141. アザーズ
《ネタバレ》 このころはまだニコールを見飽きていなかった時代。 パクリといわれたが立派に成立していると思う。個人的には、パクリじゃなくて、たまたまだったんじゃないかと思っている。丁寧で美しい映像。この作品のニコールはいけている。植民地の支配層婦人の心意気がよく描かれている。主婦といえども有事の際には、迷うことなく銃を手に。ラストの種明かしもスタイリッシュ。楽しめた。 [ビデオ(字幕)] 8点(2005-11-02 21:22:59) |
142. マシニスト
《ネタバレ》 激やせのことはどうでもいいんです。そりゃあ、誰だって驚く。それより、あの黒人の人すごいです。あんな雰囲気の人ほかにいませんねー。全然出番少ないのに、強烈。及川ミッチーも真っ青の悩殺流し目笑い。しびれました。あの人のとこだけ2回見てしまった。欲をいえば、親指の件はよけいでしたね。あんなものなくたって全然かまわない。「バタフライエフェクト」も好きだし、ストーリーものは大好物分野なり。「シークレットウインドウ」はバツだけど。ジェニファーのたるみぶりにおどろく。あれは、役作りなんですか。地なんですか。「アニバーサリー」の時の可愛さゼロ。 [DVD(吹替)] 8点(2005-10-31 23:13:15) |
143. 瞳の奥の秘密
《ネタバレ》 なかなか見ごたえのあるサスペンスです。 個人的にはスペインの法制度がどうなっているのかに不案内だったため、わかりにくい点もありました。 冒頭の美しい朝食シーンが非常に印象的で、そしてただちに美しいものが徹底的に破壊され、25年後にあの美しい朝食に匹敵するほどおぞましいラストに収斂されていくと。 美しいものとおぞましいものがなぜ匹敵するのかと、いうことは表現しにくいのですがそれは代償というに近いのかもしれず、失ったものの美しさと、その代償のおぞましさは、匹敵するほどのものでなければならないのではないかと。 ひとつだけいえば、犯人が簡単に釈放された部分には、いささか強引なご都合が感じられました。あそこをもう少しなんとか説得力のあるものにできれば。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2012-05-20 20:36:18) |
144. 人生万歳!
《ネタバレ》 ラリー・デイビッドはドラマ「Curve your enthusiasm」で見ていましたが、考えてみたらウッディ・アレンの分身としてぴったりな人でした。 本業はTVプロデューサーなのではなかったでしょうか。 分身も分身、身長と頭部が余計に淋しいこと以外は、まさに同じ。 頭が緩くてガタイがよくて金髪の女にこだわるところも、いつもと同じアレン。 なんというか、新しい発見のようなものは特にないのですが、行きなれた名店のコーヒーを飲むような、そんな感じです。 男どうしの会話の絶妙さなんかは、ウッディ・アレンならではだなあ、と思います。男どうしの会話はロブ・ライナーもいいですが、ウッディ・アレンのほうが上だと思います。 やはりこの作品にしても「アニー・ホール」を超えるものではなく、彼は一生あれを超えるものを作れないということで、なんとなく損な感じもしますね。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2012-04-06 23:29:42)(良:1票) |
145. レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで
《ネタバレ》 壊れた人間関係や機能しないものを描くのが好きなメンデスだ。 ものごとが秩序立って気持ちよく進むのが嫌いなんだな。 さてエイプリルの取り付かれた「自分探し」というものは「夫が俗物化していくことを阻止しなければ」という強迫観念と混然一体となっていたようだと私は思うのだが、その「種」を撒いたのはキャシーベイツ演じる不動産屋の悪意…だったのかなあと、ラストでそんな気がした。 不動産屋の夫のアップで終わるというこのラストはなんなのかというと、たぶん「悪」を見た人の顔、という意味なのではないだろうか。 「あんたたちは特別よ」と7年間に渡って刷り込み続けることで、エイプリルの「生きがい探し」「自分探し」が始まってしまったのではないのか。 エイプリルがもともと「自分探し生きがい探しに目覚めてしまうような特別にやっかいな女」だったのかというと、それは映画内の描写だけではよくわからない。 が、隣のミリーはそういう〝病気〟にならずにすんでいる。同じように男児を2人産んで、郊外で主婦をやっているのに。 ウィーラー夫婦は共に、恵まれていることを自覚していないという点が共通していて、エイプリルの不幸は「俗物化していく夫を捨てられない」ということで、出奔することさえできれば悲劇は起きなかった。 この映画では「神」が決定的に欠如していて、たぶん「映画内での」神の欠如と子供の無視は同じ意味であって、「神の欠如」=「感謝の欠如」=「子供に対する無視」=「生きがいの喪失」なので、むこうの文化では「感謝」というのは「神」があってはじめて生まれる。 信仰を失っていること=感謝の気持ちの欠如=不動産屋につけこまれるスキを与える=「特別な体験をして特別な人間になれないこと」への欠乏感。 さてエイプリルの最後の行動の謎について触れたいが、これは「自殺」ではないことは救急車を呼んでいるから間違いない。とすると、「話すのも触られるのもイヤなフランクの妻として暮らしながら、なおかつ〝生の実感〟を得るにはどうすればいいか」というエイプリルなりの究極で唯一のソリューション、「死の淵から蘇る」ということだったのかと、私は思う。 死にそうになって助かると、生きている実感を得られる。ジグソーみたいだが。 彼女にとって一番問題だったのは「生きている実感が得られない」ということだったのだから。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2011-11-12 23:54:40)(良:1票) |
146. ダウト ~あるカトリック学校で~
《ネタバレ》 時代設定はケネディ暗殺の翌年ということになっています。 原作ものらしい。 メリル・ストリープとフィリップ・シーモア・ホフマンの両芸達者の激突が見どころです。 孤立無援でも、誰にも感謝されなくても、「善」を達成できるかどうか。 というようなテーマだと思います。 善はもちろんキリスト教の神さまの決めた「善」です。 少年愛がいけないのかどうかは、時と場所によって違います。 これはキリスト教の話なので、キリスト教の神さまがいけないと言っていればそれは(ここでは)いけないことなので、いいのかいけないのかについての「ダウト」というものはそもそもない。 校長は国が決めた法に対して忠誠を誓っているからここまでの行動に出たというわけではありません。 で、話のゆくえとしては、自分さえ目をつぶれば四方八方丸く収まるのであって、誰も協力してくれなくて、騒いでも誰にも感謝をされないという場合の「善」について、それをできるかどうかということが、シスターアロイシスに信仰上の試練として問われていて、彼女は見事にそれを成し遂げた、ということになります。 どこまでも宗教的な話で、まあ大した話ではないのにここまで仕上げたのは2大芸達者俳優をブッキングできたからかなあ。 ホフマンのいかにもな変態神父はいやらしすぎて見ていられません。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2011-09-14 23:06:34)(笑:1票) |
147. サバイバル・フィールド
《ネタバレ》 ちょっとブレさせすぎっすね~ほとんど酔います。気持ち悪くなる。 これはスペイン映画だが英語で製作されています。 途中でネタばらしをしてしまうという作りになっている。このへんは評価が分かれそうだ。 私はあの無線?連絡とかは要らなかったと思うなあ。 最後まで「主催者側」の映像を一切撮らず、観客に判断させたほうがよかったのでは。 出演者のどいつもこいつもエゴイストなところが安いヒューマニズムを排していて良かったと思う。 それができるのもスペイン映画だからということか。 観客が出演者の誰にもシンパシーを持てないまま見続けるというところもなかなかおもしろい。 また、演出は徹底してリアル…パニックで泣きわめくシーンがあまりにも多いのだが、コントっぽく見えないように相当演技をつけているみたいだ。 全体的にそんなに悪くはないですが、例によって「2」とか作るのはやめてもらいたい。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2011-08-16 23:42:58) |
148. シャッフル(2007)
《ネタバレ》 とりあえずサンドラは好きだから、相手役の男がイマイチでも、サンドラだけ見ていればなんとかなる。私の場合。 そして、ひかえめな演出も、まあまあよい。揺れるカメラは嫌いだが。 そして、宗教映画…だな、ということもまあいいか。 宗教心を、信仰を持たない人間は「迷う」であって、「時間」にすら迷うのだと。 録画を消去してしまったので、もう確認ができないのだが、疑問が残る。 「鳥の死骸」は、日曜日の夜の落雷?で落ちてきたはず…。ですよね。 木曜日にそれをゴミ箱に入れた。はず? けれど「その前の曜日」にゴミ箱を開けたら「死骸があった」というシーンがあったはずなんだが、どういうことだろう。 もうひとつは「長女の顔のケガ」は火曜日だった。 けれど、始まりの木曜日には、長女の顔って、どうなっていたっけ? 映画の中では、長女の顔のケガに気付くのは土曜日なのだが、木曜日にもケガがあったはずなのに、それについては、いったいどうなっていたのだっけ。 水曜日には長女の出演シーンはなかったからいいのだが。 あれえ、これって…。 で、意図的なのだとしか思えないのだが「新聞を取っていないor読まない」とか、「TVをつけない」とか、カレンダーがどこにも張ってないだとか、そういう小細工がありますよね。 それって…ううむ、これはリンダの回想ということ?妊娠して寝ているリンダがラストで目覚める前の夢ということ? そうすると、「鳥の死骸」や「長女の顔の傷」の矛盾も解けるというか、それならどんな矛盾もOK。 しかし、それだとシャッフルの謎で引っ張るというのはどうなのかなあ。謎じゃないわけだから。 原題は「Premonition」で「前兆」という意味らしいので、もともと「シャッフル」という題名なわけではないのですよね。 全体として悪くはないが、夫役にもう少し魅力のある俳優(死んで惜しいと思うくらいの)を当てて欲しかったのと、構成がこれで「合っている」のかどうかがやっぱり気になる。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2011-05-30 23:33:52) |
149. さらば、ベルリン
《ネタバレ》 この作品は映像を楽しむものではなくて、「謎解き」のほうがメインなのではないかと思います。 クルーニーとかブランシェットを投入して過去の名作を濃厚に匂わせるなどしてしまったので、もっと雰囲気やムードを楽しませてくれるかと期待されがちだが、そんな意図は全然なく、「謎解き」や、「歴史」との絡みで唸らせることを狙ったのではないかと思う。 そういう意味では、バホ「ブラックブック」とかのほうが近いのではないか。 この作品のミソはどこなのかと聞かれたら、私なら「エミール・ブラントにトドメを刺したのは誰だったのか」と答えるなあ。 「英語がしゃべれない」というのは嘘に決まっている「元ドイツ人警察官」の無口なおっさんだが、「なぜ彼がエミールを殺したのか」ということを考えるととても面白い。 なぜなら、私はバーニーがレーナとエミールを裏切って殺したというふうには思っていないからだ。バーニーは「自分の指示だった」ということを一度も言っていないと思う。また、レーナはトドメを刺されていないから、殺意は明らかにエミールだけに向けられていたということもある。 バーニーはマラーたち米軍に「待ち合わせ場所」を密告したかもしれないが、「殺し屋」まで送ってはいないと思うのだ。1人目の殺し屋は米兵だった。 米兵が失敗したあと、例のおっさんは動き出すのだが、これがバーニーの指示だったというふうには、私は思わない。なぜならバーニーは密告しているので「軍がエミールの口をふさぐ」ということを知っているわけなので、「もしも失敗したときのために部下を配置する」ということは「介入」になり不自然だ。 百歩譲って「観察」のために部下を配置したのだとしても、「失敗したら殺せ」という命令をバーニーがしていたとは、私は考えない。 おっさんがバーニーの命令ならずしてエミールを殺した理由を考えてみるのはおもしろいと思う。 おっさんはもしかして「元ドイツ人警察官」ではなくユダヤ人なのか。ドーラでの非人道的行為に対する復讐だったのか。それともやっぱりドイツ人で、ドーラでのことを公にされたくないという「死んでいるヒトラーもしくは上層部からの」指示を忠実に守ったのか。もっと言えば、おっさん自身がドーラでの行為に関わっていたのか。 そのへんのことを明らかにしないまま終わるところが、ミソなのかなあと思う。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2011-04-19 15:27:32) |
150. グッド・シェパード
《ネタバレ》 リドリー兄弟が製作総指揮を務めた(ということになっている)TVドラマ「CIAザ・カンパニー」と比べて見るとこの作品の特異さがよくわかると思う。 TV版では、血湧き肉踊る「現場」へ主人公が赴き、銃弾は飛び交い、東欧の住民蜂起では共に銃を持って戦い、現地人はコロコロと死に、スパイは殺し合い、キューバ侵攻に参加して上陸までする(泳いで単身船に戻って逃げるという設定)。 八面六臂の大活躍で、主人公は決して死なない。よってリアリティは激しく低い。 デニーロ版では、銃弾飛び交う戦闘シーンとか住民の蜂起とかは描かれず、凄惨な拷問シーンも一回だけで、「スパイ合戦」などは部下がやっているらしいからウィルソン自身は決して手を汚さない。 「前線」ではなく「前線の一歩も二歩も奥」を描いているのだ。 この作品は「奥の方々のお悩み」のことを言っているみたいなのだ。 そして、この当時の「奥の方々」とはWASPであり、作品中で最も重要なセリフである「WASP以外は〝visitor〟である」が登場するのである。 この〝visitor〟は〝お客さん〟と訳されていたが、私は〝よそ者〟というのがここでは適すると思う。 さて、こんな作品を作ったのはデニーロさんで、デニーロさんは〝よそ者〟と呼ばれる側の人なんである。そして上のセリフは、イタリア人マフィアのじいさんとウィルソンの会話である。 デニーロさんの目線は、ウィルソンの側にあったはずはないのだ。デニーロさんは、「奥の方々のお悩み」について本当に、心から、興味を持てるのだろうか。 それがこの作品をよそよそしいものにしているのではないか。 また、デニーロさんがデイモンに要求した演技の内容は、そのままデニーロさんのWASP像ということでしょう。…材料が乏しすぎたのでは。「本当はよく知らない」から、こういうことになったんじゃ? 今は〝日焼けした人〟がホワイトハウスの主になった時代。 〝visitor〟の内訳は変わったんでしょうか。 マット・デイモンがミス・キャスト。老け役が無理すぎ。それ以上に彼は「奥の方々」的なキャラではなかった。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2011-02-18 14:24:22) |
151. イカとクジラ
《ネタバレ》 まっフツーの国の人が見れば、問題点は明らかなので、この「メストアップ」な状態はアメリカ人のセックスに対する優先順位が高すぎるから起こる。 それは女の数が足りない期間が長く続いたという不幸な歴史をしょっているためだが、それにしても、もういいかげん自分らで気がついたらどうなのか。 人生にセックスというオプションはあるが、酸素や食料と違って、なくても死ぬということは、ないんだ。けど、あそこの国の人たちは「セックスの相手の確保」と「恒常的にセックスで満足を得る」ことが、呼吸や食事と同じかそれ以上に必要なものと思い込んでいる。…それで、しなくてもいい苦労をしたり、余計なトラブルがいっぱい起きてる。 大人の価値観が子供に伝わって、子供たちも、セックスが一大事だと思いこむ。 セックスは、してもしなくてもいい。オプションだから。 この作品の中で、最終的に長男がそのことに気がついて、「この国の大人たちはなんかおかしい」と表現してくれれば、わざわざこういう作品を作った意味もあると思うんだ。 でも、そういうふうにはならなくて、なんだか「不安の正体」を直視しに博物館へ行く、もう「不安」から逃げないぞ、みたいな「少年の成長系」締め方になる。 違うんだって。その不安は、大人たちがヘンだからあーたたちが巻き込まれて発生したんであって、あーたの親だけじゃなくて国全体がヘンなんだって。確かに、父が学歴だけが自慢の貧乏で嫌味なインテリだったり、母が淫乱だったりという、その家庭ならではの特殊事情はあるにしても、「国がしょってる問題」のほうが大きいんだって。 こういう終わり方をしては、根本的な原因がまたうやむやになるだけだ。 フツーの国では、やたらと子供にセックスの話なんかしないし、上の子が高校生になってまで、両親がセックスの相手を必死に求めていたり、自分の親と親友の親がデキてたりなんてことは、たま~にはあってもそんなにはないんだって。 結婚=キングベッドで夫婦が一緒に寝る、という鉄則なんか、そもそも無い国だっていっぱいあるんだよ。40過ぎても週に数回セックスしないと愛が無いなんて、誰が決めたんだ?だいたい、「愛」がなくなったら離婚しなきゃって、誰が決めたんだ? アメリカ人は、優先順位を考え直す時期をとっくに過ぎているんだけどなあ。 でも、べつに啓蒙する気がないならなんでこんな映画をつくるかな。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2010-10-19 20:32:34)(笑:1票) (良:1票) |
152. バーン・アフター・リーディング
《ネタバレ》 これは〝アンチ〟の作品ですね~。 何に対するアンチかって、私がふだんからさんざん見ているような「テロリスト」とか「スパイ」が出てくる国家的陰謀系映画やドラマですよ。 それらの山のような作品群と、コレと、どこが何が違うかというと、見ればわかるように〝物事はマヌケなハプニングで動いていることが多い〟であり、〝誰もがマトモな目的を持って合理的に行動しているわけじゃない〟である。 〝並みの作品〟では、全くもってその逆になっているのであり、これだけの量を見てくるといくらボーッとしている私ですら、「物事はそんなに目標どおりにうまく運ぶものかなあ」とか「計画どおりにサクサク行きすぎるよなあ」とか「煩悩にかられてワケのわからない行動をする人とかいないのかなあ」とか、思うわけです。ようするに「不自然」なんだ。 コーエン兄弟がこういう作品を作って「不自然」と主張してくれたことは、評価したい。こういうのが主流になることは、ないとは思うけどさ…。 でもまあ、キャストが豪華すぎるわりには、なんだかな…。 はっきり言うけど、豪華すぎるんだよ。このテーマで主役級の俳優を何人も使う必要があるのか? そしていつものお気に入り女優を出すのはどうなの? 私は別にコーエンファンというわけではないので、そういうのがあざと~い感じがしていまいちノレないですね。「オレらの作品なら、こ~んな超A級俳優も低ギャラで参加したがるんだよん」って大書きしてあるのと同じ。 見慣れた俳優さんが何かしているというシーンばっかりだもの。べつにこの作品は、役者さんの微妙な演技を鑑賞させるための作品というわけじゃないのに。 これさあ、BC級俳優で固めたら、テーマが際立ってけっこう面白くなったんじゃないでしょうか。 ちなみに、こういうキャスティングだとどうしても上手い下手が目立ってしまうが、最も良かったのがマルコヴィッチ。見ていられないほど最悪だったのはブラピ。 [地上波(字幕)] 7点(2010-09-26 01:22:09) |
153. デンジャラス・デイズ/メイキング・オブ・ブレードランナー<TVM>
《ネタバレ》 CSで放送されたブレードランナーのメイキング&インタビュー映像。マニアにとっては垂涎ものと思われます(私はマニアではないけど)。 多くの観客と同じく、私も若い頃に初めて見たときは「つまらない」と思って即忘れ、年月を経てその偉大さに気がついたクチです。 さて、この映像では強引にナレーションを付けたり制作費超過に怒っていた(当然だけど)「Pたち」と並んでなんと「リの字」本人もインタビューに応じています。すごいことです。年を取るとは、単に老けるということではなく「絶対にできなかったことができるようになる」ということでもあるのですね。 イギリス人であるリドリーとアメリカ人クルーの確執なんかも興味深い。どう考えてもリの字はヤンキーをバカにしてますね。まあ分からなくもないが。 また、憤懣やるかたなかったハリソン・フォードも肩の力の抜けた穏やかな語りぶりで、「時間」はほとんどいろいろなことを解決してしまうのだなあ、と思うことしきりです。 ごくごく当たり前のことだけど、天才は理解されないのです。理解されないヤツが全部天才、というのは違いますが。そして天才は常に周囲を理解しないか理解しないふりをしますので、映画のような共同作業でなければいけない芸術の場合は、手伝う人間はいつも悲惨です。天才を手伝うのは秀才か凡人なので、天才が目指すところを完全には理解できないというのに、天才のほうは妥協を知らないからです。キューブリックしかり、フリードキンしかり、コッポラしかり。 そうして私たちはスタッフの苦しみと涙のうえに成り立つ偉大な映像作品を鑑賞するのです。そうでない作品は面白くならないのだ。 …偉大な作品に「なごやかな現場」とか「家族的なスタッフ関係」なんて有り得ないのです。 このメイキングを見ていると、そのことを強く思う。偉大な芸術が生まれる場所には、口論と対立と怒りと疲労と裏切りと懐柔があふれているのだ。 スタッフがそろって批判Tシャツを着てこようが、天才にとっては次元の違う話なのだ。それが天才なのだ。…「エクソシスト」のメイキングも見ましたが、同じようなものです。フリードキンは現場でライフルをぶっぱなしたので、もっとひどいかなあ。役者に喝を入れるためだそうです。 このメイキングのタイトルはとても「わかってる」と思う。 [地上波(字幕)] 7点(2010-07-10 19:59:24) |
154. BOY A
《ネタバレ》 ジャックとしてのピュアでシャイな少年像を見せたうえで、同一人物のはずのエリックがなぜ過去に残虐な殺人に加担したのか、そのへんを観客に納得させることにはとても気を使っていると思う。 エリックという家庭環境の不幸な子供がいました。勉強もできず、いじめっ子に殴られる日々。ある日、エリックよりもっともっと不幸なフィリップがいじめっ子からエリックを守ってくれました。エリックにとって信じられるのは、フィリップただ1人となって、フィリップにどこまでもついていこうと思いました。 疎外された少年たちが固い絆に結ばれて、絆を守ることがすべてに優先されて、エリックの年齢では善悪の判断がつかなかった。…そういうふうに説明していると思う。 が、カッターを握りしめて少女を追うエリックと、出所後のジャックには、同一人物とは考えられないほどのギャップがありますから「(追い詰められて自殺してしまうような)ピュアなジャック像」というのが先にあって、上の説明は後から考えたものなんじゃないかと。 テリーが情報管理にもっと注意したうえ息子に優しくしていたら、息子が金に目が眩んで密告しなかったら、白鯨ちゃんが新聞に写真を売らなかったら、クリスが電話でジャックを見捨てるようなことを言わなかったら、この中の一つでもなければ、ジャックは生きていた…と思われます。皆が少しずつジャックの自殺に加担しているわけですから誰ひとりこの件について「無罪」ではないということになります。 周囲のみんなが、少しずつジャックを死に追いやったのだ。 この人たちは罪を問われることはないが、ジャックはいつまでも憎まれたではないか…ってそら、やったことがやったことですから。そういう比べ方(をしているように見えるが)もヘンじゃないでしょうか。 エリック=ジャックという少年は邪悪ではなかったのだ、というふうに描かれていますけど、じゃあフィリップはどうなのかというと兄に虐待されなければ邪悪ではなかったので、ジャックを自殺に追い込んだ人たちも特に邪悪なわけではないのに結果的にそういうことをしてしまっていて、つまり全体を流れる思想は、誰ももともと邪悪じゃないけど誰もが少しずつ過ちを犯しているのだということで。 罪を犯していない者だけが石を投げよ、というふうに見えます。それだと本当に罪を裁けるのは神様だけということになります。またこんな感じ…。 [地上波(字幕)] 7点(2010-06-21 20:35:44) |
155. ファウンテン 永遠につづく愛
《ネタバレ》 ユダヤ系アメリカ人という西洋人であるところのア氏が、〝死に対する恐怖〟への克服を東洋思想やマヤ文明という「外側」に求めたという意味で画期的な作品です。 作品内には一切「創造神」の観念が出てきません。これは西洋人とくにユダヤ人が作ったということを考慮すれば「大変なこと」です。それだけ、「他の作品」には「それ」が必ずあるからです。 さて、そういう前提を踏まえてもう一度この(一見)難解な作品を見てください。 な~んだ、大して難しいことは言ってないじゃないか。 トリッキーな映像を駆使して観客を混乱させ、一時間半ののちにヒュー・ジャックマンのセリフまで引きずってきてやっと「オレは自分が死ぬことが怖くて仕方ない」という本音を聞かせるわけです。 「なんだそんなことか」と言うなかれ。それはあなたが今現在健康で若くて楽天的だからという、それだけの理由です。例えば哲学者の中島義道は、幼少時から自身の死を恐れ続けて哲学に進み、還暦を過ぎた今も死ぬのが怖くて気が狂いそうなのです。彼は哲学者なので、死後は「無」になると思っているからだそうです。 「自分はいつか死んでいなくなる」という恐怖の事実と共にどう生きるか、西洋人にとってはGODのまします「天国」に行くことが答えです。ア氏はこれを退けた。死後のイジーは天国に行っているわけではありません。 それはラストで「万物流転」という形で表現されました。…ア氏から観客への直球が投げられたわけです。しかし、キャッチしてくれる観客は少ないだろうなあ。 例えば普通の日本人だったら「難解なファンタジーですか?」という反応になる。 キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の信者にとっては、ア氏の直球を受け止めることはすなわち「改宗」を迫られることを意味します。これは大げさではありません。なんたって「全能の神はいない。死んでも天国には行けない。」のだから。 そういうような、危険な球を投げてきたある意味勇気あるア氏ですが、ひとつ指摘すれば彼の限界を感じる部分がある。 なぜ、妻が死ぬ側でなければならないのか。なんで逆ではいけないのか。 妻を救おうと奔走する夫って、あんまりにもありきたりじゃないですか。新しさを追求するならそこまでやってほしい。 ここは、逆にしてみるべきだったと思う。妻を聖女のように描かないでもらいたいしね。ここらへんが男であるア氏の限界。 [地上波(字幕)] 7点(2010-06-14 14:32:23)(良:1票) |
156. ゴーストワールド
《ネタバレ》 それまでずっとリアリティだと思って見ていたので、ラストのバスシーンおよびシーモアのママ同伴セラピー通い及び、エンドロール後のシーモア大暴れシーンを見たのち、しばし考え込んでしまった。 もしかすると、バスシーン以外にも「現実に起こっていない出来事」が挿入されているという禁じ手が使われていたのか?まさかそんな、「ピアニスト」みたいなヘンな映画なのかコレは。 けども辻褄が合わなくなるのでいちおう、妄想シーンは含まれていないというふうに見るしかない。 しかし、完全にリアリティの映画というふうにもいえない。 バスに乗る前のイーニドの状態はというと、親元には住めず、おそらくレベッカとの同居もあきらめ、今さらシーモアとの同居も見込みは乏しく、高卒資格は帳消しで、美術学校の夢も消え職を探す気も失せた、ということになります。八方ふさがりとはまさにこのことです。全部自分が招いた結果であるが。 さて、このあとイーニドだったらどうするのか。レベッカに聞かれて「I'm not sure」つまりまだよくわかんない、というふうに答えています。 ここに及んで作り手は、彼女をビルの屋上とか線路脇に連れていかないで、ファンタジーに逃げたのです。このやり方については、賛否両論ありそうだ。ミステリアス感が増したとはいえるが、私は、ビルの屋上に佇むイーニドのショットで終わるべきだったと思っている。飛び降りたかどうかは観客にまかせればいい。 さて、イーニドの苦しみはハイティーン特有のものには違いないが、「母の不在」を抜きにしては語れない。女子にとって「母」=「縁を切れない反面教師」であり、しかも相手は自分を愛しているというやっかいなことなので、これすなわち「折り合うしかない」存在なのだ。大人になるために最も必要な「折り合う」を学ぶための最適教材=母、なのだが、それができない環境にあるイーニドは「バカとは折り合う必要なし」を貫いているつもりになっている。と私は思うのだ。 ボロボロになったシーモアがママに助けられていることも実は意味深で、作品中であえて全く触れられていないイーニドの「母の不在」こそが、大きなマターであるように思える。 「ゴーストワールド」の意味とは「私たちは地球に優しい石油会社です」という作中CMが象徴するように、周囲の人間がすべて「偽善者」に見えているイーニドの精神状態を指していると思う。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2010-04-11 23:40:58)(良:3票) |
157. 愛されるために、ここにいる
《ネタバレ》 どういうわけだかこのところフランスものばかり見ていまして、もう頭の中がほにゃらら状態になったため(全く理解できないフランス語を何時間も耳にしているため)、放送大学のフランス語入門で勉強しようかと思っているこのごろです。言葉が少しでも聞き取れないと、非常にツラい。 で、「DISCO」を見てフランク・デュボスクに入れあげているところに、また仏版オヤジ挽回映画タンゴバージョンが…。 このクラ~い映画を無視できないと思うのは、「DISCO」がコメディであることもあって「日常に生じるさまざまな不都合」をすべてカットしてストレスを無くしていたのに対し、コレはほとんど「それがメイン」という感じに作ってあることです。そうだストレスがメインなのだ。 家族に疎まれているおじさんの灰色の生活に、一筋の希望の光が差し込むそれは「若い女」…。 …私なんかはここんとこでひっかかっちゃう。なんで「若い女」でないといけないのかな。自分の世代の女性では、いけないのかな。 フランク・デュボスクとエマニュエル・ベアールなら、違和感はありません。しかし、ジャン・クロードは50歳。相手の年齢は不明だが30代前半か? 主役の俳優さんがあまりにも老けすぎているため、「若い女」を追い求める姿にイヤ~なものを感じてしまうのです。 女なら、事務所にちゃんといるじゃないですか。しかも同世代の人が。あの人ではなんでいけないのか。ちゃんと答えなさいジャン・クロード!と言いたくなる。 ストーリーや演出は、似た者親子や優勝カップのエピソードなどなかなか巧みです。なぜヒロインがあのおじさんにホレたのかがいまいちわかりませんが。 しかしなあ、おじさんを元気にさせるのはいつの時代も若い女(だけ)なのか…そういうのって当たり前すぎてすっごい虚しいわ。個人的には、あんまり認めたくない。 おじさんとおばさんの映画ではヴィジュアル的にダメなんでしょうかね。ポツポツとはそんなのもありますけど、そういうのをもっと見たい。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2010-03-31 20:10:42) |
158. 今日も僕は殺される
《ネタバレ》 最初のほうだけ見て一旦中止し洗顔歯磨き等に励んでいる間にいろいろ考えまして、「イアンは病院のベッドで昏睡状態である」という結論になり残りを見ます。 ああ~、最初の30分くらいはワクワクしたんだけどもなあ、こんなものかなあ。がっくり。 「寄生獣」という長編マンガを思い出します。あれは果たして英訳されて海外に出たのだろうか。 しかし、「寄生獣」を見たとしか思えないですよね~。あの手。 そういう意味でビジュアル的に「なつかしい」感じもしました。 それにしても出だしは良かったんだからもうちょっとなんとかならんかったものか。 それと愛の力で変身したとかそういうのはあまりに手垢がついたテーマで、ダメだと思います。こういうのを作るときは、美しくまとめようとしてはいけないように思います。この手の作品は「なんでやねん」と思ったまま終わってしまうくらいでも、いいのではないかと思う。 …これってラストのとこからすると、なんとなく続編が出そうな気がする。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2009-12-06 18:31:42) |
159. ウェルカム トゥ コリンウッド
《ネタバレ》 とてもとても残念な作品です。千原ジュニアのCMで「残念な映画」と言ってもらいたいくらいだ。 なんでかというと、私はサギと泥棒の映画が大嫌いで、極力見ないようにしているのだが、今回は「サギと泥棒」が無ければ本気で面白いと10点をつけたいくらい笑えるからです。 ソダーバーグとクルーニーがくっつくと、もれなく「サギと泥棒」映画を作っていまして、彼らがそんなに「サギと泥棒」が好きであることに驚きうんざりしてしまうのですが、私はそれ抜きで笑えるものが見たいのです。 確かに「サギと泥棒」でなければ出せない笑いがあるかもしれませんが、逆に「まぬけな犯罪者たち」に飛びつくのは笑いの作り手としては安易ではないでしょうか。「まぬけな一般人」より「まぬけな犯罪者」のほうが笑いやすいのは当たり前じゃないですか。 メイシーが呼び出しベルを放り投げるところとか、赤ん坊ネタはすべて良かったです。ならば、犯罪を持ってこなくても笑えるものは作れませんか。なぜって私のように「サギと泥棒」が嫌いな人のために~。 そして強調したいけど、「他人の持っているものを承諾なしに奪う」という行為に対して、成功すれば英雄扱いでもしかねない勢いの「ソダーバーグ×クルーニー」節には感心しない。 そこには「盗まれるやつがまぬけ」「騙されるやつがバカ」という特異な世界観が確かにあって、逆に成功すると「スマートでスゲーやつ」と本気で尊敬するという価値観があり、そのウラには「まじめにコツコツ働くやつは腰抜け」という本音も隠れている。 私はそういうのを布教することはやめてもらいたいのだ。映画の中くらいいいじゃないか、とは思えません。本作では10万円盗んで器物損壊しただけで「失敗」なのかもしれないが、基本的な哲学は「オーシャンズ」と同じでしょう。 でも、「ソ×ク」が今後犯罪路線を捨てるなんてことはまず有り得ないでしょう。せっかく笑える映画が作れるのに残念な二人だ。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2009-11-22 13:47:07) |
160. 大統領の理髪師
《ネタバレ》 ソン・ガンホって本当にいいですね~。「殺人の追憶」から好きですけども、この顔で何度も主役が張れるといういうすごさ、主役を張らせるというすごさ、それを受け入れる国民性、韓国の底知れぬ深さを感じます。日本でソン・ガンホ型俳優が主役を張ることは決してないですから(日本人の優男好みは小谷野敦の著書に詳しい)。 そうはいっても、ソン・ガンホはというかカレの顔は役を選びますから、この先も育ちの良さそうな役をやることはありません。役者としてどう思っているのか私にはわかりませんが、ガンホは死ぬまで庶民をやってほしい。雑草魂を演じ続けてほしい。 内容のことで少し言いますと、仙人じいさんのお告げ(?)のうち、「体の病は自分が治すから心の病は父親が治せ」でしたから、ナガンがお茶を飲んでも歩けるようにならなかったのは「心が治っていなかったから」ということですね。 それが、父が新大統領に反抗して袋叩きにあったら歩けるようになった。ということは、ナガンは「権力者に尻尾をふる父」に売られて交番に連れていかれたこと、そのせいでひどい目にあったことを、実は許していなかったし、傷ついた心が修復されていなかったのですね。本人のナレーションではなんにも気にしていないようにしてありますが、実はそういうことです。 ということは、この作品の大きなテーマは「庶民は権力に対してどういう姿勢で望むべきか」というようなことになります。韓国人にとっては不可欠なテーマなのですね。 もうひとつ、私はこの作品を見ていて「人権」という感覚がいかにアジアに適さない「白人が創造神信仰に基づいて頭で考え出した観念」であるものかふか~く理解しました。 アジアには「人類皆平等」とか「子供だけは別扱い」という考え方は適さない、のです。それはいいとか悪いとか置いといて、実際にそうなんですね。この映画の作り手だって、西欧仕込みの「人権」がどんなもんかはちゃんとわかっていますが、作れば「あえて」こうなるのであって、それがアジアなんですよ。 「まだ適さない」なのか「もともと無理」なものなのかは、わが国を含めて人権が輸入されてせいぜい数十年ですから、わかりません。 わかりませんが、この作り手は「現実にオレたちは(アジア人は)こうなんだよ」ということを強力な説得力をもって示していると思う。この強さは理屈を説かれたくらいでどうにかなるものではなさそう。 [CS・衛星(字幕)] 7点(2009-11-14 19:19:26)(良:2票) |