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101.  戦場のメリークリスマス
ここに登場する兵士たちは、みなヨソモノなんだ。侵略者と被侵略者という分かりやすい関係ではない。兵隊としてジャワに派遣されたものたち。カルチャーショックってのは、ヨソモノがほかの生活圏へ行って起こすのが普通だが、誰も土地に結びついた生活をしていない。日本側も英国側も、同じ無重力状態でカルチャーショックを起こす純粋実験をしているようなもの。自分の土地は遠くにある。朝鮮人兵の処刑のエピソード。日本式のハラキリで自決を迫られるということで二重に屈折した屈辱があり、そこで遠くの母国の言葉で「アイゴー」と叫ぶ悲痛さが増す。それに対してオランダ兵が自殺するのは、自分に親切にしてくれた彼に対する申し訳なさといった個人的な殉死のようなもの。それを日本兵は公的なものと見て礼を尽くそうとする。するとそれを英国側は個人に対する侮辱と取って引き上げようとする。ここらへんの二転三転する考え方のズレが面白く、それも自国の風土から離されているためにかえって「自国民の考え方に忠実であろうとする」純粋実験の場となってしまった結果なのかもしれない。そういった緊迫に満ちた映画で、そのゴツゴツとした手触りが大島ならではのものだった。一番美しいなと思ったシーンは、隊列を組んでほかの土地へ出ていく兵士たちのなかに、ロレンスがハラを探して、黙って見送るとこ。あとでの再会シーンよりもあそこでジーンとした。それと大島作品で重要な歌のシーン。俘虜たちはしばしば抗議をこめて歌い、想い出の中では弟が歌う。戦争と対照的な個人的・内省的なものとして歌があり、また団結の象徴としても歌がある。そしてテーマ曲、静かなガムランを思わせるメロディが土地の精霊のように、このヨソモノたちの間を埋めていくように・あるいは分離していくように、漂い流れていく。
[映画館(字幕)] 8点(2012-08-12 09:52:12)
102.  細雪(1983)
市川崑は「女たちの帝国」とでも呼ぶしかない世界を好んで描いてきた。それの大映時代の代表作を『ぼんち』とするなら、東宝時代がこの『細雪』だろう。大映時代には『黒い十人の女』もあるし、東宝時代の『犬神家の一族』もその系譜だけどね。じゃれあう姉妹たちで閉じられた世界、夫たちも足を踏み入れられない聖域。雪子が溺愛するのも甥ではなく姪であり、女の血の流れだけで守られた上品な淫蕩さが支配する結界だ。この宇宙が崩壊していく物語なんだけど(いや、散り散りになっても決して崩壊しないという物語なのか)、あからさまな腐臭はたたせない。啓ぼんでさえ、変な言い方だが実に趣味よくすさんでいく。雪子の見合いの相手はどんどん落ちていき、妙子の相手の質も悪くなっていくのだが、そのことが蒔岡姉妹を汚せない、雪子の高貴さを高めるばかり。こういう不可思議な帝国を観客に納得させるのは、女優たちの力で、佐久間良子の三枚目ぎりぎりの「愛すべき人物」ぶりなんかが実にいい。最初キャスティングが発表になったとき、吉永小百合の雪子は違うだろ、と思ったが(現実の女優が雪子を演じるということ自体無理な話なのではあるが)、観てみると、なんか納得できる出来になっている。下手に雪子らしさを強調するとオカルト娘っぽくなっちゃうし、何も演じなければただの愚図になってしまう、その程度が良い。鮎男との見合いのあとフェイドアウトになるときの曖昧な表情。たしかに軽蔑があって、それを隠してもいないのだけど、棘がないというか、相手に向かっていない。相手にマゾヒスティックな悦びを与えてあげているような表情。蒔岡姉妹とはつまりこういう表情を作れる人なんだ、と得心させられる。「細雪」という作品の本質が一瞬であらわになった場面だった。「女性映画」と並んで崑で優れているのが「無内容な純粋娯楽作品」だと思ってるんだけど、それの大映時代の代表作が『雪之丞変化』、東宝時代の代表作が「金田一もの」。そういう私にとって、本作で「本家」とか「分家」とかの活字を画面に目にすると、あのシリーズを思い出しホロッとしたものでした。
[映画館(邦画)] 9点(2012-08-01 09:58:38)
103.  子供たちの王様
固定カメラを通して時間を置いた風景の変化をしばしば描く。堂々とした感覚。遠景は自然描写というより地形描写。ときに墨絵のような美しさもある。近い光景では、窓や戸の四角い枠を据えて、そこに外側にいる主人公のタバコの煙や、下から起こる煙を捉える。遠景の霧と近景の煙。あるいはラストの牛の気配の高まり。牛は夜の戸外に不意に現われたりし、授業を受けられない牛飼いの子どもへの負い目へとつながっていたか。牛のイメージが近景と遠景をつないでいたようでもある。あの牛飼いの子どもと、字引を写すワン・フー君とが対比されて感じられた。貧しい環境下で自分なりの字引を作っていくワン君は、普通の物語の中でなら間違いなく「立派な少年」なのだが、この作品ではその外にさらに文字を学ぶ機会すら与えられていない少年を置き、さらに一段遠くから状況を眺めているよう。より多くの文字を覚え、手製の字引を厚くすることが学習だろうか、という疑問の提示? これは文革下の雰囲気を知ることができるいい映画だが、同時にその中にいた者たちの隠語に彩られていて、なかなかストレートには通じにくくなっている。仲間でハヤす「お寺の和尚がどんな話をした?」なんてのは、部外者には分からない。牛に小便を飲ませる話とどうも関係があるらしいのだが、先生が記した牛の下に水の字の意味は? 同じ体験をした者にとっては、深く沁み入ってくるのだろうが、あまりあからさまにはまだ語れない・語りたくない、といったためらいも感じられるのだ。その「もってまわった」ところに文革の傷の深さがある気がした。「上学(学校へ行く)」の作文のシーンがいい。教科書や字引を写すより、まず知ってる言葉で語っている伸びやかさ。けっきょく青年の敗北が描かれたのか、それとも彼の熱意がこれから野焼きの火のように広がっていくと言っているのか。言いたいことよりも、描かれた映像に圧倒される作品だ。『黄色い大地』と『大閲兵』は、まず中国映画差の一編として公開されたが、この作品からちゃんとロードショーされたと記憶している。
[CS・衛星(字幕)] 8点(2012-07-06 10:05:25)
104.  レッズ 《ネタバレ》 
つい『ドクトル・ジバゴ』と比べてしまいたくなるわけで、メロドラマとしての語り口のうまさという点では、あちらの勝ち。ジャック・ニコルソンが中途半端で可哀想なのに比べて、あちらのロッド・スタイガーは有効に使われてた。政治的主張という点では、あちらは反共に重点が置かれていたけど、本作は当時のアメリカがどうだったのか、という視点で描かれていたみたい。共産主義者ではあってもアメリカの理想主義の体現者という捉え方、あくまでもアメリカ精神の基本に忠実なの。オバサン革命家が理想と現実の乖離に目を向けたのと違い、ジョン・リードは現実を理想に引き戻そうと頑張った。共産党の官僚主義に対して抵抗を(そう強い語調のものではないんだけれど)試み続け死んでいってしまうわけ。戦いのシーンで「見る者」だった彼から「走る者」に変わるところが象徴なんでしょうなあ。理想の側に加担し続けようとするってところが、共産主義者を描いてもアメリカ精神なんです。インターナショナルが流れても、ちゃんとハリウッド映画。カメラが美しく『1900年』と同じ、赤旗を叙情的に撮れるV・ストラーロ。
[映画館(字幕)] 7点(2012-07-04 09:53:10)
105.  楢山節考(1983) 《ネタバレ》 
「万世一系」のとうとうたる流れがまず本流としてある。それは死に臨んで聖化され、生まれ変わることの出来る者たち。この今村版でいいのは、それに「東北の神武たち」のエピソードを対比させているところ。子孫を残せず、生まれ変わりの夢も持てない者たちの存在。虫や獣でさえ持っている「血の流れ」を断たれてしまっている者たち。彼らはこの共同体の否定者となる資格があるのに、対立していなく、ただただ地を這うように生活している。そして村の掟を破った者たちの「血を絶やす」リンチに加わっていく。ここらへんの無惨でありながら生命力だけは感じさせるところが今村の世界。この監督は理性では共同体を否定しようと思いつつ、そのメカニズムに魅了されてしまっているようなところがあり、その屈折が魅力になっている。嫌悪と讃仰が入り混じっている。そして多くの近代日本人にとって、そのテーマがずっと「問題」として頭上にあり続けていたのだな。いくつかの怪異が印象に残る。二度噂に現われる父の亡霊。銃を撃つと木精が揺れ騒ぐところ。そして楢山まいりの途中でおりんが一度ふっと消えるところ。山を登るにつれて次第に神聖さが増していくところが見事。
[映画館(邦画)] 8点(2012-06-28 12:33:34)
106.  プリンス・オブ・シティ
正義の定義が不明確になった時代、逆に言えば明晰な不正と言うものがつかみづらい時代でもある。微温的な悪の時代と言うことか。たしかに主人公の警官は自分の今までしてきたことに対して疚しさを持っている。それがあまりいいことではなかったと思っている。そこで摘発する側に協力するわけだけど、ここで囮になってもっと汚いことをするわけだ。同じようなことをやっていても、所属によって悪になったり正義になったりする。観客も身を寄せる絶対的正義のないこの物語の中で不安定に浮かんだままだ。仲間の人懐こさを丹念に見せられると、主人公の裏切れない心もよく分かってくる。機構の隙間に迷い込んでしまったものの目に映る「正義」の曖昧な本性、そこらへんがテーマと見た。カフカ的ですらあるテーマを「雰囲気」に逃げず、あくまでも監督の手触りの感じられる世界に投影するのが、この人の実直さ。仲間うちの信頼が決して正義とは重ならないことを承知していながら、まだ確かな手触りが感じられるそのほうに寄っていく主人公。設定は納得できるが、やや演技過剰気味のヒステリーになってしまったか。ラストで若い警官に侮蔑を受けるシーンが印象的。
[映画館(字幕)] 6点(2012-06-25 09:44:24)
107.  炎のランナー 《ネタバレ》 
高貴な映画。光線が美しい。それも室内や曇天など翳りを含む光が絶品(海辺だけじゃなく、妹に決意を述べるとこも)。これだけでも参ってしまうのに、さらに時代色が濃厚。ほんのワンカットのために車用意したり、衣装も大変だったんだろうな。そして選手たちの走り。最後の100mなんか、スタートしたらすぐスローモーションになるんじゃないか、と思ってたらそのままのスピードで走ってきた。走ることの神々しさが、小手先でなく出た。とにかくまったく自分のために走った二人の物語ってのがすがすがしい。学校の名誉や国の名誉をコケにするからと言って別にイキがってるわけじゃなくて、自分の信念を守っているだけなの、またそこがスポーツマンシップであるところが皮肉。彼らもクヨクヨ悩みはするけど、信念そのものに対する疑いは生まれてこない。こういう信念の人間は本当は苦手なんだけど(歴史を見ればそういう人が危険な場合のほうが多かった)、すがすがしく好感が持ててしまったのも事実。リデルのほうは中国で死んだっていうのは、日本兵にやられたってことなんだろうか、遠くの美しい物語が急にナマナマしく感じられた。ラストで冒頭部分が繰り返されるんだけど、曇天のなか過去の亡霊たちがニコニコと笑いながら走り来たり走り去っていく感じで、味わいもひとしお。
[映画館(字幕)] 8点(2012-06-20 09:43:28)(良:1票)
108.  男はつらいよ 花も嵐も寅次郎
ワルツが久しぶりに鳴った。偶然の出会いを仕組むあたり、本シリーズでは珍しくはないもののやはり笑える。蛍子の親父さんが「こんな奴と付きあってんのか」というとこも笑った。とらやでの画面の作りはもう熟達の境地。すみずみまで無駄がない。左側に怒ったオイチャンがいると、右側に泣いているオバチャンを置いて釣り合いを取り、話が一室に籠もりそうになると、オイチャンのとこに人が来たりして、店から三郎に挨拶を送る場面を挟んだりして息を抜く。流れが出来る。このころから寅はよくマドンナの恋の相談相手になる。寅は結婚してないから理想が言える、ってことで、ヒロシの言葉を借りると「それが欠点でもあり美点でもある」。けっきょく寅は人生の通過者であり続けようとしたわけで、人生の転換点を乗り越えることが出来ない人なの。ある意味臆病、よく言えば永遠の青年。だからほかの人が乗り越えようとするとき助言を与えるのに熟達している。『太陽を盗んだ男』などニヒルな役が多かった沢田研二に、気の弱い動物園の飼育員をやらせたのが慧眼で、上方のボンボン的な資質を見抜いていた(鳥取生まれの京都育ち)。後年沢田は舞台で「夫婦善哉」をやることになる。
[映画館(邦画)] 7点(2012-06-14 10:13:09)(良:1票)
109.  黄昏(1981)
ちょっとボケ始めたことを自覚し、心では弱っていながら頑固を通すジイサン。火を出して「ワシ、何しでかすか分からんな」なんてとこ、グッとくる。イチゴ摘みに行って(『野いちご』を意識してるのかな)道が分からなくなるとこの怖さ。それらを含む老夫婦の物語の部分は実にいいんだけど、ヒネたガキが素直になるとか、父と娘の和解とか、ドラマチックな部分になると急に嘘っぽくなっちゃう(というか現実の俳優親子のこと考えちゃって気が散る)。それまで四方に輝いていた人間性が、そのドラマの枠内だけになってしまったというか、しぼんでしまった。親子で怖がっている図なんか、そう悪くはないんですが。ゲームをしてても、つい真剣になってしまう、なんてよく分かる。冒頭の湖、草がゆさゆさ揺れて美しい。
[映画館(字幕)] 6点(2012-06-13 10:24:36)
110.  キャバレー日記
チェーンのキャバレーで店長を目指す男の話で、そのイヤーな感じは良く出ていた。軍隊調の挨拶など。ある種の被管理願望っていうのか。それがあまりに陰鬱なので、いろいろ滑稽なシーンがあっても笑えないんだな。作者がマゾヒスティックな喜びに浸りすぎちゃって批評の目が薄らいだのか、あるいは作者の中を通過しきっていない不消化のルポってことなのか。伊藤克信はノーマルな会話はダメだけど、普通の演技でない叫んだりするとこでいいんだ。これ池袋の名画座(文芸地下)で観たんだけど、近くに伊丹十三が座っていて驚いた。1983年3月4日のことである。この3日前の3月1日には銀座の名画座(並木座)で『人情紙風船』を観、そこでも伊丹十三に出会っていたのだ! 私も暇だが伊丹さんも暇だなあ、と驚いたが、これの併映が森田芳光の『マル本・噂のストリッパー』で、伊丹さん『家族ゲーム』の撮影に入っていたころか、監督の力量を観に来ていた“仕事がらみ”の観賞だったのであろう。ついでにそれにもちょっと触れておくと、純情青年がストリッパー(岡本かおり/『家族ゲーム』にもちょっと出ている)に抱く憧れの話で、淡い哀感を伴う成長物語になっており、私には根岸作品より面白かった。太田あや子との会話「これ自信作なんです」「自分で作ったんですか?」「買ったの」なんて、距離を置いて丁寧な口調でボソボソと語り合ってるのが、まさに森田調でした。
[映画館(邦画)] 6点(2012-06-08 10:13:10)
111.  グロリア(1980) 《ネタバレ》 
これ『クレイマー、クレイマー』の翌年の作で、あっちの記憶が残ってるうちに観たので、比較してしまった。あっちは父親の女性性の回復というテーマだったんだろうが、その後でこっち見ると、とっくに女性は男性性を回復してるんだ、と言ってるみたいでおかしかった。男のようなヒロインが次第に女心を膨らませていくという、意地よりも子どもの命が大事、という心のドラマがあって、こっちは少しややこしくなっている。冒頭の夜のニューヨークの空撮が美しいが、見応えという点では、ジーナ・ローランズの顔だね。なんか日本の仁侠映画のやくざの顔にも通じるものがある。アクションと人情が重なる場、たとえば子どもを突き放そうとしてたところへ悪漢が来て撃ってしまうところ。バンバンと向きを変えて撃つほうだけを撮ってて爽快。いつも不意に発砲するのがいい。
[映画館(字幕)] 7点(2012-06-04 09:57:49)
112.  E.T. 《ネタバレ》 
前半家庭内の部分がいい。ボールが投げ返されてきたり、ママといろいろすれ違ったり、たんすの中でぬいぐるみ人形と一緒に隠れてるのなんか最高。でもエリオットが学校に行って、E.T.との心の交感があらわになってくると、映画に不純なものが混じってくるようで、新鮮さが失われていく。心理学的な解釈が入り込んでくるというか、『未知との遭遇』までは感じられた「新しいもの」の感触が遠のいた。あっちにはあった臨場感が薄れてしまった。科学者たちが『未知…』ではこちら側の人間だったのが、これではあちら側に回ってしまって、大人が均一のノッペリした存在になってしまったからだろうか。子どもっぽい大人と、子どもとでの違いなのだろうか。いえね、けっして悪い映画じゃなくて、自転車が飛ぶときの爽快感はやっぱり見事だし(『ダンボ』?)、「人を見たら泥棒と思え」という話より「よその人には親切にしましょう」って話のほうが気持ちいいし、そういうのが甘い理想だとは思わないんだけど、なんちゅうか、以後もスピルバーグ映画にときどき現われてくる「子どもへの過剰な擬態」が、初めて気になった作品ではあった。
[映画館(字幕)] 7点(2012-06-01 09:58:46)
113.  サン★ロレンツォの夜 《ネタバレ》 
この監督の映画はエピソードをひとつひとつ思い出すだけでも心が満ちてくる。教会が砲撃され司祭と母親が額をつき合わせて傷ついた娘を運び出す場とか、画面は至ってシンプルなのに沁み入って来る。寓話の紙芝居をめくっているように、戦争の残酷がピクニックの絵日記のように展開していく。残酷が頂点を極めるのが、小麦畑での戦い。今まで幾多の戦闘シーンが映画の歴史の中で撮られてきているだろうが、私にとってはこれが一番きれいで残酷。グロテスクな意味での残酷ではなく、まさに戦争そのものの残酷さが、うららかな小麦畑の中で繰り広げられるのだからたまらない。圧巻は少年ファシストを射殺するシーン。少年ならではの純な高揚がその前に描かれている。父の「まだ十五歳だから」と嘆願している目の前で、地を這いずり回って助けを求めている少年を射殺する。殺す側も身重の妻をファシストに殺されており、この憎悪の増幅の耐え難い残酷さほど、ストレートに戦争を告発した場はないだろう。射殺の次にパッと遠景のカットになり、画面を美しい緑で埋めてしまうニクさ。さらにすごいのはラストで「実際に起こったことでもハッピーエンドになることがあるんだよ」って言うんだ。ずっと深い絶望を語ってきた映画の最後で、それを踏まえた上での希望を語っている。断固とした平和への意志が感じられる。戦争をそのまま描けば、いやピクニックのように楽しんでいる少女を通して描いても、それは反戦映画になる、という確信を監督は持っている。こういう作品を作れるのは本当の平和主義者に違いない。私は傑作の多いこの監督の作品群でも、本作と『カオス』がとりわけ好きだ。
[映画館(字幕)] 9点(2012-05-24 10:07:34)(良:2票)
114.  セーラー服と機関銃 《ネタバレ》 
『スーパーマン』のM・ブランドはしっかり浮いていたが、そこいくと我らが三国連太郎はすごい。大奮闘。ちゃんとコミック的な世界に溶け込んでいる。ああいう敵の巣窟の映画ってのが懐かしく、また廊下での撃ちあいも懐かしく、なんかそんな懐かしさに一番こころ撃たれた。長回しもたしかに面白いが、芸術上の必然性より作者が楽しんでるみたいなとこが、この監督の特徴。躍動感をそのままフィルムに封じ込めるのに成功している。薬師丸ひろ子は、新宿の高層ビル群が似合う(『翔んだカップル』もそうだった)。生活臭のないところだろうか。でも彼女自身はそう都会的って方向ではなく、そこらへんのアンバランスが魅力だったんだ。「しっかり」にちょっと「けなげ」が混ざってる感じ。いろいろと迷ったりする役より、一直線的な役のほうが合う。けっこう古風な青春像に重なっている。
[映画館(邦画)] 6点(2012-05-23 09:57:57)
115.  ワン・フロム・ザ・ハート
これ『地獄の黙示録』の次の監督作で、意表をついたミュージカルで映画ファンを驚かせたものだった。冒頭、ネオンの裏から店の中にはいっていってテリー・ガーの鏡にまで至るワンカット。男のほうの話から女に移っていって、いろいろあってまた男に戻ってくるまでのワンカットも楽しかった。男女の歌が心理を描いていくのが義太夫を思わせ、このラブストーリーは都市生活者にとっての「民話を元にした人形浄瑠璃」を思わせられた。主人公は人形なんだから、歌わない。しかし踊りはもっと見せてもらいたかったな、彼らは操られているんだから。ま、ちょっと見せたガーのダンスのぎごちなさを思うと仕方なかったのかもしれない。シルエット・タンゴが美しい。だいたい撮影が逆光の好きなV・ストラーロで、あの人の人工光による世界では、これと『ディック・トレイシー』がとりわけ美しかった記憶。デュエットが流れているときの人物が手持ちぶさたなのに、もう一工夫ほしいところ。
[映画館(字幕)] 7点(2012-05-21 10:20:04)
116.  終電車
設定は絶妙。舞台の下に隠れる演出家、舞台の上での「恋を自覚していない者同士の恋」にいち早く気づき、自分を含めたドラマを演出していかざるを得なくなっていく、というか手に負えなくなっていく。この「恋を自覚しない者たちによって綴られるメロドラマ」という趣向がメイン。意識が、反感や無関心を装って表れるところが味わい。それが実に抑えて抑えてやってるんだよね。こちらがそれに見合うだけのデリカシーがあれば堪能できたのかもしれないが、もうちょっとワクワクさせてくれてもいいんじゃないの。設定だけに寄りかからない態度は立派でも、せっかくの設定が十分に生かされてたのかなあ。趣向が直接映画の楽しみに結びついていかないようで、なんかじれったい。とは言えこの設定は評価。
[映画館(字幕)] 6点(2012-05-18 09:53:32)
117.  ねらわれた学園(1981)
昔NHKで6時からやってた少年ドラマってのか、あれで面白かった記憶が濃厚だったので、かなりガックリした。あっちは連続ドラマだったんで、だんだんファッショになっていく怖さをやれたんだな。テレビも低予算だったんだろうが、頑張っていた。こっちも金は宣伝費に使って実質低予算だったんだろうな。ラストの対決シーンにその低予算の哀しみが漂った。あるいは新人俳優に演技指導する予算も、製作費の穴埋めに回して使ってたんだな。体育教師がこっち側につくんだけど、だいたい体育教師ってのはあっち側の人間が多いんじゃないの。って思うのは偏見か。でもこれ話の核心はいいんで、丁寧に作れば、しっかりした作品になれたんだがなあ。
[映画館(邦画)] 5点(2012-05-16 10:02:06)
118.  さらば愛しき大地 《ネタバレ》 
一度ヤクをやめようと思ったとき、家族が来て再び手を出してしまうとこ。周囲のものが「ちゃんとしてほしい」と実に控え目に望んでいるのだが、その控え目な期待が重荷になってしまう。ダンプというシェルターから出たとたん剥き出しになってしまう。ダンプがあの稲穂や森のざわめきから守ってくれていたのかも知れない(カメラの田村正毅は小川紳介作品で稲穂に熟練)。さらにヤクに溺れていく原因を消去法で詰めていくところ。子どもの死ではない、妻はしっかり生きている。家庭が悪いわけではない、弟はちゃんとやっている。性格の弱さではない、友人は溺れなかった(蟹江敬三が「みんなやってんだべ」「たいしたことないっぺ」とビクビクしながら言うとこが絶品)。最終的な結論は得られないが、この丹念な作業が、じわじわとネジを巻いていくように怖い。秋吉久美子の「何いじけてんのよ」って言葉も、煽ってくる。すべて被害妄想という一言で片づけられるものかもしれないが、ヤクとダンプに保護されずに生きていくということは、その剥き出しに放り出されることなんだ。家族とはダンプのシェルターなしで付き合わなければならない。日蝕の色調が素晴らしかった。蟹江家のびっことどもりは「金閣寺」のパロディなのかな。
[映画館(邦画)] 8点(2012-05-15 10:07:05)
119.  フランス軍中尉の女 《ネタバレ》 
なるほどなるほどと思って観ていたんだが、あとであのヒロインの心理考えてみて、イマイチ分からない。けっきょく何だ、恥で身を固めることによって世間と対決していこうとしていたってことなのか? 一種の男性恐怖症か? というより、男に対する激しい侮蔑があったってことなのか? 聡明さゆえの不幸。清冽な孤独の中で生きようとしながら、しかし科学者に恋してしまったってことなのか? と焦点を定めづらいところへもってきて、話の二重構造がまたややこしくしている。現代編と並行しているだけなら、それなりに理屈として分かる気もするが、わざわざ「19世紀編を演じている役者」という設定にしたことは、「演じる」ということが重要な意味を持ってるってことで、それがヒロインの偽の「フランス軍中尉の女」を演じ続けようとしたことと関係づけているみたいなんだけど、どうもうまく対比できなく、現代編が19世紀編に関わっていってしまう形になるから、ピタリと決まってくれないんだ。やがてノーベル賞を獲るハロルド・ピンターの脚色なんだから、こっちの読み取り力が悪い、と思ったほうがいいのかも知れないけど。
[映画館(字幕)] 6点(2012-05-14 10:53:09)
120.  男はつらいよ 寅次郎あじさいの恋 《ネタバレ》 
夢から覚める場がない、タイトルバックが江戸川土手でない、マドンナがとらやの座敷に上がらない、などの変化あり。室内の暗さが今回は目立ち、京都の伝統を出す意識的なものもあろうが、マドンナ(かがり)の暗い情念とも通じていたよう。今回の趣向は、寅がマドンナに追いかけられる、という点。今までもホンワカムードになったのはあるけど、一途に思いつめられて付け文をそっと渡されたりまでする。その前に丹後でかがりの家に泊まることになっちゃうのが予備段階の緊張。かがりの母が近所の手伝いに出てしまい居心地の悪くなる寅の晩餐、自分からお酒を求めるかがり、狸寝入りしている寅、そっと部屋に上がってきて寅の横にしばらく座るかがり(娘のランドセルを取りに来た、という理由はある)。その心理のだんまり芝居を見ているようなせめぎ合いが見事。かがりは失恋の痛手に、加納の「人に気を使うな」という叱責の言葉が重なりズタボロで、ゆきずりの・下駄をくれただけの下駄顔の男に弱った心が一気に傾く。翌朝の別れのとき想いが溢れ、ずっと船を見送り続けているかがりのカットの積み重ね。なんか蛇体となった清姫のような凄味さえ感じられてくる。山田洋次は、臆病になってはならぬといつも言いながら、そうい臆病になる人たちをいとおしんでもいる。寅も含めて。ここらへんシリーズ通してのテーマ。あともう一つシリーズの重要なモチーフとして、かがりは外での寅と内での寅の違いを江の島で指摘した。外で会ったときは優しいのに、家に帰ると違った人になっちゃったみたい、って。本作では恒例のとらやでマドンナがもてなされる場がない。今までの寅は、とらや一家の暖かさの代表としてマドンナに気に入られていた面があったが、本作で個人として自立した(!)、ってことか。あじさい寺に寅が満男を連れてきたのを見て、かがりはちらっと表情を翳らせる。ここには「寅は寅の所属する家の人なんだわ」という嫉妬と落胆がある。寅は旅先ではけっこう大人として振舞えていた。濃い人間関係が生まれそうになったら、無名の旅人としてその場を去れる状況では強い。しかし名を持った個人として剥き出しで女性に対さなければならなくなると、たちまち恐怖に囚われてしまう。そしてシェルターとしての家の代理人を誰か、さくらがだめなら満男でもいい、必要になるのだ。デリカシーのある男はつらいよ、って寅は言うだろうが。
[映画館(邦画)] 8点(2012-04-21 10:12:12)(良:2票)
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