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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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101.  E.T. 《ネタバレ》 
前半家庭内の部分がいい。ボールが投げ返されてきたり、ママといろいろすれ違ったり、たんすの中でぬいぐるみ人形と一緒に隠れてるのなんか最高。でもエリオットが学校に行って、E.T.との心の交感があらわになってくると、映画に不純なものが混じってくるようで、新鮮さが失われていく。心理学的な解釈が入り込んでくるというか、『未知との遭遇』までは感じられた「新しいもの」の感触が遠のいた。あっちにはあった臨場感が薄れてしまった。科学者たちが『未知…』ではこちら側の人間だったのが、これではあちら側に回ってしまって、大人が均一のノッペリした存在になってしまったからだろうか。子どもっぽい大人と、子どもとでの違いなのだろうか。いえね、けっして悪い映画じゃなくて、自転車が飛ぶときの爽快感はやっぱり見事だし(『ダンボ』?)、「人を見たら泥棒と思え」という話より「よその人には親切にしましょう」って話のほうが気持ちいいし、そういうのが甘い理想だとは思わないんだけど、なんちゅうか、以後もスピルバーグ映画にときどき現われてくる「子どもへの過剰な擬態」が、初めて気になった作品ではあった。
[映画館(字幕)] 7点(2012-06-01 09:58:46)
102.  ワン・フロム・ザ・ハート
これ『地獄の黙示録』の次の監督作で、意表をついたミュージカルで映画ファンを驚かせたものだった。冒頭、ネオンの裏から店の中にはいっていってテリー・ガーの鏡にまで至るワンカット。男のほうの話から女に移っていって、いろいろあってまた男に戻ってくるまでのワンカットも楽しかった。男女の歌が心理を描いていくのが義太夫を思わせ、このラブストーリーは都市生活者にとっての「民話を元にした人形浄瑠璃」を思わせられた。主人公は人形なんだから、歌わない。しかし踊りはもっと見せてもらいたかったな、彼らは操られているんだから。ま、ちょっと見せたガーのダンスのぎごちなさを思うと仕方なかったのかもしれない。シルエット・タンゴが美しい。だいたい撮影が逆光の好きなV・ストラーロで、あの人の人工光による世界では、これと『ディック・トレイシー』がとりわけ美しかった記憶。デュエットが流れているときの人物が手持ちぶさたなのに、もう一工夫ほしいところ。
[映画館(字幕)] 7点(2012-05-21 10:20:04)
103.  恋の掟 《ネタバレ》 
社交術ってのは、ゲームの教育ってことか。無垢で純粋な小娘への教育、彼女を駒として使うゲームでもあり、そのルールを更新していく残酷さもある。ゲームを終えたふりをして次の手に進むあたりのタノシミ。生きることそのものがゲームであった時代、頽廃なのか洗練の果てなのか、ゲームは戦争となり、同じゲームをしている者同士の共感が、騙し合いのゲームの果ての孤独に追い詰めていく。田舎でのディナーのそれぞれの表情を、話者と話者以外の者とのカットの積み重ねで描いていくあたりなんか好き。せっかく若い恋人たちのために妖しい雰囲気を作ってやるのに、ハープの練習をして「AじゃないBフラットだ」なんてやってるお笑い。A・ベニングは好きなんだけど、ちょっと線が細すぎたか。ゲームの相手も失う極北で、カンラカラカラと豪快に笑ってほしい気もする。
[映画館(字幕)] 7点(2012-02-03 10:05:11)
104.  血の婚礼 《ネタバレ》 
足でドンドンとやりだすと、こちらも文句なく興奮してくるのは何なんだろう、原初から人間に伝わる労働のリズムなのか。フラメンコって足が雄弁なダンスだ(ハワイのフラダンスなんかはほとんど手だけの踊り。足のほうが活躍するのは北のロシアコサックぐらいか。緯度の高低とダンスって関係があるのかな。さらに思ったのは、暖かい地方の阿波踊りは手がひらひらしてて、北のねぶたになるとやたらジャンプしてるぞ、と脱線しかけてやめる)。フラメンコってのは、対立シーンになると盛り上がる。女同士にしろ男同士にしろ。フラメンコはもともと「わだかまり」を描くものなのかもしれない。だってあんな苦悶の表情をたたえて踊るダンスってほかにあるか。楽屋入り、化粧、レッスン、衣装つけての通し、とだんだん現実の世界から虚の世界に入っていく趣向。レッスンで鏡のほうへ向かって斜めにくるくる回りながら並んでやってくるあたりから、だんだん現実と虚構のさかいがあやしくなってくる。オハナシは「女房持ちの男と結婚ひかえた女が出来てて式の日に駆け落ちし、決闘で男二人とも死んじゃう」ってんだけど、すべて情熱なのよね。理性で抑えきれないものが騒ぎ出し、しかめつらの舞踏になっていったものがフラメンコなのか。窓からの光が美しい。決闘シーンではスローモーションふう振り付けになる。最初のほう、中央に二人が重なってわかれていくあたりがすごくいい。さて花嫁の血は、あれは演出だったのか否か? と惑わせる趣向。
[映画館(字幕)] 7点(2011-11-03 10:09:32)
105.  はじけ鳳仙花 わが筑豊わが朝鮮
登場する女性画家、朝鮮人の代わりに発言するんだ、という気負いが強く感じられ、これって一種の思い上がりじゃないか、と最初のうちは引き気味に観てた。でも画家を離れてくると、画の力に引きずられて、のめりこんでいく。朝鮮人坑夫を怒鳴る日本人の顔のシーンで、突然また画家が現われる。加害者としての日本人の顔がどうしても描けない、と悩むんだな、ここが面白い。どうしても決まりきったデフォルメになってしまい満足できない、デフォルメを抑えると今度は「人のいい日本人」の顔になってしまう。自分の顔を鏡で見ながらいろいろ口を歪めたりしてみるのだが、納得の顔が出てこない。「加害者」の顔は地の顔と連続していない、という発見。環境が与えてしまうものなのだ、というギリギリの性善説が見えてくる。ふだんは加害者の顔になれない人間が、立場によって加害者の顔にされてしまっている。否定的な告発の絵の底に見えてきた性善なる人間。おそらくこの画家は曼荼羅図のようなエロスの世界や、空の星を吐き続ける竜の絵など、肯定的な画のほうに真骨頂があるのだろう。というか、世の中を肯定的に捉えることと否定的に捉えることとは反対の方向へ延びていくものではなく、縄を綯うように一方向へ延びていくものなのだ。その星の画を見せてて、ふっと画家の手が伸びてきて星を描き加えるとこなどハッとさせる。冒頭では骨の画を描いていたその手なのだ。過去帳に書かれた「某鮮人」というのに、生々しい残酷を感じた。ラストの指紋のスライドが重なる美しさ、社会を離れて指紋をそれだけ眺めれば、それはただの模様なのだ。
[映画館(邦画)] 7点(2011-09-28 10:03:12)
106.  狼の血族 《ネタバレ》 
夢を紡ぐのも物語をするのも全部女性。少女に限らず、老婆を含む女性たちの物語。少女の成長の話だが「女性」の物語になっている。「これこれこういう話だから、こういう映画になった」というより「こういう雰囲気の映画を作りたくて、こういう話を選んだ」って気もする。監督が男だし。三つのエピソードで、次第に狼が恐怖の対象でなくなっていくの。加害者であった狼も、終わりのほうでは「狼にされる」という被害として扱われる。また「狼が人になる」ってのが何かの恵みのように見られる視点もある。「狼」のイメージが多岐に膨らんでいく。ラスト、赤ずきんの話で復習するよう。ばあさんを「殺してくれた」狼と一緒に狼の血族に入っていく。そして現代、もう眠っている場所は子ども部屋ではない。と窓を破って躍り込んで来る狼。フロイト流に見ればかなり露骨な象徴で、なんかつまんなくなっちゃうんだけど、これが男が作った「女の映画」の限界か。というより、女性たちに「男はこう考えてますが」とこわごわ「おうかがい」をたてている映画なのか。
[映画館(字幕)] 7点(2011-09-13 09:43:00)
107.  男はつらいよ 寅次郎恋愛塾
並列的に列挙する。・タイトルのバックが旅先というのは珍しい。・初期の寅のギラギラしていた部分をポンシュウが受け持っている。・帰宅後の寅の会話の中でだんだん若菜が現われてくるおかしさ。「珍しいなあ、男で写植やってる人は」「男と言ったか? 俺は」。・面接の場。こういうなんとはない社会の断面を見せるとこがうまい。・「真剣に恋をしている人をからかうなんてお兄ちゃんらしくないわ」で、民夫への教育となる。『寅次郎頑張れ!』の線。「僕はそんなこと出来ませんよ」「さいなら」のリズム感がいい。・アケミが「人妻になって寅さんの魅力が分かった」てなことを言い、社長と喧嘩になっていく。・「希望? そんなこともありましたっけね」と赤信号を突っ切りうなぎ屋に入り看板を倒してフラフラと去っていく民夫、これは昔の寅だ。・秋田へ行くあたりから調子が落ちる。リフトが行って帰ってくるのなどもう少し撮りようがなかったか。樋口可南子って笑顔が哀しい女優ベスト3に入ると思うんだけど(あと風吹ジュンとか)、あんまりそれが生かされなかった。
[映画館(邦画)] 7点(2011-08-18 10:39:11)(良:1票)
108.  それから(1985)
タイトルのときの三千代の写真がボーッと浮き出してくるタッチなんかいい。電球の光りだすとことか。後半ちょっとダレる。あと20分くらい削れなかったか。これ主役の演技の質とも関係があるかもしれない。二人ともネットリしたものを滲み出すタイプじゃないから、どうも長回ししていると乾いてきちゃうとこがあって。あと微妙な目線のずれがしばしばあって、草笛光子と代助のシーンとか、回想シーンの仲間たちとか、人物が正対してない感じ。お見合いのシーンでも一列ずつ写したりする。主人公が人と人とが向き合う生々しさを嫌ってる、ってことから来てる演出なのだろうか。心象の市電では夕焼けから夜になるやつが良かった。あの終わり方だと、これから「生活」が始まるんだ、という原作の焦燥感はないね。橋のあるセットは東映映画的で懐かしい。外の音などにもいろいろ気を使っていた。ふんだんに金を掛けられない日本映画では、いろんな工夫によって時代色を作らなくちゃならなく、本作は健闘していた。
[映画館(邦画)] 7点(2011-07-04 09:41:58)
109.  アメリカ
横顔の映画。体全部が真横を向いている(おもに左)。顔の半分が見えていないことによる膨らみと言うか、かえって内面への興味をそそられる。また視線の方向は分かるが、相手との距離感が分からない(見えてる目玉が一個なので)。そして原則として相手は同一画面に収まらない。だもんで人物間の距離感覚がひどく曖昧になってしまう。あのように真横だと永遠に平行線が引き伸ばされていく感じで、「相手」が漠然と霧散していくような取りとめのなさが満ちてくる。この原作はそもそも「本人がまったく望まないのに人間関係のごたごたを招き寄せてしまう喜劇」という一面がある。映画ではその他人たちが曖昧になっていくところに、この監督なりの解釈があるのだろう。エレベーターボーイのエピソードが一番面白かったか、だんだん抜き差しならなくなっていく感じ。警官もタクシーの運ちゃんもポスターもすべてドイツ語のアメリカ。ラストは延々と湖の脇を走る抜けていく車窓シーン、汽笛とともにクレジットタイトルが入ってくる。
[映画館(字幕)] 7点(2011-05-14 09:43:38)(良:1票)
110.  XYZマーダーズ
これがサム・ライミとの出会いだった。『クリープショー』との二本立てだった。そういうのが至って好きだった。尼僧が車にギュウギュウ詰めになって死刑執行場へ駆けつけるファーストシーンからして、何かしら期待を抱かせるものがある。主人公に迫る危機と、彼の語りが繰り返されて話の設定をまず作るわけ。以後、私のノートにはギャグが細かく記されているが省略。とにかくテンポのいい映画であった。36ドルなくて、とカメラがパンすると「ダンス競技会・賞金は36ドル」となって、いかにもダサく踊ってるところがあって、すぐ続けて陽気に主人公が皿洗いしてるとこになる。そういったテンポ。エレベーターとドアを使った出入りの妙。欄干での対決、落っこちたと思ってバンパーにつかまってたり、川の中から立ち上がったり、のくどいネバり。死刑場に駆け込む知事の「ああ間に合った、○○○○」のギャグ。駆け出しの監督でもコロッとこういうのが作れちゃうのは、スラプスティックの長い伝統があるからなんだろう。日本では「傑作」は作れても、こういう「快作」ってのがなかなか生まれない。
[映画館(字幕)] 7点(2011-04-19 10:08:47)
111.  ル・バル
いかにもフランス映画だ、シャレてる、と思ったらイタリアだった。戦前部分の色調が美しい。ジャン・ギャバン登場は愛嬌。あの恋のもつれの物語いうのがそもそも戦前映画の雰囲気なのよね。ファシズムの台頭を暗示し、ダ・ダ・ダいう足踏みの音。空襲、占領、解放(鐘の響き)で、三人の女が喜んで回っているのがそのまま群舞になる。あの時期はどこでも「イン・ザ・ムード」で表現できるんだな。片足の帰還、およびダンスでホロッとさせる。ティーン・エイジャーの乱入。ジャン・ギャバンはちゃんと戦後のかっこで登場。ロックンロールの時代から五月革命の学生運動、「ミッシェル」でディスコへと。この後半はただ風俗をなぞっただけになってしまった。踊るということの解放感、回転することの永続性、それだけに退場シーンはシミジミする。けっきょく趣向頼りの映画ではあったが、それで通したってことだけでも立派。
[映画館(字幕)] 7点(2011-04-06 09:48:23)
112.  水のないプール
この人が出てくると、監督の映画じゃなくて、内田裕也の映画になっちゃうとこがある。それだけ強烈な魅力があるっていうこと。たとえばこの役を、石橋蓮司がやってるとこを想像してみた。このころこういう役なら彼でも達者にやったはず(大ファンでした、いや今でも)。でも風呂掃除しているおかしさは、内田以上には出せなかったんじゃないかと思った。石橋だと意識してスネて社会に背を向けてるってなっただろうけど、内田はもう根本のところから曲がっちゃってて、本人はまっすぐに生きてるつもりで、こうなっちゃうんだよね。ひねくれてないの。社会なんかに関係なく、ただ風呂を綺麗にすることだけで頭がいっぱいになってる。その純情・真面目がたまらなくおかしい。テーブルにすわらせてパーティごっこをしたり。無理に政治に絡めようとした部分は邪魔だった。最初の侵入の長い長いセリフなしの緊張。
[映画館(邦画)] 7点(2011-03-29 09:55:06)
113.  タンデム
狂王と従僕もの、というか、ドンキホーテ的な流れ芸人ものというか。とにかく、男の心にしか興味のない監督ではある。男の純情。とりわけ運転手リプト君において。局からの番組打ち切りの通知をロシュフォールに届けさせないように逃げ回っている旅。胃もぼろぼろ。赤い犬、放り落とされる自転車など、不安のイメージがまといついてきて滅びの予感が漂う。車の故障で道端の人で済ませてしまう中継(打ち切りになるラジオのクイズ番組の老司会者の話なの)。男の友情の話というより、どこか傷口をナメあっているような感じがあり、対象と監督の視線との間に冷たい距離が微妙にある。もっぱらラストを洒落て決めるフランス映画にしては、終盤ちょっとズルズルしたか。
[映画館(字幕)] 7点(2011-03-28 09:54:19)
114.  そして船は行く 《ネタバレ》 
一番良かったのは、カマタキのとこで歌手たちが歌声を競い合うくだり。顔顔顔。フェリーニ健在なり。狙いは面白いがあんまり成功してなかったのは、食堂での鶏催眠術。もっと盛り上がってもいいのは、ジプシーたちの踊りシーン。一瞬の美しさで言えば、心霊術に登場する歌手。上流人士の世界に下の世界が土足で踏み込んでくる、いうタッチは、どちらかというとヴィスコンティのお得意なのだが。ああそうなの、本作はヴィスコンティ的「滅び」が前面に出てくる。フェリーニは「衰え」は好んで描いたが、こういう「滅び」とはいつもちょっと軸をずらしていたように思う。ま、どちらも「懐かしさ」という陰翳を引きずってはいるんだけど。合唱とともに沈んでいくあたりはやはり圧巻。滑り出すピアノやテーブル、廊下に漂い出すトランクになぜか蝶が二匹。最後の映写をしている心酔者、あれは余計だったんじゃないか。すぐボートで大西洋を漂うサイにつなけてよ良かったんじゃないかな。
[映画館(字幕)] 7点(2011-03-17 10:17:44)
115.  白い町で
積極的に無為であろうと試みる男の冒険、とでも言うか(本人は怠惰とは違うと思っている)。だから、特に前半は、ほとんどセリフがない。それがつまり白のイメージなんでしょうね。ギリシャの輝く白と違って、ポルトガルはリスボンの白は、汚れくすんでいるの。光も後半にいくにつれて曇ってくる。これ結局、男の意思に関わらず、清潔な無為のつもりが、しだいに濁らされていってしまう過程に歩調を合わせてるわけ。ピュアな孤絶のなかからローザとの出会いがあって、セリフが湧いてくる。ローザを失って8ミリの映像からは「私」が、そして人間が消えていってしまう。ラストはまた次の漂流を暗示しているようでもあり。妻と男との関係が、やがて男とローザとの関係に重なっていく、いう趣向もあった。とにかくくすんだ白い町の描写が素晴らしい。あの狭いとこを走る路面電車には興奮した。私、夢によく学校の廊下とかデパートの中とか狭いところを走る路面電車っての出てくるんだけど、現実ってよりそっちに近い。あと、男が去ったと思い込んだローザがベッドの上で丸くなるところ。夜の赤い月の下をゆっくり進んでいく船の照明。働く女性の捉え方には『ジョナスは2000年に25才になる』と共通するものを感じた。
[映画館(字幕)] 7点(2011-03-16 12:28:37)
116.  危険な年 《ネタバレ》 
白人が無力にアジアから退場していって幕になるってところが、この作品の眼目でしょうな。もう自分の正義を振り回せない。西洋人がアジアを見るときの戸惑いが、そのままフィルムに定着しているようなところがある。変にビクビクしてしまうところ。昔の西洋映画のアジア観とは、ずいぶん違ってきた(といってもオーストラリアってのが微妙な位置にある西洋人社会で)。しかしなんといってもビリーね。あのキャラクターの印象は強烈。いい意味での憂国家なの。俺はここで生きるしかないんだ、という切実さがある。記者仲間のドローンとゆるみきった雰囲気、ベトナムへ行きたがっているわけ。よその「もっと面白いところ」へ行ける連中。けっきょくそれは帰る安全な場所があるからなわけで。群衆デモシーンに迫力があった。共産地区の田舎の風景と不安が重なるあたりのうまみ。メル・ギブソンが友情のために走ってくるが間に合わない、っつうのは出世作のラストと同じ。友情を描く作家なんだなあ。
[映画館(字幕)] 7点(2011-03-09 12:28:02)
117.  川の流れに草は青々 《ネタバレ》 
いちおう主人公は青年教師なんだろうが、子どもが主でそっちは添えものと思えばいい。トンネルから出てくる汽車を合図にかけっこする下校の子どもたち。ブンブン袋を振り回して橋から落としたりしちゃう。後ろの女の子も橋ぎわに寄って見る。ここらだけでもういい気分に包まれてくる。家にも学校にも所属していない子どもの時間。遅れそうになって走り、小さな階段から校庭の朝礼の列に入っていくワンカットなども、ノビノビしていてよろしい。検便のエピソード、なんかさくらももこにも通じる視線。新鮮さを保つために冷蔵庫にしまっとくやつ、容器を落として箱に入れてくるやつ。遠雷が聞こえる広がりや、ゆったりとした斜面も好きみたい。安定したものよりも不安定なものを、はっきりしたものよりもまだ曖昧なものを、という好みが、青年の恋愛より少年の感情のおもむきにカメラを向わせる。やがてそういう姿勢は『冬冬の夏休み』や『童年往事』でより充実した成果を見せ、さらに歴史を扱っても、それを包む想い出のほうにカメラを向わせていくことになるわけだ。
[映画館(字幕)] 7点(2011-01-29 10:25:27)
118.  山の焚火 《ネタバレ》 
家族のものがみんなで少年の性の目覚めを恐れている感じがいい。社会と隔絶した清澄な山の家で、生臭いものをギリギリでカバーして生きている緊張。祖母が豚のいななきを聞いて獣姦の疑惑を抱いたりする。この家族の中でただ一人、山を下りてもやっていけそうだった姉が、自ら焚火に促されてタブーをおかし、山の上のほうへ心を向けてしまい、妊娠という最も生臭い結果を導いてしまう。聖と俗の対比という下手するととても陳腐になってしまうものを、うまく料理した。この小屋がどれくらい麓から離れているか、は見せてくれないので、完全に隔絶した場所と思っていいのだろう。登場する他者はヘリコプターのみ。春から冬へかけての季節の移ろいがあり、水のイメージ、鏡のイメージも作品を貫き、拡大鏡や双眼鏡の覗く感じが秘密の匂いを強めている。どんなに社会から断たれても、無邪気な時間はいつかは終わるのだ。
[映画館(字幕)] 7点(2010-12-15 09:58:10)
119.  遊星からの物体X 《ネタバレ》 
真っ白な世界を犬が走っていく。どういう行きがかりでそうなっているのか説明はまだないけど、いたいけな小動物がヘリコプターという近代兵器によって迫害されてる、という印象を与えられ、つい、逃げよタロ! 力一杯走るのだっ! と見てしまう。そう観客に刷り込んでおいてから、引っ繰り返していく仕掛けがニクい。その犬が基地内を歩き回っている。変に擬人化されてなくて、まさにペットのように、しかしそう思って見ると観察して回っている不気味さ。観客が思わず目を凝らしたくなるところで、目をふさがれるようにフェイドアウトになる。このじらされるリズムに乗って、だんだん不安感が募っていく。この序幕の入りがまず楽しい。正体を現わしてからは、疑心暗鬼の人々ってのがポイントになって、血液検査のあたりがヤマか。ただメンバーの個性がもうちょっと出ていたほうが、そういう場面では楽しめただろう。外はバイキンも生きていけないという南極の清潔な白、その死の清潔に封鎖された中でグチャグチャした赤黒いものがヌメヌメチュルチュルしている対照の妙。ノルウェー基地が焼き捨てようとしたものを、わざわざ運び込むなよ、とか思いはするけど、あのテラテラした赤黒さを放置しておくには忍びないまでに、南極の清潔な白色は暴力的に圧迫してくるんだろう。
[DVD(字幕)] 7点(2010-12-14 10:13:42)
120.  ストリート・オブ・ファイヤー
みなに慕われてたミコ的存在の歌姫をさらわれる、修行を終えて帰ってきた主人公、クノイチ風の脇役もいてラストにはちゃんとチャンバラがある、とそのまんま時代劇にもなれる活劇の原型。そのロックンロール版。まあイキがいいですな。歌姫のメロディに乗って、ワルたちがオートバイでやってきて、ドアを開ける影、悪玉の顔にだんだん光が当たってくる。主役のアンチャンにもうちょっと魅力があるといいんですが。だんだんチームが膨らんでくる楽しさ。群衆シーンの中に、ややお年寄りはいたものの、子どもの姿はなかった。若者の街に子どもっつうのは、世帯の重さが出ていけないのだろうか。夢がシラけちゃう存在なんだろう。そこが弱さと言えば弱さで、展望のない夢、未来へ広がっていきそうもない閉じた若者だけの夢どまりになった。時代劇で言えば、カタギの町人が出てこない町って感じになってる。それが原型ってことなんだから、別にいいんだけど。
[映画館(字幕)] 7点(2010-12-04 11:10:31)
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