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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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【製作年 : 1950年代 抽出】 >> 製作年レビュー統計
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81.  ジャイアンツ
西部劇はよく牧畜業と農業の争いをテーマにしたが、その後は牧畜業と石油業との争いになったわけか。あくまで牧畜業のほうから眺めるのが、カウボーイヒーローを持つアメリカの神話なんだろう。そしていつも「時代おくれ」なんだ。ジェットは登場のときから馬でなく車に乗っていて、石油産業への方向を暗示していた。そこに「嵐が丘」のヒースクリフ的な匂いも重ねて、歴史とメロドラマを二重写しにしている。あと東部と西部の対比もあり、牛の脳をガツガツ食べる西部で育つには、七面鳥を食べられない子どもは東部の血を引きすぎていた(だから育ってもD・ホッパーになっちゃう)。東の倫理が西の差別を是正していく、ってのはちょっと鼻についたけど、50年代の映画としては上出来なのか。どちらかというと連続ドラマに向いた話で、一本の映画としてはいささか大味。妹の結婚式の誓いの場で夫婦仲が戻っていくあたりとか、ひそかに恋するレズリーの残した靴跡からブツブツと石油の気配が滲んでくるあたりなどに、映画らしさがあった。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2012-01-11 10:05:56)
82.  花嫁の父 《ネタバレ》 
結婚式に至るまでの小ネタでつなげただけの家庭喜劇なんだけど、大らかな味わいが残る。やってることは伊丹映画と同じような視点なのに、この大らかさがどこから来るのか。時代がいいのか、特殊なもの・ユニークなものをピンセットでつまむように排除してある、その徹底ぶりか。WASPの社交世界の上澄みだけを、きれいに掬い取っている。そういうとこで現在からはいくらでも批判は出来るだろうが、コメディとしての充実ぶりには文句が言えない。恋人はあれかこれかと親父が想像していくあたりからすぐに引き込まれ、初めてバックリー君を窓越しに眺めて「あちゃー」となる展開。「妻が浮かれとる」などモノローグも的確。以後も調子が崩れず、バージンロードを巡る悪夢を抱きながら、娘には“頼り甲斐”を見せなければならない「父はつらいよ」の一幕もいいし、娘の晴れ姿を追いかけて混雑する家の中を駆け巡るあたりの滑稽な・しかし父の情愛の香り立つ描写まで、見惚れてしまった。いかにも平均的な家庭像を作ったのだろうが、母親がJ・ベネットなのね。たまたま私が知ってる映画がそうなだけかも知れないけど、あの人「妖婦」の印象が強かったので、この人でいいの? と思ってしまった。見てる分には気にならなかったけど。ああそうか、E・テイラーって別に妖婦役者ではなかったが、ちょっと突付けばあっさり淫蕩の側に転がるのではないかという気配を、上品さの中に秘めていた(私生活とは関係なく)。かえって普通の人を演じているときに、その裏にある妖しさで魅力を出した女優だった。ここで母子を演じたときにJ・ベネットの遺伝子を受け継いでしまったのではないか。映画ではそういう非科学的な遺伝がときに起こるのではないか。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2012-01-05 10:32:51)
83.  熱いトタン屋根の猫 《ネタバレ》 
近代演劇以前は、登場人物が観客へ向けて堂々とモノローグしたり、日本の歌舞伎では義太夫が内面を語ったりと、いろいろな表現手段があったが、そういうのはリアリズムに反して不自然と言うことなのか、イプセン以後はすべてを会話の中に封じ込めるようになった。それでどうなったかというと、別の不自然が生まれたわけだ。「普通言わないだろ」ということまで会話に盛り込まれる。演劇としてのドラマチックな効果を生むのは、熱のある会話=ののしり合いになっていく。すぐ激する、怒鳴る。これが近代演劇の弱点、と私は思っている。でもそういう演劇のののしり合いの迫力はやはり作品の勘所だから見事で、本映画でもそれを味わえる。とりわけ「心穏やかでない美女」というのはなぜか見るに心地よく、E・テイラーの形相を眺めているだけでうっとり出来る。映画として面白いとは言えない作品だが、E・テイラーに怒鳴られる快感は十分味わえた(君はそう怒鳴ってるけど、けっきょく僕のことが好きだから怒ってるのさ、と勝手にこちらのモノローグを入れて画面のE・Tを直視するのがコツ。ちょっと彼女の目線が左にズレるのが惜しい)。 ラストの収まり方がつまんない。あれじゃ兄夫婦だけが悪役になって見えてしまい(とりわけ兄嫁)、なんか全体の構図がスッキリし過ぎちゃあないか。せっかくあれだけののしり合ったのに、という物足りないさ。
[CS・衛星(字幕)] 5点(2012-01-01 10:35:35)(良:1票)
84.  羅生門(1950) 《ネタバレ》 
黒澤は『虎の尾を…』から『夢』まで屋外でのドラマを好んだが、とりわけ本作は徹底していて、おそらく屋根の下に座っているはずの取調べ役人は姿を見せず、調べの庭のみを映していく(このときの塀ぎわに控えている証人たちの姿の美的正確さ)。あとは森の中。屋内の停滞している空気を本質的に嫌ったのだろう。流動している空気と一緒に呼吸していたい気持ち。そういう空気の流れの中に多襄丸も侍も妻も投げ込まれ、それぞれの証言を演じさせられる。ちょっとした気流の違いで、証言は大きく変わっていく、屋外にいるとはそういうことなのだ。それまでに映画の起承転結の文法はいくつかの型を生み出していて、いわばソナタ形式のような定型が生まれていた。黒澤はそこに変奏曲形式を付け加えた。同じテーマが変奏されていく面白味。もちろんアイデアを生んだのは芥川だが、それを映画に持ち込めると判断したのは監督だ。本来記録する装置だったフィルム、無意識に信頼を寄せていたフィルムだからこそ生じる変奏の面白さは格別である。うるさいぐらい音楽が鳴り続けるのも、その4つの変奏を強調したかったんだろう(4つめは音楽抜きでかえって印象深い)。大きな門というモチーフも忘れてはならない。監督は繰り返し映画に大きな門を登場させ、そこを人が通過する物語を描いた(『赤ひげ』ではそこに青年が入るまでの、『影武者』や『乱』ではそこを老人が追放されるまでの、『隠し砦の…』ではそこを突破するまでの)。これもラスト、子を抱いた志村喬がその非情の大門を通り抜けたようにも見えるのだ。おそらく封切り当時、捨て子や通りすがりの強姦はもっと生々しく受け止められるモチーフだったろう。黒澤の作品の中では理知的で異色作だが、彼の表現様式が十全に提示された名作だと思う。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2011-12-05 10:19:01)
85.  空の大怪獣ラドン
理系のイメージ連鎖としては、炭鉱から石炭層、大昔の地質時代へとつながっているわけで、そこに現われる巨大ヤゴがロストワールドへの道案内となってラドンに通じていくってのは理屈では分かるんだけれど、ちょっと流れの悪い印象。文系的に見ると、地底の労働と地上の繁栄の対比となり、その地下的なものが地上へ反発する象徴としての怪鳥ということになる。どう見てもギクシャクした作りになってしまっているのは否めない、でもこの作品、都市の破壊シーンとしては私の知る限り、東宝特撮もののベストだ。怪獣が直接腕力でビルを叩いていくのでないので、壊れていく過程がよく見える。そしてなによりも名所でないのがいい。以後の作品ではシンボルとなる建築物を怪獣が一点狙いで襲うのが多くなるが、これでは福岡の街を面として破壊する。そして街の看板がいい。ただの直方体のビルではなく、看板が掛かっている私たちの身近な街が烈風によって壊されていく。乱れ飛ぶ看板や瓦、崩れていく民家の物干し台。火災も上手でちゃんとそれらしくゴーゴー燃えている(なのにラストの溶岩は実際の溶鉄を使ったそうだがショボく見えて残念)。あるいはこれは映画の手柄と言うより、時代の違いかも知れないな。新宿西口高層ビル群を初めて見たとき、何の看板もないノッペリした無愛想さに「これって怪獣にいい加減に壊されるための街じゃないか」と思ったものだった。
[DVD(邦画)] 7点(2011-11-26 10:07:28)(良:2票)
86.  アメリカの影
芸人、それも受けない芸人というモチーフは、監督のデビュー作から登場していた。慣れないジョークの練習をする。歌も本格的すぎて重く、ハショられてしまう。客との関係をうまく演じ切れない芸人。「演じること」へのこだわりは、監督の作劇法にも根ざしていて、おおむね役者に任せたって言うじゃない。演出するってことで(映画の)観客の期待におもねってしまう意識が入り込んでくるのを拒否したかったのか。観客との齟齬を感じる芸人を描くにあたって、そのドラマの演出から姿勢を決めてきている。ステージから降りても、人の暮らしは「演じること」に満ちている。「演じてしまうこと」と言ったほうが正確か。突然現われてくる人種偏見の凄味。妹が黒人青年にダンスパーティを巡って示す高慢な態度、これも「演じること」だろう。他人の存在になにやら作用を受けて、その当人が動かされてしまう。当人が動くというよりも、動かされる・演じさせられる。そういうふうに社会を眺めている監督なのだった。
[映画館(字幕)] 7点(2011-11-25 10:02:24)
87.  ライムライト
チャップリンというとペーソスとかセンチメンタルとかウェットな印象がまず来るが、個々の作品を見ると、『キッド』や『街の灯』のような作品でもけっこうシャープでドキッとする悪意を含んでおり、ベトベト甘いだけの作家ではなかった。でもセンチメンタルなものが嫌いだったわけではなく、一度そういうものにドップリ漬かってみたかったのではないか、そんなことを感じさせる映画だ。この作品に意義があるとするなら、その「湿っぽいもの」へ思いっきり身を投げ出している彼のいさぎよさだろう。本作で、もしシャープな悪意を求めるとするなら、主人公の「老い」だろう(テリーがサクラを雇ったってのが残酷の要素になるんだけど何か中途半端で、あれ最初はサクラの笑いだったのが本物の笑いに呑み込まれていった、ってことなのか)、しかしここで描かれるのはあくまで「老愁」であって「老醜」ではない。それはチャップリンの任ではないのだ。だから歯止めをなくしたセンチメントはただただ溢れ返っていく。C・Cを敬愛する私たちは、困ったことになったな、と思いながらもそれを呆然と受け止め続けるしかない。いささか臭い人生訓を語り続けるC・Cにも、前半生であれだけ沈黙していたのだから好きなだけ語ればいい、と思う。ステージの袖で立てなくなったとパニックになるテリーのエピソード挿入のぎごちなさも、見ない振りをしよう。それぐらいの義理は、彼の前半生の傑作群への利息として払う用意がある。ああそうだ、この映画で唯一感じられた悪意は、キートンにヴァイオリンの足枷をはめて走れないようにしたいたずらか。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2011-11-24 12:19:09)
88.  黒い罠 《ネタバレ》 
嫌な感じに包まれている街、夜の街、この雰囲気ね。パッとポスターに掛けられる硫酸、向かいの部屋から向けられる懐中電灯、モーテルの騒音、音楽、若者たちの小ばかにしたような薄ら笑い。そしてO・ウェルズによる殺しの場。悪があたりに瀰漫していて、そこかしこで結晶している、いうような世界をとにかく作り上げたとこが力量でしょう。冒頭の長回しは二つのカップルがもつれながら国境を渡っていくわけで、これがラストの上と下での橋渡りと対になっているんだろうね。テープの声がエコーかかりだすあたりの映画ならではのサスペンス。この導入の事件はヘストンとウェルズを出会わせるためのもので(それにしても奇妙な組み合わせだ、こういう奇妙な組み合わせも何かのきっかけで平然と起こり得るってとこ、実に映画の魅力です)、この「変なところにさ迷いこんだ」って構造は、五年後の『審判』につながっていくようでもある。フレームアップの怖さとしてはあまり伝わってこなく、もっと抽象的な「嫌な感じ」として拡大されているとこが、ウェルズ映画としての成功なのかサスペンス映画としての失敗なのか。血で汚れた手を一度は洗うが、ふたたび橋の上の友の指先から垂れてくる血によって汚されていく、って。
[映画館(字幕)] 7点(2011-11-20 12:11:48)(良:1票)
89.  戦場にかける橋 《ネタバレ》 
川の小さな滝のところで銃撃が起こると鳥がいっせいに飛び立つ。その銃声に驚かされて飛び立ったというより、血で汚された地を嫌って空へ向かった、って感じ。無数の鳥の影がジャングルや川面を走り巡る。この映画では最初から鳥の視点が批評的に地上の愚かな戦争を眺めていて、ラストむなしさが広がるクワイ河をしだいに鳥の視線になってカメラが上昇していく。脱走しヘトヘトになってたどり着いた地でW・ホールデンは、まず自分を監視している鳥に怯えるが(倒れた彼の上を鳥の影が通り過ぎていく凶々しさ)、やがてそれは凧の鳥に変わる。狂った地上を鋭く監視する鳥から、子どもの遊び道具となっている鳥へ。狂気の地からマトモな暮らしのある地へとたどり着いたことが、鳥の裏表で示された。その女こどもが暮らすマトモの地から狂気の地へ戻っていくときに女たちが付き添うのは、彼らの作戦が男たちの狂気に呑み込まれないよう、少しでもマトモな世界の空気を注入しようとしているのだろうか。この映画は英日米の軍人気質の違いを見せてはいるが、主人公はあくまでもアレック・ギネスだ。軍人としてどうあるべきか、をまず第一に考える精神主義者。ダラケていく自軍の兵士を見ることより、敵に協力しても誇りを持ってイキイキすべきだ、と考える。精神主義者として敵であるサイトーのほうに近しいものを感じてしまっている。橋の完成のためにはついに自軍の傷病兵まで繰り出そうとするあたりのノメリ込みの凄味。あからさまな狂気の描写でないだけに、彼の心に「まったく屈折のないこと」が怖く迫ってくる。「立派な軍人」というもののあるべき姿を煮詰めていくと、この狂気に必然的に行き着くだろうというところが一番怖い。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2011-11-19 10:26:47)
90.  おかあさん(1952)
この映画の怖いところは、母が次々に襲ってくる不幸から家族を守り続けているようで、その家族が順番に消えていくところ。家族の幸せを願うことが、その一家を解体していく現実。避けようがない病気を送った後には、娘を手放さなければならず、さらに精神的な頼りとなっていた手伝いの男も遠ざけなければならない。やっと露店から自分の店として再建できた家から、一人ずつ人が消えていく。中北千枝子に髪を触れられた娘はやがてこの家を去り、遠からずもう一人もこの家を去っていくだろう。これは成瀬の『麦秋』なんだと思う。あの解体していく大家族の物語を、成瀬の小市民の世界に移すと、こうなるんだ。どちらも厳粛な諦観が底に流れている。母はメソメソしないが、肝っ玉母さん的に豪快に笑うわけでもなく、激さない矜持を持ちながら不幸を通過させていく。どこかニヒリズムの匂いがする。成瀬の世界観がかなりクッキリ現われた代表作と言ってもいいんじゃないか。とちゅう股覗きしている子どもの視点になって逆さまの看板を捉えたり、映画館での「終」の画面で驚かせたり、けっこう遊んでおり、これは脚本の水木洋子の企てかもしれないが、サイレント映画を経てきた成瀬の可能性が高いと思う。加東大介、中北千枝子の常連脇役もそれぞれいい仕事をしており、とりわけ加東はベスト。どちらかというと「お嬢さん」役の印象が強い香川京子のパキパキした下町娘も新鮮だ。(そうか、岡田英次も香川京子も今では実質一人息子・一人娘になっちゃってるんで、なかなか結婚はスムーズに行かないかも知れんなあ。パン屋の長男がひょっこり生還すればいいんだが。まてよ、最後にクリーニング屋にやってきた見習い店員が16歳といってたから、娘とは二つ違い。あれを将来婿に育てて、と田中絹代は算段するかもしれん。まだまだひと波乱ありそうだぞ。)
[CS・衛星(邦画)] 8点(2011-10-24 10:06:07)
91.  オーソン・ウェルズのオセロ 《ネタバレ》 
ひたすら構図の美。キャシオとの喧嘩のシーン、水を張った酒蔵(?)の美しさ。反射の美しさ。犬が最後に歩く。嫉妬に狂いだしてからは、影が前面に出てくる。本人の影だけでなく日覆い(?)の交錯する線の影から、やがてイアーゴを吊るすことになる檻の影まで。それにしてもイアーゴの情熱の拠ってきたるところは何なんだろう。ただ副官になりたいってだけじゃないんだよね。もっと芸術的衝動というか。砦の上で並んで歩きつつ、たぶらかしていくあたりの丁寧さ。シェイクスピアお得意のところ。人を操る楽しみ。自分が「運命」になる喜び。イアーゴは自分のことをI am not what I amと言い、狂乱のオセロのことをhe is that he isと言う。
[映画館(字幕)] 7点(2011-10-20 09:40:51)
92.  美女と液体人間
東宝の変身人間もののなかでは、これが見せ物としては一番楽しめる。ドロドロしたものが這い寄ってくる感じ。一番人間離れした怪物で、漁船のエピソードなんかうまい。人が融けていく。でも根本問題として、被爆した被害者が「人類の敵」になっていくことの後味の悪さがずっと残り、本当なら怪物の側から描かなければならないものを、それを恐怖の対象にしてしまっているズレは、いくら見せ物映画だとしても無視できない。野暮なこと言ってるのかもしれないが、どこかで過去の被爆者差別や現在の福島の花火への視線とつながっている気がする。完全な安全を求めるあまりの異端への恐怖。恐怖映画はそういった恐怖に乗っかってしまわず、そういう恐怖を撒き散らしているものへの想像力を働かして真の恐怖の対象を見極める自負があってほしい(初期の安部公房に、社会の底辺層の人々から液体人間に変身していって地球がその洪水に満たされる、といったSF短編の傑作「洪水」がある。「赤い繭」の第二話。そこにあった、刑務所の囚人が液化して逃亡したり、工場主が飲もうとしていたコーヒーに溺れたり、といったほうがよっぽど映画的なイメージ)。最後、炎のなかで二人の液体人間が立ち上がっているように見えるの、あれが新たな人類のアダムとイブになっていくのだ、ってな展開だとSFとして正しいんだけど。カーチェイスの場で車窓に展開する町の風景がしっかり50年代であった。悪漢が「トランクいっぱいの五千円札だよ」と言ってるところでも、最高額紙幣がそれであった時代をしみじみ思う。樋口一葉ではない。
[DVD(邦画)] 6点(2011-10-03 09:59:23)
93.  バス停留所 《ネタバレ》 
このカウボーイの「世間知らずの田舎の純朴青年」カリカチュアを、どこまで受け入れられるかが評価の分かれ目でしょうな。コメディとは言えいささか過剰気味で、迷惑なジコチュー男として引いてしまうところもあり、微妙。ときにハチャメチャやってるジム・キャリーに見えてしまった。対比はクッキリしていて、カントリーソングと酒場女の歌。モンタナの牧場の夢とハリウッドの夢。童貞男の一途と経験豊富女のいなし。そこらが噛み合ってくるとイキイキいしてくる。リンカーンの演説を寝床のモンローに語りかけるのが笑えた。中盤のロデオ大会が映像として活気づき、映画の一番の見せ場である終盤のバスストップでのしみじみした味わいへの、いい踏み台になっている。あわてて防寒具を着て殴り合いを見物する女主人の安定感が終幕の芯になっており、人情劇の一場を支えていた。雪の効果が絶大で、それは恋と自意識にノボセ上がった男を冷やす雪であり、また女にとっては「ふしだら」な過去をすすいでくれる雪。親友バージが勘所のシーンではずっとギターを伴奏に奏でているのもおかしい。ドラマとしてはバージが若い二人に遠慮して去っていくのもわかるんだけど、あの二人の今後を思うと、まだ二転三転ありそうなんだから、落ち着くまでときどき背後でギターを鳴らすために残っていてほしい、と現実ならばそう進言する。ロデオの場で「彼がイカれている」ということを伝えるのに、モンローは頭の横で指をくるくる回す。クルクルパーってのはアメリカから来たのか! 日本古来の表現じゃなかったのか!
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-09-18 12:17:17)
94.  アフリカの女王 《ネタバレ》 
話の大枠は冒険ものだけど実質は「流れ下る室内劇」で、男女二人のドラマを楽しむ味わい。船という密室空間でほかの男女に出会えない状況なのだから、ロマンスの成長だけが見どころになり、それを二人の名優がたっぷり見せてくれる。とりわけキャサリンはピタリの役どころで、宣教師の妹の英国淑女が自分の流儀を保持した態度をとりつつ、けっこう過激な提案を荒くれ男の船長に提示していくあたりのおかしさ、ひとたび結ばれると自分からお茶を「旦那さま」に運んでいくかわいさ、などなど。ときに思い出したようにドイツ軍の銃撃があったり急流があったりするが、ほとんど二人の心理劇だけで運ぶ前半はなんとも鷹揚で、映画黄金期の観客はそれをゆっくりと見物する大らかさを持っていたのだろう。しかしのちの「映画がコセコセする時代」になってからの映画ファンである私にはいささか大らかすぎて物足りなく思っていると、終盤、その大らかさの味わいが私などにも分かってくる。船が隘路に入って身動きが取れなくなってしまい、二人は絶望し神に祈ったりしている。そのときカメラはそっと上昇し、すぐ先に湖への出口があることを観客にだけ知らせてくれるのだ。そしてスコールが訪れ、船は動き出し湖に出て行く。後の映画だったらそれは伏せといて、脱出の驚きの効果を優先するのではないか。でも監督は手の内を見せて、観客にゆっくりと見物させるほうを選ぶ。そのとき生まれるユーモアの味わい。あるいはラストのひっくり返っているクイーン号に静かに近づいてくる敵艦のカット、これも先に起こることを観客に知らせておいてゆっくり見物させる手法だ。そのカットの生み出すユーモアこそ、後のコセコセした時代の映画が失ったものだろう(晩年の監督作『女と男の名誉』では飛行機が飛んでるカットだけで笑わせた)。なんか第一次世界大戦の映画ってノドカでいいんだよな、もちろん殺し合いをしてたには違いないんだけど。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-09-16 10:09:19)
95.  雪の女王(1957) 《ネタバレ》 
だいたい全身像で展開していく。だから表情よりも動作を見せるわけで、アニメの本来の姿だ。一番のキャラクターは山賊の娘だな、竹を割ったような性格。ツンツンしながら、親切することに照れながら、ってとこが、後に宮崎に受け継がれていくタイプ。ゲルダを逃がしたあとに動物たちも逃がしてやるんだけど、そのウサギや狐たちが戻ってきて娘を慰めるあたり、涙である。女たちに比べてカイ君はだらしがない。ほとんど全身像で展開するドラマの中で、アップになるのは雪の女王。ラストの静かな退場・消滅して春にゆずるあたり、アップにされるだけの貫禄があります。
[映画館(字幕)] 7点(2011-08-27 12:07:51)
96.  バンド・ワゴン(1953)
エンタテイメントの決意表明のような映画で、芸が芸術より優位にあるという宣言。ミュージカル映画というジャンルが煮詰まってきてて、次の手が難しくなっていた時期だ。実際、翌年の『略奪された七人の花嫁』あたりから別の方向を探り出し、その延長線上にロバート・ワイズのミュージカルが出てくる。本作が、一番ミュージカル映画が無理なくイキイキ出来た時代の、最後に生まれた傑作だろう。行き止まりは覚悟の上で、あえて踏みとどまった者の栄誉が輝いている。自分をコケにしかねない役柄をこなし、その路線に殉じるような姿勢を見せたアステアが立派。冒頭で落ち目を強調し(顔を隠して登場するのは『トップ・ハット』で新聞で顔隠して登場したのの回想)、しかし靴を磨くことによって活力を取り戻す段取りに、希代のタップダンサーへの敬意が感じられる。そもそもこの映画全編が彼への敬意で貫かれていて、自虐ネタの痛々しさなど感じさせない。ラストの「ザッツ・エンタテイメント」はエンタテイメント讃歌であるが、同時にアステアへの敬意と感謝のセレモニーであり、ウキウキさせることに眼目があった前半での同ナンバーと違い、ここでは儀式の改まった感じが伴っている。表彰されるものを中心に主要メンバーがただ立っている記念写真のような構図に泣かされる。そして全編に渡ってダンスの素晴らしさ。ハードボイルドパロディの洒落っ気にはニコニコさせられ(ただギャングどもが酒場に入っていくオットセイ歩きのあたりは、モダンダンスとして純粋に興奮する)、あと夜の公園のダンスの優美なこと。並んで歩いていたのがごく自然にクルリと回るともうダンスに入っている。カメラも近づいたり離れたりしながら一緒に踊っているような動き。そしてそのダンスからまたごく自然に馬車に乗り込む動作につながって、馬車が動き出す。ダンスの練習をしたとリアリズムで捉える次元から、二人の恋の発生を表現したと捉える次元までが、重層的に畳み込まれていて、映画における表現の豊かさとはこういうものでなければならない、とつくづく思わされる。
[映画館(字幕)] 9点(2011-08-13 10:20:54)(良:2票)
97.  偽れる盛装
『祇園の姉妹』を思わせるのは、もともと脚本の新藤兼人がオマージュとして書いたらしい。切りを重んじる母に、何言うとるねん、とやきもきする姉、このうちと小林桂樹んちのおっかさんとのイサカイのあたりはかなり小気味いい。溝口がぴったり女性の側について男社会を告発したのに対し、こっちはやや間を置いて、たとえば妹が町並みを眺めて「戦災に遭わなかったから封建制が残ってるんやわ」とか言うように、ちょっとヒトゴト風。こういうところが新藤さんの弱点かな。客観的であろうとして評論的になってしまう。進藤英太郎のとこの店で京マチ子がお酒を飲んでいると、カメラのすぐ前で盃のやり取りが始まって客の噂話につないでく、なんて演出もあった。この時代、自転車で走るってのは、健全の象徴だったのね。町のすいていること。進藤英太郎はつくづくいい。時代劇では平気で単純な悪役を嬉々として演じられるし、こういう役もやる。ただのアホじゃなくて、それ相応の仕事はしてきた男を感じさせる。好色でも開放的であって、東の森繁のようなヤサ男とは違う豪放さを持っている。日本の西の男のある典型なんだろう。
[映画館(邦画)] 6点(2011-07-31 10:27:24)
98.  雨月物語 《ネタバレ》 
溝口の映画では舟が出てくると、しっとりとした空気が漂い悲劇が起こる。『残菊物語』の舟乗り込みのような賑やかな舟も、けっきょく悲劇の進行を強調する背景でしかない。行方定まらぬような心細さが、悲劇を引き込むのだろうか。とりわけ本作は、此岸と彼岸の掛け渡しのような存在で、それ以前と以後の世界の違いを見事に表現していた。向こうの世界の幽玄、侍女たちが燭台を持ってくる朽木屋敷の空ろさと、こちらの家の囲炉裏の火の確かなぬくもりとの対比。欠点は小沢栄太郎の芝居のクサさと彼がらみのエピソードの浅さで、あの夫婦のあっさりした決着は投げやりと言われても仕方ないだろう。公開時の観客にとってはつい最近まであった戦後の世相が重なり、「戦地から帰ったら妻がパンパンになっていた」という身の上相談への回答といったレベルで受け止めた人も多いのではないか。しかしそれを補って余りあるほどに森=田中夫婦のほうのエピソードは見事で、森帰還のシーンが素晴らしい。こちらだって戦地から帰ったら妻が空襲で死んでいた、という現実と重なるが、それ以上の普遍性に達している。夫の帰りとともにフッと現われる宮木、そして朝日が差し込むまで家を守って消えていく。彼女はいっさい個人の無念も恨みも述べないが、より深い無念へと観客を導いていく名シーンだ。
[CS・衛星(邦画)] 8点(2011-07-29 10:07:53)
99.  2ペンスの希望
イタリア映画はこうでなくちゃいけない。叫ぶ・どなる・ののしる・手を広げて近所に吹聴してまわる・すぐぶつ・前屈みになって走り回る。オペラの発声は、あれはリアリズムだったのかもしれないと思わせるほど、全編声を張り上げている。この元気のよさが身上。崖の上の百姓女とのののしり合いのところなんか、別に気が利いたセリフだからと言うわけでもなく笑ってしまう。ほれぼれと「アリア」に聞き入ってしまう感じ。爽快。この元気のよさにすべてを託していこう、って。「神さまが人間をお作りになった以上、なんとか食っていけるんだ」ってね。楽天的過ぎるかもしれないけど、そういう気持ちを奮い立たせたかった時期なんだろうということは、同じ敗戦国としてよく分かる。いろいろな職業変遷、坂を三台ぐらい馬車を押し上げていく勢いのよさ。そして馬車は時代遅れだと、新品同様(!)のバスを共同で買い、これが走り抜けていくシーンのなんとも陽気なこと。ここらへんのドタバタはフェリーニを思わせ、家同士が喧嘩したあと両家の母親が懺悔しているあたりはパゾリーニの寓話を思わせ、全体の民話的語り口にはタヴィアーニを連想させ、イタリアの監督ってみなネオレアレズモから生まれた兄弟なんですね。映画館のフィルム配達。「おい、なんで女が殺されたのか分からんと客が騒いでるぞ」。いつも太陽が照りつけているような陽気さに、ずっとひたっていたくなる映画。
[映画館(字幕)] 8点(2011-07-21 10:08:43)
100.  大樹のうた 《ネタバレ》 
この最終作は、細部よりもストーリーのほうが重視されている印象があり、またドラマチックな部分が多いのでデリケートな味わいでは損してるけど、でも甘い新婚生活の描写など一級ではないでしょうか。別にチチクルわけでもなく、キスシーンすらないのだが、しみじみ祝福してやりたくなるぐらい、いい。毛布とか枕元のピンとか道具が生きる。ちょっと前までは一人で泣いてたのが、かいがいしく火を焚いてたりするイイトコノ娘だった新妻。こうじわじわ底からしみてくるような幸福感を出すってのは、やはり大した力量なんだろう。夜は肩を並べて英語の勉強。夫婦で映画観に行ってると(仏教風SFもの活劇で面白そう)スクリーンが馬車の窓になっちゃうという趣向なんかもある。不意の不幸から放浪、父性の目覚めに至るという展開。ラストでまた『大地のうた』につながり、このように人は同じようにぐるぐる転生してる、という見方も出来るし、いやいや一世代進んでオプーとカジュールの違いがやっと生まれた、という見方も出来よう。おそらくこの二つの見方を並行させることで、壮大ならせん状の世界観を感じさせるのだろう。
[映画館(字幕)] 7点(2011-06-26 12:06:17)
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