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鉄腕麗人さんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

プロフィール
コメント数 2593
性別 男性
ホームページ https://tkl21.com
年齢 43歳
メールアドレス tkl1121@gj8.so-net.ne.jp
自己紹介 「自分が好きな映画が、良い映画」だと思います。
映画の評価はあくまで主観的なもので、それ以上でもそれ以下でもないと思います。

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721.  ガメラ 大怪獣空中決戦
1981年生まれの怪獣映画ファンにとって、「平成ガメラシリーズ」は、ある部分においてゴジラ映画以上に愛着とリスペクトを感じている怪獣映画である。 シリーズ3作品のクオリティーの平均値は、極めて高くて、改めて見返してみるとやっぱり面白い。 金子修介監督が生み出したシリーズ各場面でのビジュアルセンスは、ゴジラ映画にはない新機軸を打ち出している。 破壊された東京タワーに巣食うギャオスを映し出した夕景など格好良過ぎる。  今夏公開されたハリウッド版「GODZILLA」が、良い意味でも悪い意味でも「ガメラ」寄りだったので、今一度この「平成ガメラシリーズ」を鑑賞しなおしてみることにした。  群衆の中でやたら目立つ“ヴェルディ川崎サポーター”の存在感が顕著に表しているが、90年代ど真ん中の時代性がもはや懐かしい。 その時代性にある意味ハマっている二人のヒロインの“大根ぶり”は、失笑を超えてむしろ微笑ましい。中山忍の見事な棒読みは、堪能すべき今作の味わいだろう。  昔は、科学的存在のゴジラに対して、神話的存在のガメラのキャラクター性が今ひとつ好きになりきれなかったけれど、改めて見直してみると、先駆者ゴジラに対してのオリジナリティーとして、その方向性は正しかったと思える。  爆風スランプのエンディングテーマ「神話」も最高!
[CS・衛星(邦画)] 7点(2014-09-10 23:42:02)
722.  LEGO ムービー
「LEGO ムービー」なんてタイトルを見知った時点で、「なんだこのチープな企画は……」と早々に鑑賞対象外にしてしまったことを激しく後悔しなければならなかった。  子ども時代の僕が、“LEGO派”ではなく、“ダイヤブロック派”だったから……というわけではなく、このタイトルで、そのまんまブロック玩具で構築された映画が、まさかこんなに面白いとは思えなかった。 (まったく、これだけ映画を観てきておいて、自分自身の浅はかさがいやになる……)  序盤は、LEGOの人形そのままの主人公がひたすらにカクカクと動く描写がただチープに見えてしまう。 なんだ、やっぱりLEGOファンによるLEGOファンのためだけの映画か……とトーンダウンしそうになる。 しかし、次第に、LEGOというブロック玩具の世界観を、実際のリアルな玩具で再現出来得るだろう範囲内で、際限なく広げていく様に、驚き、ついには唖然としてしまう。  実際この映画はフルCGによるアニメーションなのだが、映し出されるブロック玩具の質感はリアルそのもので、アナログ感に溢れ、フルCGであることに逆に驚きを感じた。 立ち並ぶビル群、荒野、天空世界、海原、宇宙……そのすべてが本当にブロックのみで表現されていて、そのビジュアルは圧巻の一言に尽きる。  そして、すべてをリアルで精密な“LEGO描写”で構築された世界に隠された意図。 描き出されたテーマは、決して子どもだましではなく、自己と他者の関係性を導き出したあまりに普遍的で深い人間同士の在り方だった。 ストーリーテリングと映画の世界構造の巧みさに脱帽するしか無かった。  とはいえ、“LEGO”というおもちゃそのものは、まず子どものためにあるべきだろう。 子どもたちは、「すべてはサイコー♪」とごきげんな歌を口ずさみながら、主人公たちのアドベンチャーを心から楽しんでほしい。  すなわちこの映画の根幹にあるものは、子どもの想像力と大人の想像力の融合なのだと思う。 それはあまりにハッピーなイマジネーションの結晶だったと言える。
[ブルーレイ(吹替)] 9点(2014-09-03 00:06:18)
723.  スノーピアサー
韓国が誇る名匠ポン・ジュノの世界進出作品として、期待は高く、是が非でも映画館で観たかったのだけれど、地方の映画館では公開されず悔しい思いをした。ヒットに伴う順次公開を望んでいたのだが、どうやら興行成績的にも振るわなかったようで……。 思ったよりも良い評判も耳にすることがなかったので、失敗作なのかと危惧もしていたけれど、いざ観てみれば何のことはない、しっかりと面白かった。というよりも、しっかりと“変な映画”だった。流石、ポン・ジュノである。  SF映画としても、サバイバル映画としても、“ほころび”は多いが、それを補って余りあるポン・ジュノ監督らしい独特の“痛み”が全面に押し出されたエモーショナルなディストピア映画に仕上がっていたと思う。  舞台は近未来、進退窮まった地球温暖化を食い止めるために或る化学薬品が世界中に散布され、結果地球全土が雪と氷に覆われてしまった世界。生き残った僅かな人類は、永久的に世界中を巡り続ける列車“スノーピアサー”に乗り込み何とか生き延びている……。 という舞台設定は、何とも荒唐無稽で漫画的だ。それもそのはず原作はフランスのグラフィックノベルなのだから当然のことだろう。 原作は勿論未読だけれど、フランス産のSFグラフィックノベルの退廃感と絶望感は、この監督の作風に良い塩梅で合致したのではないかと想像できる。  列車の最後尾から先頭車両へ向かう闘いの中で、主人公が目の当たりにした“真実”の絶望と虚無は、そのまま現実世界の“真実”と重なり合い、とても心苦しく、おぞましい。  あまりに絶望的な真実を突きつけられた主人公は、そのまま虚無の深淵に陥りそうになる。 しかし、ぎりぎりのところで留まり、“希望”を繋ぎ止めようとする。 その様は確かに安直で、真実を携え生き続けてきた者から見れば、愚かにすら見えたろう。 ただ、「素敵だね」と、嘲笑を携えつつ発した最期の一言には、一抹の安堵感も垣間見れた。  どの場面においても突っ込みどころは多く、咀嚼し切れない“異物感”は終始感じる。 その“異物感”こそが、文字通りに地獄のような世界を生き続ける人間たちの殆ど崩壊しかけている精神を描き出したことの証明だとも思える。  それにしても、アカデミー賞女優ティルダ・スウィントンは、ほんとうに汚れることも老いることも惜しまない女優だな。
[ブルーレイ(字幕)] 8点(2014-08-31 22:56:08)
724.  アナと雪の女王
ついに“本性”を他者に知られてしまった女王が、失意の中走り出す。 港湾の海面を一歩ずつ凍らせて、雪の中にに消えていく。 とても悲しく、でもあまりに美しいこの序盤のシーンを観て、この映画は“アメージング!”その一言に尽きると思った。  物凄い興行成績を叩き出している大ヒットぶり自体は、明らかに大衆の過剰反応だと思えたので、必然的に超ロングラン公開を横目に結局劇場鑑賞は敬遠してしまった。 ただその流行ぶりはやはり物凄く、どれくらい凄いかというと、当然映画なんて観てもいない3歳の愛娘が、「ありの~ままで~♪」と歌い出すほど。 そんなわけで、愛娘に見せてあげたい気持ちも先行し、レンタルショップに走った次第。  大ヒットの要因は誰が観ても明らかで、一にも二にも音楽とビジュアルのクオリティーの高さだろう。 主題歌「Let it Go」は、その音楽性も、綴られるメッセージ性も含めて、名曲が溢れるディズニー映画史上においても屈指の名曲だと思える。 音楽とビジュアルでこれほどの満足感を世界中に与えられた時点で、その映画的な価値は揺るがないだろう。  一方で、描き出されるストーリー性も、クラシックストーリーの中に常に「時代」を映し出してきたディズニー映画らしく、新たな価値観が導き出されている。  個々人の「特性」をオープンにすることの難しさと、正しさ。 ディズニーの新たなマスターピースが描き出したストーリーのテーマは、恋物語でも姉妹愛でもなく、“固定観念からの脱却”そのものだったと思う。  お姫様が幸せになるために“王子のキス”なんて必要ではない。 この時代において必要なことは、自分と異なる他者を寛容することと、自分の運命は自分で決めるという意志だということを高らかに宣言しているように思えた。  個人的には、もっと女王が悪役に陥る淵まで描いても良かったとは思うし、ラストの顛末などはあまりに御都合主義だと思う。 「少しも寒くないわ」と氷の中に閉じこもろうとする女王の様は冷ややかではあるが、とても魅力的だった。 彼女が彼女らしく盲進する様をもうしばらく描いて、そこから彼女自身が妹を含めた他者を寛容する様を描き出してくれたなら、この映画はもっと感動的になったと思えなくもない。   ただし、そんなことは、ようやく作品自体も観た上で「ありの~ままで~♪」と得意気に歌う愛娘にはどうでもいいことだ。
[ブルーレイ(字幕)] 7点(2014-08-31 13:35:44)(良:1票)
725.  her 世界でひとつの彼女 《ネタバレ》 
とどのつまり人はみな孤独である。 ただそこには同時に、人はみな何かに寄り添い生きていくことしか出来ない、という逆接的な意味合いを孕んでいると思う。 独りでは生きていけないからこそ、「孤独」という状況に対して過敏に反応し、失意に暮れるのだろう。 「喪失」を携え、“親友”の男と女が肩を寄せ合い、夜景を眺めるラストシーンを見送り、エンドロールを眺めながら、まずそういうことを思った。  “男”が望み欲したものは、必ずしも新しい恋などではなかったと思う。 この物語は、もちろんラブストーリーであるとは思うけれど、それはあくまで一側面で、その領域はもっと広く、一人の人間の人生観そのものを描き出していると思えた。  また、お洒落で洗練されたビジュアルに覆われているけれど、この映画の確固たるSF性の深さも興味深い。 “人格”を持つまでに進化したOSの「彼女」。“声”のみのキャラクターに過ぎない彼女の存在感が、男との関わり合いが深まりにつれより一層に際立ってくる。 プログラムが進化し人格を持つという科学的空想は、もはや絵空事とは言えず、とても身近なことに思える。 果たして「彼女」が辿り着いた結論は、プログラムが明確な「意志」を持ったことの表れであり、その描写はとてもとても深淵で、科学的な神秘性に満ち溢れていた。  主人公の男は、実は、元々決して不幸なわけではなかった。 愛した妻と別れなければならない状況であったとしても、仕事上では信頼を受け、心を許せる親友もいる。 でも、人は誰でも「孤独」と隣り合わせで、ふとしたきっかけでそれに覆い尽くされる。  そんな時に出会った「彼女」との出会いと別れは、誰かと寄り添い生きていくという、人間の脆さと素晴らしさを再確認させてくれたのだろう。それはきっと幸せことだったと思う。  「何かに寄り添い やがて生命が終わるまで」 とは漫画「寄生獣」の最後の言葉だが、この映画の“サマンサ”と寄生生物“ミギー”が選んだ道には、とても似通ったものを感じた。  世界中の誰しもが人生の中で幾度も味わうであろう、心の「喪失」と「修復」。 本来同時進行ではあり得ないその心情の機微を、等しく、あまりに眩く描き出した傑作だと思う。
[映画館(字幕)] 9点(2014-08-31 12:42:34)(良:1票)
726.  96時間 リベンジ 《ネタバレ》 
“超神経質最恐親父活劇”第二弾。 完全な二番煎じではあるが、前作が生み出したオリジナリティは継承されており、その部分の娯楽性だけは評価できるし、アクション映画はそういう娯楽要素があればそれでいいとも言える。  そのオリジナリティとは、もちろんリーアム・ニーソン演じる主人公の“親父(元CIA)”の超絶なキャラクター性に他ならない。 愛娘の運転練習のために迎えに行くという日常から、その超神経質な精神は張りつめられ、ただ一カ所のウィンドウのくもりも、一秒の遅刻も許さない彼のスタンスは、明らかに「異常」と言ってしまっていい。 ただし、その途切れることが無い危機管理意識が、「危険」との邂逅の瞬間に何の迷いも無く発動され、ピンチを乗り越えてゆく。  突如巻き起こった危機に、本来何の事前準備も無い状態から、どう対処し、どう回避していくかということをつぶさに映し出す描写こそが、このシリーズのハイライトであり、クライマックスで悪を駆逐しく様自体は、はっきり言って“おまけ”と言ってしまっていい。  そういうある意味割り切った構成が今作のオリジナリティである一方で、やはり”それだけ”という希薄さが残ることも事実ではある。 特にこの第二作については、登場する悪党の規模も前作に対して明らかにトーンダウンしてしまっているので、終盤に欠けての迫力の無さは欠陥と言わざるを得ない。  前作から引きずった“憎しみの螺旋”を結局断ち切れぬまま、映画は軽薄なハッピーエンドを迎える始末。 もしかして、今度は“孫”まで登場させる第三弾を目論んでるんじゃあるまいな……。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2014-08-17 22:35:49)
727.  終戦のエンペラー
69回目の終戦記念日に、この映画を観たことには、意味があったと思える。 つくづく思うことは、やはりこの国の人々は、自国での「戦争」のことを知らな過ぎるんではないかということだ。 知らないというよりも、目を背け続けていると言う方が正しいかもしれない。 戦争体験者も、未経験者も、まるで持って生まれた「体質」が無意識にそうさせているように、言及し、追求することを避け続けているように思える。 それは、時間の経過と共に、より一層に“語り継ぐ”ということの重要性が叫ばれている今となってもだ。 体験としての悲劇が語られる場合はまだ多い。しかし、なぜあの戦争が起こったのか、なぜあの戦争が終わったのか。その核心的な部分については、まだまだひた隠しにされている「事実」が多過ぎるように思わざるを得ない。  それが、この映画の主題としても描かれる、日本人の性質に直結するものかどうかということも興味深いし、一つの可能性として描かれる「史実」もとても興味深かった。  昭和天皇とマッカーサー元帥並ぶあまりに有名な一枚の写真。 あの不穏さと互いの所在なさを感じる歴史的な写真の裏に隠された事実は何だったのだろうか。 日本という国にとって、マッカーサーとはどういう人間だったのか。 日本人という民にとって、天皇“裕仁”とはどういう人間だったのか。  この映画で描かれている物語が総て真実だとは思わない。 しかし、この国が守り続けた美徳も、それに伴う愚かさも、その描かれ方は、決して過剰なわけではなく、確かな一側面を描いていると思える。  そういう意味で、この映画の演出、俳優たち演技は、それぞれ真っ当だったと思う。 ストーリーテリングや編集に稚拙さを感じることは禁じ得ない。 でも、多くの人が“タブー”として目を背けがちである事実を、アメリカと日本の人々が供託して追求したことの価値は高いと思う。
[CS・衛星(邦画)] 7点(2014-08-17 10:13:19)(良:1票)
728.  脳男
日本の大作映画特有の不細工なエンターテイメントなんだろうとスルーを決め込んでいたのだが、ドハマリ中の“二階堂ふみ”目当てに鑑賞。 粗や難点は多いけれど、それを補って余りある娯楽性に溢れいていた。江戸川乱歩賞受賞作が原作らしく、想像以上にエキセントリックな物語の世界観は見応えがあった。(二階堂ふみの畜生ぶりも、想像以上にエキセントリックだった!)  原作は未読だが、映画化にあたり生み出されたオリジナルのキャラクター設定が効いていたと思う。 悪役の性別を男性から女性に変えるなんて、普通は失敗しがちなんだけれど、今作に限ってはそれが功を奏し、主人公である“脳男”との合わせ鏡としての対比が際立っていた。  そして何と言っても、主演の生田斗真のパフォーマンスは素晴らしかった。 絞り込まれた肉体と、無機質且つ美しい無表情は、“脳男”という「異質」を表現するに相応しく、彼以上の適役は居なかったろうと思わせる。 一瞬の微笑から再び深い無表情へと移り変わるラストカットは見事だった。  全体的なテンポの悪さと少々あざと過ぎる演出には改善の余地があるとは思うが、メリハリの効いたアクションシーンと、思わず目を背けたくなる程ハードな残酷描写には、日本映画らしからぬ迫力があった。  というわけで、国内の娯楽大作映画としては近年で随一の出来映えと言っても過言ではなく、大いに楽しめたことは間違いない。  個人的には、二階堂ふみと太田莉菜の“糸引きディープキス”が見られただけでも、この映画の価値は揺るがない!
[CS・衛星(邦画)] 8点(2014-08-15 01:08:29)(良:2票)
729.  GODZILLA ゴジラ(2014) 《ネタバレ》 
神々しくそびえ立つ巨躯。体の髄にまで響き渡る咆哮。 満を持してスクリーンに甦ったそれは、まさに「怪獣の王」と呼ぶに相応しく、その存在感は圧倒的だった。 この極めて完成度の高い映画が、映画史上最高クラスの「怪獣映画」であることは、間違いないと思う。 日本が誇る「怪獣」と「特撮」を、ハリウッドの最前線の精鋭である映画人たちが、多大な“リスペクト”をもって甦らせてくれたことに、先ず感謝したい。  「怪獣映画」として、絶賛は惜しまない。 しかし、絶賛の上で、ただ言いたい。  これは……、「ゴジラ映画」ではない。   最大の違和感は、ゴジラが「何もの」であるかということに対する認識のズレだろう。 今作では、絶対的な存在感を誇るゴジラが、その存在感のまま神格化され、文字通りの地球の「守護神」として描き出されている。 この映画単体においてみれば、ストーリー的な違和感はない。 しかし、これが「ゴジラ映画」というのならば、その描かれ方は致命的な欠陥と言わざるを得ない。  ゴジラという怪獣は、“核の化身”でなければならない。 他の怪獣がどうであろうとも、ゴジラだけは決して“古代生物”などであってはならない。 人類自身が生み出してしまった災厄である「核」。その「権化」でなければならないと思う。  ゴジラはいくらその姿が強烈な畏怖の対象であり神々しくあろうとも、決して神格的なものなどではないし、あってはならない。 なぜならば、ゴジラは人類の「業」そのものであり、愚かな人類にとっての合わせ鏡の如き存在でなけらばならないからだ。  だからこそ、人類は圧倒的な力の差を見せつけられようとも、強大なゴジラに立ち向かい続けなければならない。 だからこそ、時に己の身を賭してでも、ゴジラ(=人類)の暴走を止めなければならない。  「ゴジラ映画」におけるスペクタクルとは、圧倒的で悲劇的な「破壊」と、その破壊を生み出してしまった人類が自戒を礎にし、己に打ち勝とうとする様にこそ生まれるべきだと思うのだ。 それこそが、“戦争”と“核”、そして自らの“驕り”によって一度叩き潰された国が、再び進み出すために生み出した“エンターテイメント”だったと思う。  だから、そういう「精神」が根本的に欠けていたこの映画は、少なくとも僕にとっては、「ゴジラ映画」とは言い難い。
[映画館(字幕)] 7点(2014-08-10 00:13:46)
730.  思い出のマーニー
鉛筆が折れる。坂道を転がり落ちる。水辺のぬかるみにはまる。平坦な道で転ぶ。 12歳の少女は、ほとんどすべての場面で何かしらの“失敗”をしてしまい、益々自分の中に閉じ篭る。 でも、彼女はその小さな失敗を繰り返す程に成長し、少しずつ新しい世界に踏み出していく。 それはあまりにありきたりな成長譚のプロットだけれど、映し出された映画の世界観はただただ瑞々しくて不可思議。そして忘れられない美しい物語を紡いでいた。  大した期待もせぬまま、予備知識も殆ど入れずに雨の中、レイトショーを観に行った。 ふいに出会った少女たちの一夏の友情を描いたよくある話なんだろうと思っていた。 大筋は間違ってはいないし、似たような話は知っている筈だけれど、まったく新しい「世界」に触れられた気がした。 そう思えるくらいに、このアニメーション映画の表現は新鮮味に溢れ、かつ叙情的だった。 スタジオジブリが輩出した新しい才能は、見知ったジブリ色を根底に敷きつつも、新しい水の色、新しい太陽の色、新しいジブリ色を導き出してみせたと思う。   「あなたのことが大好き」 ふいに出会った少女二人。それぞれに悲しみと憂いを携えた彼女たちは、ある種盲目的にそう言い切る。 はじめそのやり取りは少々稚拙で安直に見える。 記憶の中で幼女時代の主人公が抱える人形の背中が、それに拍車をかける。 結果、それは見事なミスリードだった。  「大好き」と言い切れることの真意。それが描き出されたとき、この映画がありきたりなファンタジーを超えた「邂逅」を描いていることを知り、涙が溢れた。   主人公の少女は、自分は「普通」に生きられないと思っていて、「普通」という輪の外側にしかいられないと思い込んでしまっていた。 きっとそれは、彼女の辛い過去に起因するばかりではなく、誰しもが辿る思春期の少女の葛藤だろう。 一夏の“思い出”と、長らく封印されていた“記憶”がリンクしたとき、その思い込みは解放され、鉛筆書きだった彼女の絵には鮮やかな色彩が生まれた。   「なんだ、良い映画じゃないか」 降り続く夏の雨の中、家路に就きつつそう思った。
[映画館(邦画)] 9点(2014-08-03 15:05:40)
731.  デンジャラス・ラン
冒頭のタイトルバックで初めてこの映画の原題が「Safe House」だと知る。 諜報機関の“隠れ家”であるセーフハウスの管理人(という役割を与えられているCIA職員)が主人公という設定はフレッシュで面白いと思った。 もっとそのフレッシュさと特性を生かして、セーフハウス自体を軸に物語を展開させられたなら、遥かにオリジナリティに富んだ映画になっていたかもしれない。 もはや敢えて怒りはしないが、邦題の付け方は相変わらずダサい。デンジャラスって……。  とはいえ、そういう苦肉の邦題を付けたくなる気持ちも分からなくはない。 “管理人”という設定を見せ終わってからは、ただただありきたりな逃亡劇が延々と続く。 ヨハネスブルグをを舞台にした逃亡シーンでは、独特の煩雑さとじっとりとした空気感が、切迫さを助長していたとは思うけれど、ストーリーに特筆する程の工夫が無いのでやはりダレてしまう。  デンゼル・ワシントンは、ここ数年すっかり板に付いた印象のあるでっぷりとふてぶてしいキャラクターを安定した演技力で見せてくれるが、その演技プランももはや新鮮味には欠け、彼の名優としての実力を踏まえれば、手抜き感は否めない。 彼が演じるキャラクター的には、最後までその謎めいた不穏さを貫き通してほしかったと思う。  最も腑に落ちなかったのはラストの顛末。 CIAの下級職員だった主人公は、絶体絶命の危機を生き抜き、諜報員として得難い「経験」をしたとは思う。 しかしだからと言って、蓄積された実績がまるでない主人公がラストシーンのその後を生き残れるとは決して思えない。 愛した見納め格好良く去った次の瞬間に頭を撃ち抜かれてるんじゃないかとすら思ってしまう。  まあ適度に緊張感はあるし、アクション映画としてのスピード感も悪くは無い。 暇つぶしには適当な映画だとは思う。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2014-08-02 00:39:09)
732.  ゴジラVSデストロイア
初鑑賞時は、「ゴジラ死す」と触れ込んでおいて、前々作から登場させておいた“リトルゴジラ”にちゃっかりと引き継がせる顛末に、裏切られた印象を持ってしまったが、その後何度か鑑賞しなおしてみると、これはこれで悪くないと思えるようになった。  むしろ、1954年の第一作「ゴジラ」へのオマージュとリスペクトをしっかりと掲げ、「平成VSシリーズ」の明確な区切りを付けた今作の在り方は、とても正しく、はっきりと「良作」と言えると思う。  キャッチコピーに偽りは無く、第一作目に次いで二作目の“ゴジラの死”を明確に描いたゴジラ映画としても、その価値は高いと言える。 そして何よりも、暴走する体内の核エネルギーで赤く発光するいわゆる“バーニングゴジラ”のビジュアルは、極めて破滅的であり、格好良い。  そのゴジラの最期に対峙する怪獣が、“1954年”に芹沢博士が自らの命を賭してゴジラを葬った際に使われたオキシジェン・デストロイヤーが生み出した新怪獣であることも、何とも皮肉で、何ともドラマティックだ。  一方で、人間描写もなかなかいい。 物理学者を主人公に配し、第一作の山根博士の子孫をメインキャラクターに据えた構図は、“1954年”とのリンクをより効果的に成している。第一作でヒロインを演じた河内桃子を同じ役で再登場させるあたりは、新旧のゴジラ映画ファンを喜ばせるキャスティングだったと思う。 (平成VSゴジラシリーズの“心のヒロイン”三枝未希の最終作であることも忘れてはならない)  そして自衛隊の活躍も外せない。 敵う筈も無い相手に無謀だろうが何だろうが挑み続けたことこそが、東宝ゴジラ映画における自衛隊の意地と誇りだったろう。今作ではその長きに渡る苦闘の日々がついに報われている。 過去2度に渡り撃墜された“スーパーX”は三号機にしてついにゴジラを最後まで苦しめ、無事に帰還する。それに乗り込んでいたのがあの“黒木特佐”であることが殊更に胸熱だ。 さらには、破壊され続けてきた“メーサー車”が、冷凍レーザー仕様でついにゴジラを追い詰める。 いやあ最高。  と、ついつい長くなってしまう。 大部分において陳腐な描写や展開も多く、冷静に観れば決して褒められた映画ではないとは思う。 しかし、特に平成ゴジラ世代のゴジラ映画ファンにとっては、見れば見るほどバーニングゴジラよろしく熱くなるゴジラ映画だと思う。
[映画館(邦画)] 8点(2014-08-01 23:42:06)
733.  ゴジラVSキングギドラ
(高笑いw) それで勝ったつもりか! 我々は、コンピューターもキングギドラももう要らない! 代わりにゴジラが我々の目的を達してくれる。 核兵器の信奉者どもが復活させたゴジラによって、20世紀のニッポンは叩き潰されるだろう!   というチャック・ウィルソンのセリフの物真似を仲間内での飲み会の鉄板ネタにしている奴が他にいるだろうか。いるわけがない。 「VSビオランテ」に続き、自分が子供の頃のタイムリーなゴジラ映画として、今作への愛着も極めて高い。  チープな未来人設定、強引なタイムパラドックス展開に対してイチャモンをつける人も多いようだが、それはこの映画の本質を分かっていない。  今作で初めてタイトルにもその名が冠された“キングギドラ”が登場するゴジラ映画である以上、チープなSF描写は何を置いても必要不可欠な要素であり、作品全体から醸し出される“B級感”こそが、ゴジラ映画もとい“キングギドラ映画”の味わい深い「伝統」なのだ。  そして、このゴジラの最大のライバルとも言える宇宙怪獣の特性として、常に“誰かに操られる”ということも外すわけにはいかない。 過去の登場作においても、キングギドラは常に金星人やらX星人やらに操られてきた。その絶対不可欠な性質を、今作はストーリーに合わせて巧く利用している。 中盤では謎の未来人に操られ、クライマックスでは“メカキングギドラ”となり文字通り操作(操縦)される。  「三大怪獣 地球最大の決戦」のキングギドラ初登場シーンを彷彿とさせるメカキングギドラの帰還シーンなど、まさしく“キングギドラ愛”に溢れたゴジラ映画だと言える。  前作ではスーパーX2のオペレーター役という完全な脇役だった豊原功補が主人公に抜擢され、決してゴジラ映画の主人公らしくない軽妙な存在感を見せてくれたり、冒頭のセリフを堂々と言い放つチャック・ウィルソンをはじめ外タレの何とも言えないパフォーマンスがクセになったりと、キャストも色々な意味で特徴的で良い。  特に、新堂会長を演じた土屋嘉男がたまらない。往年の東宝特撮映画には欠かせなかった名優の久々のゴジラ映画復帰には、それだけで涙ものだったファンも多いはずだ。 新堂会長が一人ゴジラと対峙する最期の場面は、今作のみならず、ゴジラ映画屈指の名シーンだろう。 
[映画館(邦画)] 9点(2014-07-25 00:14:04)(良:1票)
734.  ゴジラVSビオランテ
1981年生まれの自分にとっては、今作こそが物心ついて初めて“鑑賞”したゴジラ映画であり、だからこそ思い入れが強い部分も大いにあろうが、ゴジラシリーズの「最高傑作」という個人的な評価が揺るがない作品だ。  “VSビオランテ”と銘打たれてはいるが、この映画の構図は、まさしく“ゴジラVS人間”であり、大怪獣を生み出してしまった人類そのものの葛藤が主題となっていることが、「怪獣映画」として秀逸な要素だと思う。  愛する人を失った喪失感に伴い天才科学者が怪物を生み出してしまうというストーリー展開は、古くは“フランケンシュタイン”以来のSF的古典であり、人間の破滅を描く上での王道であろう。 弱き人間は、一時の悲しみや恐れにより、数多くの悲劇を生み続けてきた。 戦争、差別、貧困……、人間社会の悲劇は、常に人間そのものが導き出してきたものだと思う。  1954年に生まれた「ゴジラ」という怪獣映画は、ゴジラという大怪獣そのものの恐怖と同時に、人間自体の恐怖と愚かさを描いたからこそ、世界中の人々にとって衝撃的だったのだと思う。 そういったこの怪獣映画の精神みたいなものをきちんと汲み、新しいドラマを生むことに至ったことが、今作が成功した最大の要因だと思う。  “VS人間”という構図においては、登場人物のキャラ立ちが見事だった。 正義感に溢れた主人公とヒロインを中心に、方向性を見誤った天才科学者、国防に尽力する叩き上げの自衛官に、若きエリート士官、そして超能力少女。 それぞれのキャラクターがそれぞれの役割を全うし、群像を構築しているからこそ、今作は何度観ても面白味に溢れているのだと思う。  そして勿論、ゴジラそのものの造型の格好良さも素晴らしい。 対峙するビオランテも含め、強大で恐ろしさに溢れる大怪獣の造型に辿り着いたことこそが、シリーズ全体における今作の価値を更に高めている。
[CS・衛星(邦画)] 10点(2014-07-23 23:05:57)
735.  私の男(2013)
“女”にとって、“男”は、ほんとうに、純粋に、暗く空いた心の隙間を埋めるためだけの、“詰め物”だったのかもしれない。 精神が歪んでいるわけでも、感情が欠如しているわけでもない。 むしろ逆だ。 あまりに真っすぐに、あまりに直情的に、自分に“無いもの”を求めた結果だ。  不条理であり、おぞましさすら感じる。 しかし、その激情を表す言葉はやはり「愛」以外にはあり得ない。   「あれは私の全部だ!」と、“女”は叫ぶ。  もう、この咆哮にすべてが表れている。 文字通りの死の淵から、“空っぽ”の状態で生き延びた少女は、「必然的」に現れた“男”で、その空洞を埋め尽くしていったのだろう。  “女”が“男”で満たされるのにそれほど時間はかからず、同様に“男”も“女”で満たされていく。 「秘密」が誰に暴かれようが暴かれまいが、それを誰に非難されようが非難されまいが、最初から最後まで彼らの世界には、二人しか居なかったのだと思える。  何かがほんの少し違っていれば、辿り着いた場所はもう少しマシだったのではないか……と、僕自身を含めて、他人は思う。しかし、そんな他人の思考はあまりに無意味であることに気づく。 “男”の台詞に表れているように、彼らがほんとうに望んでいたことと、彼らが辿った運命は、少しずつ確実に乖離していったのかもしれない。 それでも、彼らはああやって互いの命をつないでいくしかなかったし、あの先もああやって生きていくのだろう。   ドヴォルザークのメロディーが夕刻を告げるチャイムとして流れる中、“女”が数日ぶりに帰ってきた“男”を迎える。 映画の展開的には、まだ物語が劇的に転じる前の何気ないシーンとして映し出されているが、おそらくはこの映画の中で最も重要なシーンだったろう。  誰も知らない二人だけの世界。孤立感と、それ故の多幸感。 そして彼らの背景に染み渡っているような不穏さと背徳感。  でも、たまらなく美しいこのシーンを忘れることはできない。
[映画館(邦画)] 10点(2014-07-21 07:46:34)(良:1票)
736.  ゴジラ(1984)
1981年生まれの映画ファンとしては、1984年公開の今作こそがゴジラ映画の“デフォルト”であると言える。おそらくはゴジラ映画ファンの親に連れられて行った映画館で鑑賞したと思う。  もちろん僕自身もゴジラ映画ファンだが、ファンだからこそ、歴代のゴジラ映画の殆どが駄作揃いであることも認知している。 ただ、今作はその中でも数少ない「良作」と言える部類のゴジラ映画であると思っている。  “良いゴジラ映画”に共通することは、強大なパワーを有するモンスターであるゴジラに対して、非力な人類は、限られた可能性と科学技術を礎にした「知恵」で、ゴジラを退けるというプロセスが描かれているということだと思う。 今作においても、人類は、鳥の波長を利用した超音波装置でゴジラを“おびき出し”活火山に誘い込むという極めて地味な作戦で勝利をおさめる。  そして、何よりも欠かせないことは、ゴジラは人類の「敵」であるという大前提と、同時に人類の業の権化であるという「戒め」だと思う。  苦心の末、人類はゴジラを退けるが、後に残ったものは決して喜びではなく、ある種の悲しみと、自己嫌悪感だ。 それが、ラストシーンで、小林桂樹演じる首相と、夏木陽介演じる生物学者の悲哀に溢れた表情に表れている。  1954年のオリジナルに対するまさに原点回帰と言える今作の方向性は正しく、極めて真っ当なゴジラ映画であると言えると思う。  個人的には、内閣総理大臣を演じる小林桂樹の存在感が堪らない。  もちろん、武田鉄矢の見事な浮浪者ぶりも忘れてはならない。
[映画館(邦画)] 8点(2014-07-19 20:54:54)(良:1票)
737.  キック・アス ジャスティス・フォーエバー
衝撃の問題作でありながら、その類い稀なエンターテイメント性を世界中が“スルー不可避”だった前作「キック・アス」。 その待ちに待った続編に対しては、当然誰しもが、4年前の衝撃の再熱を期待しただろう。  前作で一躍若手女優のトップスターとなったクロエ嬢をはじめ、主要キャストをきちんと再結集させ、ジム・キャリー、ジョン・レグイザモら魅力的な新キャストを揃え、体制は万全だったと言える。 おそらく、前作の“二番煎じ”をすれば、大多数の観客は分かりやすく再び熱狂しただろう。  が、前作監督のマシュー・ボーンの後を引き継いだジェフ・ワドロウなる無名監督は、果敢にもその「既定路線」をハズしにかかった。 もしかすると、この続編に対して、前作ファンの多くは「愚かな」と否定するのかもしれない。自分自身、呆気にとられた感は否めない。  けれど、結果として大多数に受け入れられるか否かは別にして、この無名監督の挑戦(暴挙)は正しかったと思う。 別の言い方をすると、この「キック・アス」という映画素材において、「既定路線」と辿ることこそが愚かなことであり、どんな形であれ観客の思惑をハズしてなんぼということなのだと思えてならない。  前作の奇跡的な娯楽性に対してこの続編が遠く及ばないことは否定しない。 ただし、前作があってこそ描き出された今作であり、この映画世界が抱える本質的な魂みたいなものは決してハズレていない。ならば「続編」としてこれほど相応しい作品もないのではないかと思える。  詰めれば詰めるほど粗だらけの映画であることは間違いないし、そもそもこの映画の製作陣は“真っ当”に作ろうとなんて端からしていない。完全に独りよがりだったとしても、ただただ自分たちが作りたい(見たい)モノの構築に没頭している。  ならば観客は、前作の余韻を引きずりながら、前作にも増して歪な映画世界の中で再度クロエ・グレース・モレッツの「支配力」にただひたすらにうつつを抜かす。 それがこの映画の正しい鑑賞のしかただ。   ただし!ジム・キャリーの使い方はあまりに勿体なかった……。
[映画館(字幕)] 7点(2014-07-06 13:17:27)
738.  月曜日のユカ
主演女優のとろけるように柔らかで、愛らしく淫靡な唇に終始釘付けになる。  きっと誰が観ても明らかだろうけれど、この映画の見どころは女優「加賀まりこ」そのものだ。 ストーリーなんて追わなくても構わない。ただひたすらにこの女優の神がかり的な(いや、悪魔的なというべきか)可愛らしさに狂うべき作品だと思う。  “小悪魔”なんて形容はよく使われるけれど、この映画を観た後では、その形容はこの時代の加賀まりこのみに与えられるべきものだとすら思える。 そう妄信的に断言出来る程に、主人公ユカのすべての仕草が、恐ろしくなるくらいに可愛らしく、惹き付けられる。  一種のアイドル映画と言えなくもないが、その範疇にはとてもおさまり切らないインモラルな空気感は唯一無二。 観客が何を求めるかを見通すかのように、ひたすらに加賀まりこ演じるユカの表情のみを映し続けるカメラワークも見事だ。 何分間もの間、表情のアップだけでシーンを成立させてしまう“見映え”には、美貌に対しての欲情を凌駕して、ただただ惚けてしまう。  もしウッディ・アレンがこの時代の加賀まりこに出会っていたならば、きっと“ミューズ”の一人として、彼女の映画を撮り続けたことだろう。という妄想をして、思わずニヤリとした。  余談だが、加藤武が初老のパトロン役で出演しているのだが、この人この時代にそんな歳の俳優だっけ?と違和感を覚えていた。ちょっと確認してみると、当時35歳。おい、老け過ぎだろ。
[インターネット(字幕)] 8点(2014-07-06 13:06:15)
739.  渇き。(2014) 《ネタバレ》 
終幕。茫然自失。とりあえず、ペットボトルの水を喉に流し込んだ。 “潤い”を感じるのに一寸の時間を要した。 渇き切ったのは、喉か、心か。  善し悪しを判別する前に、”とんでもない”映画であることは確かだと思えた。 「劇薬エンターテイメント」というキャッチが示す通り、この映画は「猛毒」以外の何ものでもない。 映し出されたものは、絶望、絶望、そして絶望。 はっきり言ってそれ以外の要素は見出せず、クラクラする。  誰がどう拒否感を示し酷評しようとも、それを論破する論理は見当たらない。 「吐き気がする」と言われれば、「まったくその通りだね」と言う他ない。  しかし、だ。  己の理性が拒否し、目を背けたくなる描写が羅列される程に、自分の中で染み出すように生じている「高揚感」を感じ、身動きが取れなくなった。 体のあちらこちらの血圧が高まり、紛れもない「興奮」を覚えている自分自身を呪いたくなった。  その理由は明確だ。映画の中の誰でもなく、僕自身が“加奈子”という【悪魔】に魅了されてしまっていたのだ。  こつ然と消えた己の娘・加奈子を探し求める主人公。 演じる役所広司の脂ぎった表情が、娘の悪魔性が明らかになるにつれ油分どころか水分さえも消え失せ、渇いていく。 父親は娘の生存を終始望むが、その「理由」と「目的」は絶望と共に変わっていく。  この映画を拒否する人を否定するための論理が見出せないのは、この映画そのものに論理など存在しないからだ。 即ち、悪魔が悪魔であることに理由など無い。 言い換えれば、悪魔が悪魔であることに罪悪など生じる筈も無い。 “それ”が、娘であろうと、恋人であろうと、友人であろうと、教え子であろうと、出会ってしまった以上、憎むべきものは魅了された己自身と人生そのものだ。  この映画は、そういった嫌悪感も、おぞましさも、吐き気すらも“エンターテイメント”として悦楽に浸るべき作品なのだろうと思う。   拒否に対して決して擁護は出来ないし、心から薦めることも出来やしない。 ただし、コレがとんでもないものであることは間違いないし、ならば唯一無二の映画であることも否定しようがない。  この正真正銘クソッタレな映画に狂わずにはいられない。
[映画館(邦画)] 10点(2014-07-04 00:32:52)(良:2票)
740.  X-MEN2
超人勢揃いの娯楽映画を何故こんなにも陰気に描き出すのか?” “どうしてこんなタフさだけが売りの荒々しい爪男が主人公なんだ?”  というのが、初めてこの映画を観た時の感想だった。 原作コミックの持つ世界観や諸々の設定を情報としてまったく知らなかったので、表面的な娯楽性の乏しさに不満が先行し、個人的に駄作というレッテルを貼ってしまっていた。  しかし、映画シリーズにおける“新章”と言える「ファースト・ジェネレーション」「フューチャー&パスト」、そして“爪男”の出自を描いた「ウルヴァリン」を見終えて、すっかりこのアメコミシリーズのファンとなってしまった今となっては、かつて駄作と決めつけた今作の印象も一転した。  特に今作の場合、スピンオフ作の「ウルヴァリン:X-MEN ZERO」と連なる描写が多々あり、ようやく今作におけるヒュー・ジャックマン演じるウルヴァリンの主人公性が理解できた。(ストライカー大佐のビジュアルが違いすぎるのはいただけないが……)  アメリカン・コミック映画に総じて言えることだが、原作コミックには日本の漫画とはまたひと味違った“深み”があるんだろうと思う。「X-MEN」はもとより、「スパイダーマン」も「バットマン」も原作を一通り読んでみたいものだ。 
[CS・衛星(吹替)] 7点(2014-07-02 23:46:37)
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