口説かれないことも、自分の遺伝子のせいで子供たちがみな肥満児に育ってしまったことも、同じ理由で息子の心臓に欠陥があることも、20年も連れ添っているのに婚姻届を出さない優柔不断な自分の性格も、妻に小銭を借りなければ仕事が成り立たない甲斐性なしの自分も、早起きができないせいで余分に稼げない自分の意思の弱さ、息子の重病時に、休暇をとってディズニーへ行けば解決すると思っている救いようのない頭の悪さも。 「これは受け入れるけど、それは拒否したい」というのは許されなくて、「すべてを受け入れるか、すべてを否定するか」という問いを投げかけているのかなあと思った。 ありがちな家族のビョーキをきっかけに夫婦が和解し、オヤジは初めて早起きして空港まで客を運んだが、それとていつまで続くかあやしい。心臓病の息子が心を入れ替えて禁煙し、ジャンクフードを止められるかと言ったらその可能性はほとんどゼロだろう。娘がクッキーやポテチをやめてスリムになることも金輪際ない。「夫をカス扱い」していることを反省した妻とて、この先永遠に小言を言わずにすむとは考えられぬ。 大団円のハッピーエンドではなくて、小休止であって、この先、この家族はそう変わらない生活をしていくのだと思う。婚姻届とて、出すことはないだろう。しかし、「全部捨ててしまおうかな」と海辺で考えた結果、そこに「妻の愛」が有りさえすれば、ほかのものはすべて受け入れられるとオヤジは気付く。なにやら安易な展開だが。 ただし出演者に魅力がなく、起伏に乏しい話なので、いかにも冗長に感じる。「否定したいような醜悪な現実」を観客に理解させるがために、長い時間をとらなければならない、というのは芸がない。 短時間のエピソードを見せることによってでもそれが可能なレベルまで持っていく必要があると思う。 [CS・衛星(字幕)] 6点(2008-07-15 20:06:57) |
197. バッド・エデュケーション(2004)
《ネタバレ》 ガエル君のオカマ姿は「プルートで朝食を」のキリアン・マーフィよりはるかに良かった。 見てくれがエグいかどうかだけでなく、しぐさやふるまいが全くもってフツーの女に近かったのだ。 キリアン・マーフィを見ている時は、「必死になって女になろうとしている」結果「濃すぎてしまった」感じが痛かったけれど、ガエル君の場合は「ヤな女だなーコイツ」という感想を抱いてしまったのだ。その点、ニール・ジョーダンよりアルモドバルのほうが「女とは何か」がわかっているということなのでしょう。 いつもと同じようなアルモドバル要素に満ちた作品なのだが、ラストのあっけなさといい、何かパンチに欠ける気がする。 あえてテーマのことを推測するなら、「理想と現実」だったのではないかなあ。 劇中劇「訪問者」は、イグナシオが自ら書いたものであるから、その内容はイグナシオの「理想」と見ていいだろう。きれいなオカマに変身した自分が偶然初恋の相手に出会い、彼に金銭援助をするために変態神父に復讐して見事成し遂げる、というのがそれだ。 ところが脚本を読んだエンリケは「この話はハッピーエンドではダメ」と、サハラが返り討ちにあって殺されるラストに書き換える。これは「理想」を「現実」側に引き寄せた結果だと思う。 また、急にあらわれたイグナシオ(と偽るフアン)に、修道院時代の美少年のその後の理想形を見ながら、「やっぱりイグナシオではない」と見破るのもエンリケだ。エンリケは常に「理想」を退けて「現実」を認識する立場にある。 理想と現実というテーマはほかにもいろいろ出てきて、例えばフアンは美少年イグナシオの成長後の理想形だが、現実のイグナシオは胸を整形した汚いオカマのうえ薬物中毒。 フアンは本当は「アンヘル」になって、女性を愛し、役者として売れたいのだが、現実には「フアン」としてゲイの男に体を提供して利益を追求するしか方法がない。 しかしフアンは「現実」を排して「理想」を実現しようとする人間なので、「醜い現実」たる兄を葬り、ゲイと寝る「フアン」も葬って「アンヘル」として役者になり女性と結婚する。 この作品内では、一貫して神が軽んじられていて、本当に神様がいない。いないので、バチが当たる人もいれば、のんしゃらんとして生き延びる人もいる。その結果は「So,so」とでもいうのが相応しいので、それほど深い感慨を呼ばないのだ。 [CS・衛星(字幕)] 5点(2008-07-14 15:03:32)(良:1票) |
198. おわらない物語 アビバの場合
《ネタバレ》 別々の役者が同じ人物を入れ替わり立ち代り演じる、という場合には、誰が演じてもそれは間違いなく「アビバ」である、というくらいに脚本中で「アビバ」が人物として成立していることが必要です。この場合は「無垢である(モラルをもたない)」というのが共通項となっているようです。 原題が「回文」なのですが、アビバの名前はもともと回文だから「行って戻る」、ですが、変態小児性愛者兼ヒットマンのアールは死の直前に「本名はボブ」と言います。これも回文ですから、この時点で「先に進んでいると思ってるようだけど、実は折り返し(この先同じ)だよ」という意味だと思います。ラストで、ユダがなぜだかオットーに改名しますが自分で言っているようにこれも回文なので、「最初に戻った」なのだと思う。 アビバの堕胎児は女の子でしたが、なぜ性別をはっきりさせているのかというと、アールに誤射されて死ぬのもフライシャー医師の娘だからですたぶん。「回文」なのだから、アビバの堕胎児とフライシャーの娘が対比関係にあるのです。そして、フライシャー狙撃についてのアビバの態度は、事前も事後も全く罪悪感がなく、ないどころか「やれ!やれ!」「アールは何も悪くない」というものですから、殺人に加担しています。ということは、対比関係から考えると、堕胎で殺された女の子についても、アビバは殺人に加担しているということを示しているのだと思う。 家出したアビバはきれいな場所も汚い場所も通って、水のように流されます。けれど、流れ着いたところは元の場所。「母になる」という計画も全然進まないまま。 そしてパーティーでマークが運命論を語るのですが、この、マークとの会話をする女優がなぜジェニファー・ジェイソン・リーであるのか、これは偶然ではないと思います。 「アニバーサリーの夜に」で、母親になるのが怖くて夫に隠れて堕胎したのは誰でしたっけ?ソロンズは、ラストに来て「生殖能力の有無を別にしても、アビバは本当は母親になる気が無いのだ」ということをジェニファー・ジェイソン・リーを使うことでほのめかしているとしか思えない。実際にアビバは殺人に加担していることになっているし。 それでも「希望」という問答無用の言葉を頼りにオットーとの不発なセックスに励み、満面の笑顔で「いつかきっとママになるわ」のラスト。果たしてアビバの言葉は「欺瞞」といえるものなのでしょうか。 [CS・衛星(字幕)] 8点(2008-07-07 15:00:40)(良:1票) |
199. ウィンブルドン
《ネタバレ》 テニス全然関係なし。全くなし。 テニスの技術も勝負の精神力も、運さえも、すべて「女の応援」でなんとかなってしまうという恐るべき頭カラッポ系脚本。 私は基本的に本業を放り出して女を追っかけている男が嫌いなのだがー、そこはそれ、もう文化の違いというしかないのかもしれないこんな脚本が映画化されてしまうところを見ると。 「女が応援」「男がんばる」「見事勝利を手にしてご褒美ディープキス」という展開には吐き気がしてくるしー、かといって、出演者そのものに見ているだけで眼福なものもないことから、単に時間の無駄。 ただひとつ、発見したことといえば、「美人度」と「応援度」はどうやら反比例の関係にあるようです。キルスティン・ダンストが応援女として重宝されている理由は美人度が低いことにあったのだな。エリザベスタウンの時の疑問が少し解けて良かった。しかしあんなへなちょこサーブでテニスプロを演じるとはたいした心臓だダンストよ。 [CS・衛星(字幕)] 2点(2008-07-06 15:44:19)(良:1票) |
200. ザ・ロイヤル・テネンバウムズ
《ネタバレ》 笑わせどころがまったく自分のツボにマッチしなかった。 ハリ治療に行くと、鍼灸師によってツボがはずれたりはまったりするけれど、ウェス・アンダーソンの打ったハリはほとんどヒットしなかった。「そんなとこにハリを打たれても…」のオンパレードだった。 人物や状況を説明するために絵画や著作のカバーを大写しして説明に替える、というワザは、あまり何度も使われると芸が無い。笑わせたいために、登場人物に極力リアクションをとらせず無表情にさせて間をとる、というワザも、ロイヤルとリッチー以外のほとんどの登場人物がそうであるということから、効果が希釈されてしまっている。 人物が深刻に悩めば悩むほど観客にとってはおかしい、という状況を作り出すのに、完全に失敗している。…ボケには突っ込み、無表情にはリアクション、そうでもなければ乗り突っ込み。この監督さんは笑いが全然わかってない。 笑えないだけでなく私はストーリーもあんまり気に入らない。実子と養女の恋愛沙汰というそこだけ妙にシリアス調のエピソードもバカバカしいが、それよりもアメリカ人の専売特許ともいえる「ルール破り」を賛美するのが隠れた(というか隠れてないかもしれんが)テーマであるからだ。 彼らにとって、「ルール」はただ破ればよいというものではなく、破り方と事後のリアクションが「破り道」において重要なのである。破り方のスマートさにおいて感心されるなり、破り方にも愛嬌があるため憎まれない、なり。ロイヤルは後者である。 でも、私ははっきり言って悩まずルールを破るやつが嫌いなんだよう。ルール破りが映画に出てくるのは構わないが、それが賛美される結果になるのは私の許容範囲を超えているんだよう。 「ルール破り」の人生をまっとうしたロイヤルは死ぬ。人々の記憶に「愛嬌」を残して。個人的には全然ダメだ。 [CS・衛星(字幕)] 4点(2008-07-06 14:24:52)(良:1票) |