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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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101.  社長漫遊記 《ネタバレ》 
オリンピックの前年いうことで、社長のアメリカかぶれはもっと生々しい皮肉になってたのかも知れない。役者のちょっとした仕種なんかにくすぐられるところが多い。これ小林桂樹のトーク付きで観たんだけど(成瀬巳喜男の『女のなかの他人』と、筧正典の『新しい背広』ってほのぼの小品と、小林桂樹が出てるという以外共通点を見つけづらい風変わりな三本立てだった)、かなりアドリブ的に入れたところがあると言ってた。一番光ってたのはやはり三木のり平で、ときにすごく残忍な表情を浮かべながら、それを全体の喜劇トーンにうまく溶かし込んでいる。社長と刺々しくやりあったり、ちょっとした独のあるセリフを付け加えたりするのが、わさび的に絶妙。森繁も、無理にフォークでそばを食べるとこなんか、わざとらしさの極致なんだけど、笑ってしまう。尊大さと、ふっとした卑小さとをくるくる交換するおかしさ。フランキー堺の三世(?)言葉のおかしさ、こんな程度のことで笑ってはいけないと思いつつ、これも笑ってしまう。チームワークの良さで、場そのものが生き生きしてるってことなんだろう。池内淳子の消防芸者ってのは、火事があると野次馬で見に走り出してしまうっての。
[映画館(邦画)] 6点(2011-03-15 12:28:23)
102.  メリー・ポピンズ 《ネタバレ》 
これ私が人生で一番最初に観たミュージカル映画(邦画なら東宝特撮・洋画ならディズニーとだいたい決まってた)。そのせいか今でも自転車こいでると「凧を揚げよう」をしばしば口ずさんでいる。まだ脳が固まってないときに沁み込んだものは、基底部に固着してしまうのだ。子どもにタップの至芸見せたってしょうがないから、ダンスでは煙突掃除人の群舞に見どころを集中させ、あとはトリック撮影で興味をつないでるのも正解。風や煙や凧や、あるいは子どもたちと探検するロンドンの屋根屋根が、ポピンズの浮遊のイメージを補強し、その浮遊が「笑い」にもつながっていく。完全セット撮影は、トリックしやすいってこともあっただろうが、いかにもミュージカル世界の「作り物」にふさわしい。…なんて書いてくとすごく冷静に再見してたみたいでしょ。ところが…。最初のほう、ドアの前に並んだ家庭教師応募人たちが風で吹き散らされていくところで、なぜかハラハラと泣き出してしまったんだな。その後も要所要所、いや特別要所とも思われないとこでも、滂沱。ラストのバンクス氏の会社復帰が告げられるご都合主義きわまる場面まで、何度も感きわまってしまった。脳の基底部から揺り動かされてくるような異様な過感情状態になっていた。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2011-03-12 12:39:20)(良:1票)
103.  日本の夜と霧
50年代の共産党分裂騒ぎで傷ついた男と、60年安保闘争で挫折した女の結婚式、いう設定。その「儀式」の設定は、言葉の空疎さで生きてくる。結婚式スピーチの空疎さが、しばしば中山が語る党の公式見解の空疎さに通じ、そのままラストの「演説」の空疎に雪崩れ込む。真摯な問いかけは硬直した言葉で返され、その果てについに問いを遮断する演説に至る。言葉が溢れ返っている映画だが、その言葉たちは互いの理解に向かうのではなく、壁や塀として臆病に建て回されていく。言葉を封じるための言葉の氾濫。これは日本共産党批判の映画ではあるが、日本の政治風土全般の空疎を射抜いているだろう。上の指令で方針がコロコロ転換し、火炎瓶闘争は歌声運動に代わられる。それに疑問を持たない中山ら「良き前衛」に対する苛立たしさ。しかしもっと苦いことは、ここで批判者として登場する新左翼の若者たちも、60年代後半にはさらに空疎な演説言葉に振り回されていくその後の歴史をも私たちが知ってしまっていることだ。ワンシーンワンカットで、ちょっとしたセリフの詰まりぐらいは無視してずんずん進んでいくカメラ。安保闘争後急速に冷めていく時代に抵抗するような、「これでいいのか」という苛立ちの熱気の高温の中だけで生まれることが出来た、特殊金属のような強度を持つ奇跡の映画だろう。「突き詰める」という一番日本映画が、というか日本人が苦手としていることを、やり通そうとした爽快感がある。
[DVD(邦画)] 8点(2011-03-02 12:28:22)(良:1票)
104.  刺青一代 《ネタバレ》 
河津清三郎邸の平気でリアリズム離れするすごさ。弟が殺されるところの花道的な使い方。長廊下。横移動。斬り込みシーン。雷に映る障子の影。延々と続く襖。待ち構える槍の列。奥の黄色い光。一人ずつ対戦するのも美しさのため。河津がいる部屋も、何か半階上にある抽象的な世界でググッと左に移動して影に入ったりまた戻ったり、と突如真下から見上げるの、エイッと突くとパタッと外は篠突く雨、…まあ見事でした。これ途中でちょっとでも休んじゃダメね、こちらにどうこう客観的に醒めた目で見る時間を与えない。ひとつひとつの安っぽさを塗り重ねていくことで、なんだか知らないけど異様な「たしかな手応え」を生んでしまっている。あと思い出すままに挙げると、野呂圭介が屋根で寝てるとこ、高品格とのけんか、船のあたりでの人の見え隠れとか、ラストの花札パラパラとか。話はけっこう定型踏んでるの。カタギの弟のためだったり、自分はやくざもんだからと和泉雅子の愛を振り切ったり、山内明が逃がしてくれるあたりの男と男の意気など、ごく普通の定型の物語なのに、それを全然定型でない映画に仕立ててしまっている。
[映画館(邦画)] 7点(2011-02-20 11:06:25)(良:1票)
105.  関東無宿
松原智恵子はどこ行ったんだ。時代がよく分からない。物語で捉えようとすると変なまとまりのない話で、清順監督でなかったら、そのことだけでダメって言っちゃうんだけど、それが魅力になるから困るんだ、この人。親分もきたねえ、子分もきたねえ、と一人で嘆いている男が主人公なの。面白かったのは、ドンツクドンドンツクツクのリズムがだんだん激しくなっていって、中原早苗の危機と重なるところ。伊藤雄之助とのサシでの花札勝負もいい。一番の見せ場は、やはり賭場を荒らされて逆に斬るところね。歌舞伎的な趣向だもんで、ロングの舞台風の画面が生きる。どこか安っぽさがつきまとうんだけど、この監督は「安っぽさ」を突き詰めようとしているところがあって、それがちゃんと滲みてくるときもあれば、ただ軽く見えてしまうときもある。監督のしたり顔がスクリーンの背後でちらついて見えてしまったりするとダメ(伊藤弘子とのシーンで、外だけ照明が落ちたり中だけ落ちたりする心のうつろいも似たようなもの)。もうちょっと見せ場を長くしてクラクラさせるとこまで行ってくれればもっと良かった。
[映画館(邦画)] 6点(2011-02-16 12:26:20)
106.  殺しの烙印
正直言って、日活首脳部の気持ちもちょっと分かるな。どの程度までギャグとして見ていいかわかんないから困っちゃうとこあんのよね。水道管のシーン。飯の匂いを嗅ぐ、ってのもそういうとこあるし。ライター広告からの狙撃はマジでしょ。アドバルーンは△ね。南原君と二人の対決シークエンスなんか、荷物に腕組んでドアに立つなんてとこは生き生きしてんの。迷いなく純粋にいいなと思ったとこは、波止場のシーンで撃たれた相手が落ちて縄に引っかかるところ。蝶だらけの部屋とか、8ミリ映像との会話とか、変に凝ったとこはかえって軽く見えてしまった。といってこの監督は「変に凝る」ところをみな楽しみに観てるんだから、気分が合わなかったってことかもしれない。この人の映画は、観るときの気分が大事なんだ。だいたい様式的なものってのはみなそう。たとえばミュージカル観て、なんでこいつら急に踊り出すんだ、なんて気分になったら、即、中止したほうがいい。
[映画館(邦画)] 6点(2011-02-14 09:43:32)
107.  野獣の青春
記憶の中でひときわ美しく残っている「夢のようなシーン」てのは私の映画受容史で二つあって、一つはムルナウの『サンライズ』の夜景、もう一つがこれの、ヘンタイの会長が嵐の外へ女を追いかけていく黄色い風のシーンだ。しかし記憶の中で磨かれて実際以上に美化いているような気もし、どちらも再見はしていない。ほかの多くの「美しかった名シーン」とは別次元の、息を呑んだ体感の記憶になっていて、この印象を壊したくない。こういうのはこちらの体調やら何やら好条件が重なった一度きりの体験であって、とくに本作のほうは褪色したフィルムで観たカラー作品なので、現物はまたかなり違っていた可能性もあり、たとえばDVDで見ても、あの「夢のような」感じはもう訪れない気がする。とにかくそういうワンシーンが際立って記憶されている映画です。スクリーンの裏側の事務所なんてのも面白かった。上映されている映画のほうの銃声で慌てたりするところもあって。あとプラモデルの飛行機がたくさんぶら下がっている部屋とか、そういう異様な空間設計で面目躍如の監督。話を円滑に進めようという気など全然ないもんね。
[映画館(邦画)] 8点(2011-02-12 11:00:00)
108.  狼王ロボ 《ネタバレ》 
家族が出来たロボがインディアンの廃墟に住む、ってのは原作がそうなってるのか。ロボより先に土地を追われたものへの視線は、どの程度意図的だったのだろう。60年代後半だと、そこに批評的な眼がありそうだが、この映画が作られた前半は微妙な時期。少なくとも現在観るものにとっては、インディアンとロボが重なって見えてくる。そして伝説に流れ込んでいくあたり、展開としてはうまい。シークエンスの間に入るロボの歌が、カウボーイの伝説としての味を出している。こういう動物ものってのは映画でしか出来ないな。舞台でぬいぐるみでやったら悲惨だし、人形劇だと舞台が狭く、伝説というより童話になってしまう。ま、放送劇ならなんとか可能かもしれないが、視覚を伴うとなれば、実写かアニメかの映画しかないだろう。それはやはりフィルムがもともと記録のためのものだからで、とりわけロボの子ども時代は物語よりも記録性が強く、こういう「語り」はフィルムでのみ可能だ。でもあくまでこれは劇映画であり、そこが割り切れているから、たとえばテレビの動物ドキュメントなどでよく見られる中途半端な擬人化による不潔感は、かえって感じなかった。とはいえ、この手の映像がさかんにテレビで流れる現在見るといささか素朴で、その懐かしい素朴さが味わいと言えば言える。ロボは、徒党を組んで牛を襲い賞金が出ていると解説的には知らされるが、映像ではもっぱら家族レベルで描かれてたので、ラストで急に仲間がわらわらと出てきたのには、ちょっとつながりが悪かった。でも締めとしては効果的なスペクタクル。そうそう、こういうのはずっと音楽が鳴りっぱなしなんだよね。ちょっとした動作にもそれに合った音楽がいちいち付いて(「逆ファンタジア」か)うるさくはあるけど、これもなんか懐かしい。
[CS・衛星(吹替)] 6点(2011-02-09 09:59:26)
109.  パルチザン前史
これが公開されたときは、上映が終わった公会堂の出口で公安が観客の顔を一人一人写してた、って話を聞いてたので、私が観たのはもう全共闘運動などとっくに終わった時期だったにもかかわらず、いささか緊張した。場所も「不動産会館」という聞いたこともない建物の地下の狭い一室で、なにか非合法の集会に参加しているようなトキメキを覚えた(「ぴあ」の自主上映の欄に堂々と載ってたのを見て来たんだけど)。そういう環境で火炎瓶の作り方なんか見てると、ちょっと「それらしい」気分になってくる。ナレーションはなく、必要最小限の字幕ですます。質問しそれに答えるという形式のインタビューがなく、自由に仲間うちの会話と同じ調子でしゃべらせる。あらたまらせない。演説はよく聞き取れないし、仲間うちの会話も聞き取れないことが多く、言葉はこの映画ではいっさい無視していいだろう。言葉の内容よりも、その語り口を映画は記録していく。ヘリコプターの音や、夜に聞こえてくるパイプの中を流れる水の音、機動隊の楯のカチャカチャいう音などと同列の、声も音としての記録素材。言葉の勢いに逆に振り回されているようなその空回りぶり、あるいはしゃべっては中断しを繰り返すその逡巡ぶり。路上での解放区設営が一つのヤマ場で、野次馬的興奮に駆られるが、中立に撮ろうとしている報道陣をも撮ってしまう視線がいい。ドラム缶相手の武闘訓練のときの、照れ笑いしている顔も撮っている。当時は極左映画というレッテルで観られた作品だが、おそらく現在でも記録としての価値はかなり高いだろうし、映像の緊張は素晴らしい。描かれる対象である京大全共闘の滝田修は、やたら「明確な」という言葉を繰り返し、軽薄なものをこれ観たときも感じたものだが、小熊英二の「1968」によると、当時「ガスを爆発させたら普通の人も死にます、しゃーないやないかそんなもん」などと無責任に威勢のいい発言をしていたが、のちに出版した「滝田修解体」では「過激な言辞でエエカッコしたかった」と簡単に自己批判している情けない男なのであった。フィルムはその軽薄さまでキッチリ記録していたわけだ。(と、あの時代の主役の一人永田洋子死亡のニュースの直後に本レビューを記すのも感慨無量である。)
[映画館(邦画)] 8点(2011-02-08 09:21:10)
110.  イージー・ライダー
なんか大昔のことみたいね、あの元気のないヒッピー・コミューンとか。ああいった人たちは今どこに行ってるんだろう。南部のいやらしいネトネトした部分だけ生き生きしてる。つまり「自由に生きる」というイメージの貧困さが、時を経てアラワになっちゃったってことか。結局あの時代のムーヴメントがたいした成果を残せなかったのも、そういう弱みを持ってたからだろう。オートバイの旅どまりじゃいけなかったのよ。もっと「寒さに震えるような自由」まで突き詰めるべきだったんだろう。あんな炎で祝福されるような死を与えてはいけなかった。全体に宗教に寄りかかっている気配もあった、それも限界。街のないアメリカ、風景だけのアメリカを見せてくれたっていう面はあった。などと不満をもっぱら述べたが、それも映画が時代を、作者の意図を越えて正確に写し取ってくれていたからで、これもフィルムの力だ。
[映画館(字幕)] 6点(2011-02-07 09:50:24)
111.  私は好奇心の強い女
いかにもあの時代にふさわしくインタビューで始まる。スウェーデンに階級は存在するか、って。ここらへんテキパキとしていて面白い。労組の事務所に行ったり、スペイン帰りの人にフランコについて尋ねたり。またパルメ教育相との実際の対話、マーチン・ルーサー・キングとの構成されたインタビューなども織り込まれる(パルメはベトナム反戦デモに大臣として参加し、アメリカ大使が抗議して本国に引き上げたのが68年。ついでに言うとパルメは首相になっても米軍の北爆を「ナチス以上の蛮行」と公言した。のちに暗殺される)。スウェーデンというとまず「フリーセックス」とくるのが当時の一般的認識傾向で、この映画もそういう「スケベ」の線で話題になったのだが、もうひとつ「ラジカルな平和主義」も忘れては悪い。この毛沢東主義に注目が集まっていた時代に、中ソにも否定的な意見を述べたくだりがあって、そういうとこ真面目。ボカシがはいると、テレビで「映像が不鮮明で申し訳ない」というアナウンスを入れるのがおかしい。非暴力主義の軍事訓練のパロディは、もひとつそっちの社会情勢が分からないので、笑えなかった。ヒッピー風の禁欲生活を対象化したおかしさもあった。懸賞付きクイズも入る。そういう、もうあの時代の匂いプンプンのポップな映画。しかしいろいろ政治の時代とその風俗をコラージュしながらも、政治の現場から遠い地点にいる若者たちのいらだたしさみたいなものを感じたが、当たっているかどうか。主役の女学生を演じたレナ・ニーマンと、ベルイマンの『秋のソナタ』で病気の妹を演じたレナ・ニーマンとが同一人物かどうか確認していない。
[映画館(字幕)] 6点(2011-02-02 09:34:08)
112.  若者のすべて 《ネタバレ》 
3章の「ロッコ」から、それまでのネオリアリズモのタッチと、神話のような世界とが重なってきて交響し、圧倒的。長男は小家庭に籠もり外界には無関心、四男は都市でやっていこうと決心して、その信念に沿って勉強してる。長男の消極的都市生活に対して、積極的都市生活。五男は未来への希望であり、故郷へ帰れる者、さらには故郷を富ませるであろう者として存在する。重要なのはもちろん、次男のシモーネと三男のロッコの対立で、この二人の自分の役割に執着するその過剰さが、神話の雰囲気をかもす。獣性と聖性の対立という二元論で片づけてもいいんだけど、さらにこの二人がどちらも都会に不適応であるところが厚み。クライマックスでロッコがシモーネのことを、「家のいけにえ」と言ってたけど(公開時の字幕では、私のノートを信ずるなら「家族の土台となる者」)、あれは自分も含めてなんだよね。クリーニング屋での女たちにからかわれながらの働き、ジムで見込まれたときの歯まで調べられる扱われよう、酔いどれて酒場で友だちに馬鹿にされる痛ましさ。それは彼ら兄弟が地上に堕ちた神々の気配を漂わせているからこそ増幅される惨めさなんだろう。シモーネが金をたかるシーンでテレビがずっと古典画を映し続けていたのなんか、これは古典悲劇なんだよ、と監督が確認してるみたい。四男はロッコのことを「許してはけないものまで許してしまった」と言ってたけど、その過剰さが彼を神々の高さにまで引き上げ、また社会との不適応を招いている。ナディア陵辱シーンの、この兄弟の惨めさの極みがそのまま神性に通じていくようなあたり、ゾクゾクする。みなで雪掻きに出かけていくシーンは、後で振り返って悲しむために仕込まれた失楽園用情景だな。父が故郷にいるあいだずっと辛抱し、憧れ続けていた北部都市にやっと出てきたという母も悲しい。南部の暮らしのつらさを描いた場面はワンカットもないのだけれど(それならもう『揺れる大地』でミッチリ描いた)、それがずっと映画の通奏低音になっている。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2011-01-27 10:27:10)(良:1票)
113.  みどりの壁 《ネタバレ》 
ジャングル開拓におもむいた元都会暮らしの一家の悲劇。詳しくは言えないけど、ラスト近く、川を行く舟がしだいに増えてくるシーンから後、ほとんど字幕なしで描かれる部分が凄く、子どもが作ったおもちゃの水車のチーンチーンと鳴る仕掛けが澄んで響き、じっと黙って食事の支度をしていた母がワッと泣き崩れ、そこでストップモーション、バッハのコラールがギターで聞こえてくる。おそらく映画の締めとして、ほとんど完璧と言っていい。このラストまでは、ややキザな演出でかえって軽めの印象をもたらしていたのが、ラストは正攻法でちゃんと手応えのある重さを持った(アルマンド・ロブレス・ゴドイってこの監督の、もう一つ日本で公開された作品『砂のミラージュ』は、キザのほうに傾きすぎてしまった)。ただ涙だけでなく、政治への怒りが裏打ちされているところがいかにも南米。家族の不幸を描きつつ、それを強いた開拓事業・さらに大統領へと怒りの方向を定めている。その構造だけを見ると、涙と怒りが釣り合って単純になってしまいそうなんだけど、ジャングルでの生活の描写が丁寧なので、映画が豊かになっている。涙と怒りが別々の天秤で釣り合うというより、それが混じり合って迫ってくる。
[映画館(字幕)] 8点(2011-01-23 10:04:56)
114.  ラ・ジュテ 《ネタバレ》 
剥製たち。静止画像だと、それが生きているのか剥製なのかの区別がつかない。そこが博物館だと知らされているので、過去に死んでいるので静止しているのだろうと思うが、こういう作りの映画だから動物園を描いても同じに見える。そこらへんの多義的な曖昧さが作品のポイント。寝ている女の顔の連続画像によるうつろいが美しく、そして静かに目をまたたく。実はこれ、昔スクリーンで、同じマルケスの『北京の日曜日』やレネの短編なんかと一緒に一度観てるんだけど、そのときの私のノートには「“過去の女”がまたたいたとこは動いた気がするが、巧妙なディゾルヴだったか」と自信なく記されている。今回は録画してあるので、観終わった後にさらにもう一度確認した。動いている。やっとはっきりしてスッキリした。このハッとさせる瞬間のために静止画映画という試みにしたのかも知れない。剥製のように静止していた過去のものが、生きてまたたくおののき。スッキリはしたが、スクリーンで何も知らずに観たときの、再確認できない・夢幻のような曖昧なまたたきの効果のほうが狙いだったのであって、余計な確認をしてしまったか、という気もした。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2010-12-25 15:02:54)
115.  地下室のメロディー 《ネタバレ》 
初老のギャングは、最後に一発当てたいと思っている。青年は、現在の惨めな境遇から抜け出したいと思っている。それぞれに鬱屈があって、しかし一人では現金強奪はできない。冒険には若さが必要よ、と妻にたしなめられている。若さのある青年には、計画がない。補い合って立てられた計画。それが危うくなっていくのは、青年の方が豪奢な世界に浮き足立ってしまうから。義兄が自分のこととして心配していた事後の不安が、計画の最中に浮かんできてしまう。シャルルにとっては金に目的が集中していたが、フランシスにとっては、こういう暮らしをしてみたい、だもんだから、真剣味が弱かったんだろうなあ。フランス映画は、途中いささかモッサリしてたり「よく考えるとヘン」があっても、ラストをピタリと決めてくるので印象に残るのが多い、これなんかその典型。刑事たちの話し声とゆっくり歩き回る足だけで、キリキリと縛り上げるように緊張を高めていく。犯罪映画のラストなのに、主人公たちは走らない・どならない・しゃべりさえしない・もちろん銃も撃たない。ボーイの驚きの声が聞こえてくるだけ。二人は、あと鞄を渡すだけの距離であったプールをはさんで向かい合い、自分が手にできなかった大金をただ見守っている。ゆっくりと花が開くような札束の動きのなまめかしさ。手の届かない高慢な女のような花が次々と開き、二人の間の隔たりを花畑に変えていく。
[CS・衛星(字幕)] 7点(2010-12-20 10:25:25)
116.  昭和残侠伝 血染の唐獅子 《ネタバレ》 
ドラマの型としては、もう「忠臣蔵」パターンで、いじめられて仇を討つって芯。それを脇筋として山城新伍が膨らませている。これも考えてみれば「仮名手本忠臣蔵」の勘平、ずいぶん三枚目な勘平だけど、恋のため一家に不義理をし、その負い目から死んでいく役割りなわけ。昔からあるドラマの型を応用していく日本文化の伝統に則っている。相手の染次(牧紀子)がまた話を膨らませてくれて、自分に惚れた男に対する女の義理を果たす役どころ。さらにここには自分になびいてくれない秀さんに対する微量のアテツケも感じられ、自分の操を男気のシンボルである纏と交換し、秀の心に残ろうとする哀切もにじみ、まったく女優冥利に尽きる役どころだろう。そしてこれは、ただただ秀さんのことしか考えない藤純子のまっすぐな役どころと一対になっていて、それは複雑な池部良とまっすぐな高倉健の一対と同じ。こういう構造は一朝一夕に生まれるものではなく、長く大衆文化の中で練り込まれてきたものだから、安定感がある。いつもちょっと疑問だったのは、知的善玉やくざである池部がモロ悪人の組に入っちゃってる、ってのに無理があるんじゃないか、ってことだったが、今回思った。きっと昔は、河津清三郎も、池部が心服するような立派な任侠の徒だったんだ、世の中の変化に乗って組をやっていく上で、金に執着しなければ勝ち残っていけなくなり、そして歪んでいったんだろう。だからシリーズのタイトルも、時流に乗れない「残」侠伝なんだ(シリーズ1作目は戦後が舞台でその「残」の感じはさらに強い)。ラスト、健さんを包み込むように木遣りが流れるが、まるで近代に置き去りにされ滅ぼされていったすべてのものを弔う御詠歌のようにも聞こえてくる。
[DVD(邦画)] 8点(2010-12-08 10:15:06)
117.  続・忍びの者 《ネタバレ》 
私なんか山村聡っていうとテレビでの「ホームドラマの穏和なお父さん」って印象が強いので、昔の映画で暗い役やってるのを見ると最初は意外な気がしてた。煩悶したり自殺したり、ものごとを悪い方へ悪い方へと考えがちな、知的で暗い人物の役が多く、監督やらせると『蟹工船』だったり。だもんで、光秀=戦国史上一番暗い男=山村とすんなりキャスティングされたんだろう。まだ私はホームドラマのお父さん気分が抜けきれてないもんだから、ちょっと戸惑った。若山富三郎の信長体型もかなり違和感だったし(こっちの方がよっぽど石川五右衛門)。でもそれらは見てるこちらの問題。忍者映画にしては忍びの者が無力すぎないか。本能寺で何をしたかっていうと、トドメは刺したものの、追い詰める手段としては床下で火を焚いてるだけなの。個人的な子の仇なら、光秀を離反させるなんて遠回しな政治力学に加担するより、好きなときに自分で忍んで寝てるとこ刺せばいいじゃないか、そんな簡単に忍び込めるんなら。人に使われることが染みついた下忍根性のフガイなさ、ってテーマに集約されてるわけでもなく、なんか無力感ばかりが募る(本能寺で学んで、次の聚楽第では前向きになったってこと?)。そして左翼監督の悪癖、弾圧されるシーンでの悲壮感への陶酔。なぜ敗北したのか、と建て直しに向けた論理的な検証はなく、弾圧されたこと自体が自分たちが正義である証明だとでも言うように酔ってしまう。弾圧された死者たちは、ただの記念碑になってしまう。これ左翼に限らず、日本において野党的なるものに共通している心情。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2010-12-06 10:29:28)
118.  審判(1963) 《ネタバレ》 
やたら広い空間と狭い通路の対比。空間と言うより空虚ですか。会社のオフィスが圧巻。仕事が終わり、みなが帰っていくシーン。ここは天井が高く、Kの部屋は反対にやたら低い。それに法廷のシーンの人々、あれ上の方まで全部本物だったんだろうな。そしてそれらをつなぐ無数の迷路や階段。子どもたちのざわめきの中を追われるように逃げていく。ま具体的な映像世界ということで仕方ないんだけど、もっと「手応えのなさ」みたいなものが、カフカでは欲しい。「世間」はハッキリと逃走を誘うように迫害してくるのではなく、柔らかく微笑みながら次第に身動きできなくしてくるものなのではないか。ラストをダイナマイトにしたのは、現代では直接ナイフで刺してもくれない原爆の時代だということなのかな。煙がちょっとそんな感じだった。ロミー・シュナイダーが鏡とガラスが交互になっている向こう側を駆け抜ける。ここらへんの顔のアップでのセリフのやりとりは緊迫。全体にあおるカメラ、だから天井がいつも抑圧してくる。
[映画館(字幕)] 7点(2010-11-07 10:55:19)
119.  名もなく貧しく美しく 《ネタバレ》 
聾唖者の日常生活における困難がていねいに描かれる。健常者と見た目では違わないことが、かえって生活を難しくしている場面もある。駅員に呼び止められるとこ、聞こえない振りしていると思われてしまうつらさ。あるいは子どもの泣き声が聞こえないつらさ。随所に生活の落とし穴が待ち受けている。そして子どもを持つことそのものの心配。社会に対する不安だけでなく、内側からも不安が湧いてくるわけだ。しかし満員電車の他人たちの中で、隣り合った車両からプライベートな会話を交わせるというシーンでは、聾唖者ならではのわずかな利点が貴重なものとして光っている。けっこうホロッとしたのは、多々良純の場。息子の賃上げ要求を一度は追い返し、いかにも多々良純的な態度を見せながら、それもそうだと後でやってくる。「庶民のせちがらさ」と、ときにはそれを越える筋の通った「庶民の条理」を見せて嬉しいシーン。オリンピックへ向けて破壊が進んでいた「戦後東京」の風景が、かろうじて記録された。最初に撮影玉井正夫・美術中古智と見てしまったせいか、成瀬チックな味わいがその風景の中に匂い立つ。ただラストの展開はどうだろう。聾唖者にとっては、視力が弱まるだけでいかに危険な社会になっているかということを言いたいんだろうが、「なにもそこまで」とゲンナリする気持ちのほうが強い。視力の弱まりは医者の言葉で知らされただけで、描写としてハッキリとは提示されてなく、だからいかにもドラマチックにするためだけの展開、って感じになってしまっていて、あれではせっかく訪ねてきた加山雄三の立場もなかろうというものだ。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2010-10-12 09:57:55)(良:1票)
120.  サイコ(1960) 《ネタバレ》 
白骨になったりミイラ化してる家族と同居してた、って最近の“消えた高齢者”事件で、「そうか『サイコ』ってけっこうリアリズムだったんだ」と慄然とさせられた。少なくとも、我々の日常とどこかでつながってる話だったんだ。この二段構えの独特の構成、前半ではいたって「分かりやすい」犯罪、金を目にして魔がさす事件が展開する。変な言い方だが、日常的な犯罪。それが後段になると、より深いレベルの魔の世界に入り込んでいく。前半でしばしばクローズアップされていた事件の中心である大金が、あっさり車とともに沼に沈んでいく。より深い魔に。「分かりやすい」事件が、より暗い世界に包み込まれていく。この構成、作品全体の整いという点から見ると屈曲しているようでいて、それなりの筋が通っており、観客にとっては迷宮感を増すことになる。「犯人」が唐突に消え、次に「探偵」が消え、じゃあ誰がドラマを仕切るのだ、って。観客は実に心細い気持ちでこの手だれのスリラーを観続けねばならない。それにしても死体と同居していた事件を「年金詐欺」レベルで納得してしまう日本のマスコミの情けなさ、あれってジャネット・リーがベイツ・モーテルに到着したところで『サイコ』観るのをやめてしまったようなもんじゃないか。
[DVD(字幕)] 8点(2010-09-21 09:50:29)(良:1票)
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