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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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41.  ナック
ポップだなあ。怒れる若者たちの時代、大人たちの視線を折り込みつつ、老大国イギリスの自意識でもあろうけれど、若者たちを街に走らせる。ベッドを走らせるあたり、イキイキしてる。いつもどこか開いてしまうコインロッカーのドア、コーヒー販売機のボタンで閉まる。あと路地の出入り、とかギャグもいろいろ。この監督アメリカ生まれなのね(たしかJ・アイヴォリーもそう)。根っからの英国人でないことも、この視点に関係しているか。伝統を背負う責任がない。若者たちの子どもっぽさを肯定する空気がある(いや、それこそイギリス的なのかも)。ジョン・バリーのジャズっぽい音楽が(つまり大人っぽいってこと)、若者たちとの間に距離を作ってる。彼らの明るさに対する翳り、この世は無常ですぞ、といった雰囲気。
[映画館(字幕)] 6点(2013-05-11 09:15:32)
42.  マーニー 《ネタバレ》 
ヒッチコックが好んだ「心の闇」もののサスペンスはこれが最後となった。掉尾を飾るとはいかなかったが、味わいはある。いいとこが一つでもあれば可と思っており、これは三つはある。①無人となった会社で金を盗むとこ。画面を壁で分割し、左側に掃除婦が入ってくる緊張。ずっと無音のところ、ポケットに忍ばせた靴が落下。入れ替わりに入ってくる男とマーニーがぎりぎりですれ違う。彼の掃除婦への呼びかけの声の大きさで、掃除婦耳が遠かったと分かる。そんなシーン。②旦那の家のパーティに次々に客が訪れ、カメラがゆっくりゆっくりドアに近づくと、最初の事件の会社の経営者が立つ。これはもうヒッチお得意の段取りで、昔はチック症のドラマーに迫ったりしてた。いいんだ、この「じわじわ接近」。③終盤の怒鳴り声の応酬で盛り上げた頂点で、マーニーが突然子どもの声になるとこ。彼女のトラウマを一瞬のうちに提示し、女の子に母の愛を奪われたと嫉妬していたシーンなども思い出させ、ドキドキしつつ哀切。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2013-05-09 09:22:01)
43.  シェナンドー河 《ネタバレ》 
「国(州)が勝手に戦争やってようと俺の家は関係ない、国が子どもを育ててくれたか」と独立独歩でやってきたJ・スチュアート、馬を買いに来たバイヤーと殴り合いの喧嘩になり家族揃っての乱闘、向こうがピストルを出したところで、こちらも娘が一発放ち、決着となる。なるほど、アメリカで銃規制が進まないのは、こういう原風景があるからなんだな、と納得した。国の方針に納得できないとき、自分のとこは独自にやっていく、という担保として銃があるんだ。ライフルはその象徴でもあるから固執する。国家に最終暴力の権利を与えると、とめどなく強大になって最後は北朝鮮のような軍事国家になってしまうだろう、それなら「銃の野放し」のほうがまだいい、という判断。南北戦争のころと今とでは比べられないはずだけど、根本思想として「銃による独立」という考えがあり、それはそれで一応筋が通ってるんだ。日本では銃の野放し状態になる危険性より、軍事国家になる危険性のほうが高いんじゃないか。国家に何でもゆだねたがる性癖。たとえば死刑制度がなくならず、反対運動が高まらないことも…なんて、余分なところで感想を抱いた。映画そのものの感想。ボーイが助かるあたりは「うまく出来すぎ」だし、そもそもJ・Sの頑固親父はニンでない(息子が撃たれたあとの怒りのことばは彼ならではの説得力があった)が、内戦のやりきれなさは静かに底に流れていた。南北両軍が対峙しているところに放れ牛がやってくる場なんかがいい。留守宅での不意の惨劇も、銃の使い手が出払っている家の不安の結晶なんだな。二階に上がっていく悪人どものサーベルが階段一段一段でたてる音。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2013-04-28 10:30:58)
44.  エル・ドラド(1966)
最初『昭和残侠伝』みたいな話になるのかと思ってしまった。J・ウェインとR・ミッチャムが、友情を維持しつつ敵対する組に属してしまい、義理と人情の板ばさみになり、最後は二人してライフル携え悪の一家へ颯爽と殴り込みの道行きになっていく、バックには冒頭の歌が流れ…、って。そしたら、すぐにウェインは悪の一家とは手を切って、馬を後ずさりさせて善玉に属する。池部良のような心の葛藤はない。そして終盤では「颯爽」ではなく二人の怪我人として殴り込む。ウ~ン、東洋と西洋での男意気の違いをまざまざと感じさせてくれた。物足りないのは悪役に魅力がないことで、どう悪い奴らなのかをあまり映像で見せてくれない。彼らが悪役と言う立場なんだよ、と会話で説明されてるだけ。善玉の仲間うちの会話は楽しかった(保安官任命の宣誓とか、バッジは標的になるだけ、とか)。その他の俳優、とりわけ女優さんは60年代後半をまざまざと感じさせ、ウェインとでギャップがあったな。善玉一家の娘なんか、どちらかと言うとベトナム反戦集会にフォークギター持って参加してそうな雰囲気。J・カーンは、こういうのもやってたのか(『不意打ち』ってので町のチンピラやってたのは見たぞ)。せっかくナイフの名人ならそれをもっと生かせばいいのに、銃の訓練で笑いをとる役割り。やっぱ銃が基本の社会なんだ。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2013-04-20 10:00:48)
45.  あかね雲
水上文学の世界ってのは微妙でして、演歌的な愚痴の詠嘆にもなり得る危険性があるが、正確に社会批評の部分を突いて映画化されると、いい画になるものを含んでいる。自分を利用する男に感謝し続けるヒロイン、後半にいくにつれ脱走兵・小杉と出会ったのは幸せだったのではないか、とふと思わされ、そこに貧困の問題が大きく浮かび上がってくるの。世間の良識としての小川真由美が存在して、この苦労を積んだ上での批評が、こちらのカップルを刺激し続ける。それが男社会の批評にもなっている。これに対応するように小杉さんも疚しさを感じ続けるのだけど。夕焼けだけ朱になる趣向。親から十円借りるあたりホロッときた。山崎努が缶詰のシールを貼っている薄暗さに、脱走兵の不安が重なる。脱走兵と女の物語は、後にもう一度水上文学の映画化『はなれ瞽女おりん』で美しく繰り返される。
[映画館(邦画)] 6点(2013-04-19 10:26:27)
46.  美しさと哀しみと(1965)
人間に厚みが感じられないのは、川端作品を監督なりに無機質的に捉えようとしたってことか。日本的な湿り気を除いて(原作読んでないけど、もともと川端作品ってそれほど湿ってないな)、モダンに再生させようとしたら、ただ薄っぺらになっちゃった、って感じ。要になる作家が単なる俗物にしか見えず、音子さんの嫉妬が馬鹿馬鹿しいものになってしまう。それが狙いなのかな。息子の山本圭なんか、ほんとただの馬鹿扱いで可哀想なくらい。おそらく加賀まりこの静と動の対照が見どころの中心だと思うが、周りがこれだからあんまり生きてこない。こういうドラマはみな視野が狭い登場人物ばかりだから、その狭い内輪を一つの宇宙に感じさせなくちゃならないのに、そうなってないから、みんなウジウジしてるだけになっちゃう。そうやって全体を批評しているわけでもなく中途半端。長回しの多用(女二人の会話)や超望遠(橋の上の会話)などあり。カラーフィルムは褪色しちゃうとどうしようもなく濁る。
[映画館(邦画)] 5点(2013-04-17 09:36:48)
47.  夕陽に赤い俺の顔
「殺し屋」というイメージが持っているある種の情緒(ニヒルで・孤独で・斜に構えた)を、無効にしたい思いが感じられる。ちょうどヨーロッパ映画などでもポップな風潮が流行ってきたころで、その流れに乗ったのか。本来なら背反されるものが一緒にあることの「肩透かし感」みたいなもの。ドクターは医者と殺し屋を両立させていて、殺された人物に「ご臨終です」と宣告する。(当時の)近代的な団地をそれぞれの変装で行くおかしさ(殺し屋たちの個性が弱いのが残念、和風やくざの三井弘次なんかもっとうまく使えなかったか)。寺山の特徴は、情緒を排斥したい気分と、情緒にひたりたいウェットな志向とが重なっているポップ感で、殺し屋たちはドライにコンクールで腕を見極めようとするが、彼らが歌う歌は船頭小唄の替え歌で「俺は下町殺し屋さ~」となる。もちろんこの対比のおかしさがポップでもあるんだけど、情緒纏綿とした大正歌謡や下町という風土の肌合いへの志向は、ただ対比のために持ち出されたものでなく、彼の好みでもあったはずだ。監督篠田は松竹ヌーベルバーグとして括るのとは別に、鈴木清順と同時代人という(今まで考えたこともなかったが)世界的なポップの風潮での括りもあるんだなあ、と発見した。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2013-02-25 09:58:21)
48.  女と男のいる舗道
あっけなさというのがこの監督の重要な要素。ラストもそうだけど、初めて客をとってしまうところも、それらしい逡巡や決意の表情やらを見せず、出来事は不意に訪れる。街頭でのドンパチも、観客が「なんだなんだ」と戸惑ってしまうような仕掛け。観客に対する親切が紋切り型を作ってしまい、出来事を遠ざけてしまう、ということなんだろう。出来事は常に隣り合わせに起こり、ある種の自由の感覚がある。流動していくものを肯定する気持ち。人はいつも不意に状況の中にいるんだ、って。冒頭ヒロインのシルエットにタイトルが被さってるんだけど、音楽が中断しつつ流れる。音楽の中にゆったりと浸れない、沈黙が緊張を強いる。出来事が不意に起こるように、今続いているものが不意に消えることもあるってことか。
[映画館(字幕)] 7点(2013-02-11 10:25:06)
49.  昭和残侠伝 唐獅子牡丹
シリーズ2作目の、まだ様式が固まっていない試行錯誤がうかがえるのが面白い。1作目は終戦直後だったので、本シリーズで戦前が舞台になるのは本作からとなる。任侠ものの味わいには戦前の風俗が大事だと思っているので、そこに感謝(『残侠伝』というタイトルを見ると最初はずっと戦後を舞台にした『日本侠客伝』みたいなものを考えていたのではないか。だから池部の起用も前年の篠田正浩『乾いた花』の好演もあっただろうが、なによりも“戦後”という時代を代表する俳優だったからなのではないか)。本作は宇都宮の採掘場、次作は銚子近くの漁師町と、地方のいかにもやくざが強そうなあたりを舞台にするが、以後の東京の戦前風俗になってやはり一番しっくりする。路線が定まってなかったので池部の扱いが中途半端で、前半健さんに沓掛時次郎的な役を振ったので、屈折する池部とタイプがダブってしまい困っただろう。池部は満州帰りと変な洋装で登場しズッコケるが、道行きシーンではちゃんと決める。本作でいいのは、悪役の水島道太郎にも「石工あがり」という過去を振ってることで、石を平気で傷つける子分を怒鳴ったりする。仁侠映画ではこの手の丁寧さがしばしば見られる。道行きから一家への殴りこみはうっとり見られるが、石切り場での争いは安手のアクション映画になってしまってた。こういう失敗を重ねて様式が固まっていったと思えば、それさえ嬉しく見てしまうのがファン心理。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2013-01-19 09:35:47)(良:1票)
50.  大きな鳥と小さな鳥
タイトルを朗々とレシタティーヴォで歌い上げる陽気さでまず度肝を抜かれた。中間部の聖フランチェスコのエピソードがもう監督ならではのリズムで嬉しくなっちゃう。『奇跡の丘』の次の作品だが、『デカメロン』三部作のタッチ。ニタニタ笑う四人組にからかわれるシーンなんか、サイレントドタバタ風。コマ落としの多用。雀とは身振りで会話するという発想。鳥の群れとの会話。『アラビアンナイト』の鳥も感動的だったが、この人、鳥にひときわ愛着があるみたい。ラストで大きな鳥として飛行機が出てくるのは少し露骨過ぎたか。日本語字幕なしの上映だったので、やや想像頼りの部分はある。三部でカチューシャのメロディが流れたのは、ロシア革命と何か関係があったのかな。
[映画館(字幕なし「原語」)] 7点(2013-01-07 09:56:32)
51.  バルタザールどこへ行く
ラスト、羊の群れがやってきてバルタザールを囲んだあたりで泣けてしまった。今まで荷や水を汲み上げる装置やらに常に囚われ囲われ包み込まれていたロバが、ここで初めて柔らかな羊の毛に包まれる。囚われでなく保護されるように。そして本当の最後、バルタザールの死骸がごろっと転がっているカットになる。キリスト教的には、天上の祝福に対する地上のむくろ、ってことなんだろうが、自由と孤独が壮絶に一体になったようにも見える。ずっと自由を希求していたロバが、孤独によってそれを得た、って。全編を貫いていた「生きることの苛酷さ」がここで救われた、というのとも違う、ある種の納得というか、心構えというか、一つ高い認識に至った気がする。監督のスタイルが一番素直に感銘に至った作品でした。
[映画館(字幕)] 9点(2013-01-06 10:11:56)
52.  娘・妻・母
この黒丸(・)は並列であると同時に、進行でもあるんだろうね。娘と妻と母が形作っている世界であると同時に、娘が妻となり母となっていく世界、って。本作から松山善三が脚本に加わるが、あいかわらず金勘定の話が多いところを見ると、井出俊郎が主だったんだろう。土地の不安定さということもあり、『鰯雲』の都会版と見えないこともない。あれと同じような変動が都市部でも起こってるってこと。娘が一人戻ってくるだけで波紋が広がっていく。それを誰にも偏らず、多極構造を維持したまま進めていく(後半やや原節子に傾いたが、高峰秀子の存在が対象化してた)。嫁と小姑の機微なんかが見どころ。再婚をあまりあからさまに勧めるのも難しい、でも姑は微妙に反応する、ここらへんうまい。宝田明が「兄弟は他人の始まり」と言うと、草笛光子が「いっそ他人ならサッパリしてていいんだけど」と返すのなんか、成瀬作品に共通する感慨でしょうね。「他人でないことによるサッパリしなさ」がこの監督の味なの。家族の情愛を否定するわけではないんだけど、それへの嫌悪も見せてくれる。それはホッとする救いとしてあるんじゃなく、「懐かしい鎖」としてある。新興住宅地風のとこでチンドン屋が舞ってるシーンに思わず息を呑んだ。いったいあんな光景の何が良かったんだろう。
[映画館(邦画)] 7点(2012-12-20 09:52:52)
53.  遥か群衆を離れて(1967)
ポランスキーの『テス』に心ふるわせた人間なんで、同じトマス・ハーディ原作、同じ堂々とした上映時間ってのに期待して見たら、ただ長いだけだった。原作知らないんで、罪がハーディにあるのか脚本にあるのか分からないけど、登場する人物がキチンと像を結んでくれない。とりわけヒロイン、パキパキしたはりきり娘かと思うと、アレーッと淑女のように気絶したり、隣人にバレンタインカード送るいたずらしといて、でも言い寄られると「困るわ」って言う無責任ぶり、そのことを映画は非難しているようにも見えない。してたのかな。偶然の皮肉がこの世を動かしていくってのが「テス」の根本思想だったが、出世作らしい本作でも、このいたずらや結婚式場間違えたりが、ドラマを動かしていた。そこらへんハーディのドラマとして筋は通っている。女中ファニーの物語は「テス」の原形のようでもある。T・スタンプが「テス」のアレックだ。ちゃらんぽらん男とクソ真面目男に挟まれたヒロインの物語として、本作は『テス』と同じ構造になっている。ただテスでは男によって女が不幸にされたが、こっちは女が周囲の男に不幸を撒き散らしていた。これが映画化された60年代ってのは女性の地位向上が叫ばれており、原作読まずに勝手に想像するのだが、ストーリーの「小娘が農場主をやる」って部分を拡大して脚色しイビツになったのではないか。浜辺の祭の場なんかは面白かった。それにしてもこの題名は何を言ってるんだ?
[CS・衛星(字幕)] 5点(2012-12-19 10:23:31)
54.  ひばりの森の石松
冒頭、大量の茶摘娘が茶畑から出たり引っ込んだりするのに圧倒され身を乗り出したものの、本編に入っての石松のそそっかしさの描写が一本調子で、そのハイテンションぶりにややゲンナリ気味だったが、丸亀のお家騒動が絡んできて盲目のお姫様が登場したり(夕焼けをバックにしたやけに叙情的なシーンも時代劇の一景としてちゃんとハマる)、スリの三次なんてのも絡んできて「時代劇」の雰囲気が濃くなってくると再び嬉しくなった。茶摘娘以外にもエキストラをケチってなく、時代劇のエキストラは最低でもカツラと衣装が必要で現代劇の何倍もの経費が掛かるんだろうが、そこは映画黄金時代の贅沢さ、たっぷり堪能。三十石船のくだりはオーソドックスに見せ、しかしそのあとに竜宮城での里見浩太郎とひばりのレビューシーンが続くという緩急自在、ついで宿場ボーリング場での立ち回りになだれ込む弾けっぷり。かつで時代劇の器はこんなにも大きかったんだ、とうらやましくなったり、その喪失を哀しんだり。 
[CS・衛星(邦画)] 6点(2012-12-13 09:58:45)
55.  サウンド・オブ・ミュージック 《ネタバレ》 
初めて観たのは何度目かのリバイバルのころ、たぶん中学生のときだ。ストーリーについての予備知識はなかった。この映画で中学生の私は「政治」というものを知った気がする。修道院に隠れたファミリーを長女の恋人が追及する場で、世の中ではこういうことが起こるのか、と胸を締め付けられた。彼の苦悶がリアルに伝わってきた。それはどうやら「政治」に関係しているらしい。そしてこの映画そのものが「政治の苛酷さ」に収斂しているらしい、と世の中を知らぬ中学生は眼を啓かれた。その後も何度か本作を観、演出やトラップ大佐のキャラクターなどいささか大ざっぱだとは思うものの、終盤ナチの旗が翻ってからの緊張、音楽会へ向けての集中は素晴らしい。邸内でプライベートに歌われた歌が、人前では歌わせないという大佐を交えて反復され、さらに会衆にも伝わっていく。それもナチの強制によって設定されていく皮肉。歌詞は同じでも歌意が読み替えられていく趣向。暗い修道院内でマザーによって歌われた「すべての山に登れ」(壁にだけ光が山形に残っている)も、歌意を読み替えラストの現実の山の光のなかに反復される。歌が繰り返され、しかし歌意がプライベートな場から広がり深まっていく、そこに感動させられる。余談になるが、「ドレミの歌」の日本語訳“ど~んなときにも~列を組んで~”っていうの、あれ反ファシズム映画の歌というより、ファシストの心得を歌ってると聞こえないか。何もペギー葉山がファシストだってことじゃなく、この国の風土がそういう団体主義的な傾向に親和性を持っていて、日本語にドレミを当てはめようとするとこうなるんだろう。近くの小学校の運動会などでよく耳にするが、いつ聞いても気持ち悪い。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2012-11-29 09:38:47)(良:1票)
56.  スパルタカス(1960)
これはキューブリック、企画にも脚本にも絡んでないのね。だから「見物される闘い」が出てきたからって偶然なんだろうが、『非情の罠』のボクシングや『時計じかけのオレンジ』のラストとか、『バリー・リンドン』でも軍隊で拳闘試合あったし、好みのモチーフというか、創作欲を刺激されるシチュエーションかと思われ、彼の脚本だと都合がいいんだけどなあ。屈辱感と残酷さと。武闘訓練のしつこさは『フルメタル・ジャケット』につながると思えるじゃないか。戦士を選ぶ女たちが柵の向こうから値踏みしているところをじっくり撮り続ける粘っこさ。やはり「見物される闘い」への執着を思ってしまう。前半の反抗への下準備のあたりが丁寧で映画として充実して感じられる部分。トニー・カーチスとの闘いが、心理的なヤマ場になる。闘わせられる者の屈辱と栄光、ああやっぱりこれ彼のモチーフなんだけどなあ。
[映画館(字幕)] 7点(2012-11-23 10:11:00)
57.  喜劇 にっぽんのお婆あちゃん
これはもう邦画脇役大会というか、配役眺めているだけでニコニコしてしまう。おっとりの東山千栄子、いいとこの女中の浦辺粂子、満州帰りで英語の岸輝子、ナイチンゲール勲章(『ひめゆりの塔』!)の原泉、ドラ焼を盗ったらしい村瀬幸子、そしてもちろん北林谷栄に飯田蝶子。男も、山本礼三郎、上田吉二郎の二大悪役に喧嘩させ伴淳を遅れて登場させる憎さ。中村是好、渡辺篤、菅井一郎、殿山泰司もいる。ジッパーを上下させているのは何て言ったっけ。斎藤達雄のドクター、まだ忘れてないか、看護側で市原悦子、織田政雄、小沢昭一、ちょい役の警官に渥美清(まだちょい役で当たり前の時代だったのか)。こういう贅沢を社会派監督に提供してもらえるとは思わなかった。家族と一緒より養老院のほうが幸福かもしれないという『にんじん』みたいな見方を提示し、でも養老院だって極楽というわけではなく、ドラ焼き食べた疑いが掛かったりするように、そうそうノビノビしていられるわけでもない。フォークダンスの暗鬱さが秀逸。全体はユーモア優先で、こういう映画も作るのか、と思っていると、最後のミヤコ蝶々の家族描写がずっしりリアリズムで、監督の本性が剥き出しになった。「お風呂行かないんですか、行かないなら行かないとおっしゃってくれなくちゃ」。題材が題材だから、もっと展望があってホッとさせる展開にしてほしかったが、社会派は暗く問題提起しないといけないらしい。音楽がモダン、60年代は50年代と違うな、と思いました。
[映画館(邦画)] 7点(2012-11-12 09:59:55)
58.  豚と軍艦 《ネタバレ》 
長門裕之、ちょっと演技過剰だけど「滅びゆく豚の代理人」としてその愚かさを否定的でなく描いている。ヤマ場で豚に向かって「逃げろ」と叫ぶのは、初めて恋人吉村実子への真摯な語りかけだったんだろう。アメリカに寄生する豚のような人間たちを豚が押し潰していく60年安保直後の夢の爆発、アメリカに色目を使うネオンサインを機関銃で破壊していく爽快な夢。でも本人は便器に顔を突っ込んで死んでいくわけで、夢でない現実は吉村実子のこれからに託されるわけだ。ラストの超望遠で口紅を拭き取るシーン、以後も今村でよく目にする望遠の効果の代表例となる(その対極のように豚とそれに潰されていくやくざの顔が画面にミッチリ詰め込まれたカットもあった)。基地に寄生するという形で現実を生きていく女たちも、批判的ながらイキイキ描かれていた(70年安保のときにもう一度横須賀をドキュメンタリーで描いた『にっぽん戦後史』で、そういうマダムを対象にする)。でも本作が記憶に残るのは日本では珍しかったブラックユーモアの連発で、癌ノイローゼのやくざという造形が傑作。自殺できない気の弱さから殺し屋に「知らない間の射殺」を依頼するも、その後勘違いが分かって逃げ回るという滑稽。それ以上に記憶に刻みつけられるのが加藤武で、ニコニコ笑いながら「へへへ、シルが出たよ~」と死体処理の汚れを人につけて楽しんでいる。「豚から入れ歯」のシーンも、彼のニコニコ笑いがあるのでさらに弾ける。小沢昭一のエッセイにはよく加藤の話が登場し、生粋の江戸っ子なのね、彼。本作のニコニコ笑いを見てからずっとファンです。
[CS・衛星(邦画)] 9点(2012-09-27 09:49:15)
59.  黒い十人の女
ファーストシーン、光と影のサスペンスであると同時に、女がぞろぞろと歩いているどうしようもないおかしさ、見てるほうとしては、まだどういう設定か分からないんだけど、市川さんの映画だなあ、とシミジミ思わされる。働く女性ってのがかなり定着してきた時代(翌年に鈴木英夫の『その場所に女ありて』)。それまでの養い・養われる、という男女の定型が崩れ出してきた。これ見ると、男のほうは仕事の手順忘れていたりして、女のほうがギラギラ働いている。なのに男にはまだメンツがあって、そこらへんに悲喜劇が生まれる。あるいは、女は男によく優しさを求めるけれど、優しい男とはこういう残酷もある、って言っているのか(「誰にも優しいってことは、誰にも優しくないってことでしょ」)。でそれを上回る残酷を、女が優しさとして発揮した、というストーリーなのか。とにかく和田夏十のそのシニカルさを徹底した視線が感じられる。宮城まり子の存在が、ちょうど『鍵』の北林谷栄を思わせ、ゴタゴタやってるのを外から見る者としての役割りを担っていたよう。最後に二人が自閉的に籠もってしまうってのは、なんとも不気味。二人で向かい合って喋るシーンが多かったなあ。
[映画館(邦画)] 7点(2012-09-24 10:21:01)
60.  拝啓天皇陛下様
日本の戦争映画では学徒兵などインテリを主人公にしているのが多く、いかに彼らが古参兵にいじめられたかを繰り返し描いてきた。そもそも兵隊の記録がインテリによって綴られてきたせいで、軍隊の大半を占めていた農民あがりの兵の視点が弱く、もっぱら悪役として扱われるパターンが出来てしまっていた。本作はその偏向を是正する作品。元学生にとってはキツかった軍隊生活も、食うや食わずの元農民にとっては極楽だったという視点、イデオロギーではなく極楽の采配者としての天皇への帰依。そういう視点の新鮮さはいいのだが、それが十分に生かされていたかどうか。エピソードに分解されたあれこれはあまり新鮮でなく、インテリの記録とさして違わなかった気もする。けっきょく記録を採ったのはインテリの作家の語り手によるわけで、そこらへん仕方なかったのか。こういう視点からもっと戦争を深くえぐれる映画が生まれた可能性もあっただろう(極楽の軍隊に馴染みすぎたせいで、戦後の日常に不適応になってしまうあたり、もっと突っ込めなかったかな)。渥美清と藤山寛美という東西の天才喜劇役者を揃えたのに、なんかもったいない使い方をしている(あの授業のエピソードはいいんだけど、この顔合わせで期待させるものとは違うんじゃないか、という気分)。嬉しいのは当時の映画を回顧するシークエンス、水中撮影でやっているのが『与太者と海水浴』。これは高峰秀子が男の子を演じたうち残っている数少ない一本。豚を追いかけているのが『子宝騒動』。斎藤寅次郎のサイレントコメディの水準の高さを現在に伝える貴重な作品。二本ともフィルムは揃って残っているので、機会があれば御覧になれます。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2012-09-10 09:52:28)
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