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なんのかんのさんの口コミ一覧[この方をお気に入り登録する

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161.  夜の鼓
橋本忍の脚色臭がモロに出ている。『羅生門』を思わせるし、今井との組で考えれば『真昼の暗黒』、前半の冤罪もの風に進んでいくところ。こういうふうにストーリーを分解してみると、事件がリアリティを持ってくる。近松を跳び越えて、モデルとした事件に迫っていく感じ。金子信雄の悪役を除けば、わざとらしさがない。妻のほうから鼓師に寄っていくところが怖い。口封じという名目を得て、情動が高まってくるというか、生臭いものが感じられる。夫の帰国が遅れることがきっかけになる、なんてのもある。妻が自分から告白していくのは無茶に見えるが、留守をする夫への、またそういう体制への怨みが感じられ、そこが怖い。死を覚悟し本人はただただ詫びているのだろうが、やはり怨みが底にあるのではないか。ラストの仇討ちを、原作通りにみなでドカドカやったのは疑問。その滑稽さを描いたという感じでもなかった。殺したあとの呆然とした表情を捉えたかったのではあろう。社会派監督としては、憎む対象を上部に操作されている愚かしさを出したかったのだろうな。
[映画館(邦画)] 6点(2012-11-19 10:09:36)
162.  ワーロック(1959) 《ネタバレ》 
最初はいいの。ならず者に蹂躪されてる町ワーロックの人たちが、ちゃんとした保安官を雇えないかといった『七人の侍』的展開で、善悪のクッキリしたドラマが予想される。雇われるのがH・フォンダのクレイにA・クインのモーガンで、男臭が立ちこめる。ならず者がフレンチパレスにやってきて楽しげな音楽を奏でていたピアノ弾きが逃げ、音楽が消えた中をフォンダが階段を下りてくる緊張なんかがよく、ここらへんまでは大いに期待した。人物を立体的にしようと複雑な過去を投影してあるのが、どうだろう、ドラマを濁らせてしまってはいなかったか。R・ウィドマークは、悪漢側からイイモンに変わって物語上の主人公のようだが、その心の変化は彼の言葉だけに頼っていて(アパッチのふりして虐殺を行なったのに愛想が尽きた)、弱い。モーガンが一番屈折してるようなのだけど、これつまりホモ映画なのか。クレイを男にすることに生きがいを持ってる友だちと一応定義できるが(クレイだけが俺を人間扱いしてくれた、とか言ってた)、見る角度で同性愛ギリギリなんだな。クレイが結婚するってので拗ねちゃって撃ち合いに無理に持っていき、わざとのように的を外して自分は友に撃たれて死んでいく、ってなんか「ホモの純情」って話かとも見える。スッキリした活劇を期待してたとこに、そこらへんで余分な濁りが入ってしまう。最後のウィドマークとフォンダの対決(っぽい展開)も、両者の人物像が確定しきってないので盛り上がらず、映画のほうもそれを見越してか盛り上げないで終わっちゃう。でも、馬上の男が去り女が泣いて見送ると、西部劇を観終わったな、という気分はキチンと残った。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2012-10-17 09:47:58)
163.  花咲ける騎士道(1952)
前半は、ヨーロッパの活劇はおっとりしてるなあ、ってな感想で、もっぱらG・フィリップの美男子ぶりを眺めていた。煙突をくぐっても汚れ一つつかない完璧なハンサムぶりで、こういう完璧さをめでるのも映画の重要な要素ではあったな、とは思うものの、ずっと美男を見続けてても何かむなしく、といってロロブリジーダ嬢にはもひとつ身を乗り出すほどの魅力が感じられず(その愛されずとも愛を貫く女伊達のキャラクターはいいのだが)、もっぱら屋根の上での活劇に昔テレビで見ていた「快傑ゾロ」などを思い出し懐かしんでいた。でも後半、絞首刑からの救出あたりからノラされて、やたら馬が疾走する終盤で満足。アドリーヌ救出という個人的な追跡が映画冒頭の戦争に絡んでいくあたりワクワクした。強引な地下通路の設定なんかも、全体の「おっとり」と通じ合って素直に笑え、王のメンツも守る大団円はヨーロッパ式だなあと思わせられ、アメリカの活劇とはまた違う味わいを楽しめた。それにしてもこの邦題はズレてないか。原題にある「チューリップ」って言葉は残してほしかったな。この映画のおっとりとぼけた明朗さをよく象徴している花である。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2012-10-14 10:04:28)
164.  日本橋(1956)
褪色のひどいフィルムで観たせいもあるかもしれないが、鏡花と市川さんのすれ違いばかりが感じられ、堪能とまではいかなかった。夜の橋の静かな雰囲気なんかいいんだけど。ウジを食べるとこなんかアップにする必要あったかな。女の意地の哀しさもので、教授がコロッと坊さんになったりして、こういうとこを乾いた笑いに持っていくのが市川さん得意なはずなんだが、これは苦笑い。市井ものにやや幻想味が交じるという、向いた題材なんだがなあ。いつもならフッと現実から遊離していくとこをしっかり捉えるのに、取り逃がして分解させちゃったって感じ。すると宙に浮いた部分が馬鹿馬鹿しく見えてしまう。
[映画館(邦画)] 6点(2012-10-10 10:23:06)
165.  銀座化粧 《ネタバレ》 
小津の登場人物が礼儀正しく玄関から出入りするのに対し、成瀬は勝手口・裏口の世界。玄関で挨拶しているであろうようなシーンでも、そこは映さずすぐ客を迎えている室内になる。この映画そのものが、銀座の裏口的な世界を描いているわけ。玄関のようにあらたまって出入りしない分、どこかずるずるとした人間関係が続いていく。本作では三島雅夫。でもこれなんかはキッパリお金を与えることを拒んだり、かなり積極的に堀雄二との結婚を考えたり、成瀬の登場人物にしては決断力のあるほうだ。この朴訥男ぶりはちょっとわざとらしいし、香川京子と一日で片づけちゃうのもいささか無理が感じられたが、子どもへの愛を優先させた、ってことを描くための必要項目だったんだろう。おそらく本作は下町の描写を戦後になってまた本気で手がけた映画で、これに監督は手応えを感じただろうし、また同時代の成瀬ファンもホッとしたのではないだろうか。見事な点描。ちゃんとチンドン屋も通り過ぎたし。
[映画館(邦画)] 6点(2012-08-15 10:22:45)
166.  麗しのサブリナ
なぜオードリーは、平気でおじさまと結ばれるのか。以下ざっとした暗算なので間違ったかもしれないが、このときH・ボガートは55だ。『昼下がりの情事』のG・クーパーは56、『パリの恋人』のF・アステアになると58である。おじさまというより、もひとつ上の世代ではないか。もしスクリーンの外で起こったことなら、死後の財産目当ての女狐と呼ばれるところだろう。男の側からすれば、そりゃ可憐な妖精を妻にめとれるのは夢であろうが、オードリー映画はファッションを考えても女性観客をメインに考えていたはず。つまり欧米では、こういうパターンがしっかり根付いていたんだな。ヨーロッパの小説では若いヒロインが保護者のような年上の男と結ばれるハッピーエンドが多い。娘にとって一番の幸福は、シンデレラのようにランクが上の男性と結婚することであって、それは地位の安定したある程度の年配ということになるんだろう。ディケンズの後期の長編で、やはりそのパターンだなと思わせといて、土壇場で「私はもう年寄りだから」と保護者のおじさまが身を引き若き医者と結ばれるヒネったのがあるが、そういう趣向が生まれるほど「娘はおじさまと結ばれてこそ幸せ」の型が根強くあったってことだ。この伝統がヨーロッパの共有無意識となり、大西洋を渡った新世界でも生き続けてきたんじゃないか。それにしても男女非対称な世界だ。もし若きイケメンの主演する恋愛映画の相手役に50代後半のおばさまが続いたらどうであろう。というわけで本作、いじめのないシンデレラで、屋内テニスコート場の光と影はロマンチックだし、割れないプラスチック板に乗って揺するH・ボガートは楽しく、割れたワイングラスは痛そう。デビッド一筋のオードリーと仕事一筋のボガートには、分かりあえるものがあったんだろう。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2012-07-26 10:06:16)
167.  鉄道員(1956) 《ネタバレ》 
一家の亀裂がくっきりする散々なクリスマスで始まり、みんながよかったよかったと祝福しあうクリスマスで幕を閉じる構成。その祝福の日がお父さんの最期なんだけど、みんな笑顔で終われる。そのあとの朝のシーンがなかったら、孤独なお父さんの最後の夢だったのかも、と思ってしまうぐらい「夢のような好転」なんだな。どういう努力があって一家に幸福が戻ったのか、という経過をドラマにしようという意志はあまりなく、「人生楽ありゃ苦もあるさ」という達観を提示するだけでうなずいてしまう。そこらへんイタリアと日本は似ている。状況を変えようとする努力より、その中で耐える人々に共鳴してしまう。ファシズムが起こりやすい国民性だが、戦後の復興に気合いがはいる国民性でもある。だいたいが家族のドラマだが、鉄道の仕事仲間の部分もあって、そこらへんのほうが今見て新鮮だった。スト破りをして「組合仲間」からは白い目で見られるが、それと「仕事仲間」とは違うんだな。スト破りにしろ、降格された彼が久しぶりに機関車の運転台に座れる喜びに引っ張られた「鉄道屋気質」のなした行為で、そこらへんを同じ気質を持つ「仕事仲間」は分かってくれたんだろう。そういう仕事の「ファミリー」の感じが酒場のシーンで出ていた。こういう酒場好きの「ファミリー」が、会議好きの「組合」に取って代わっていく時期だったのだ。もう一つのファミリーだったお父さんの仕事場へ走っていく少年で始まり、もうお父さんのいない家から学校へ走っていく少年で終わる映画でもあったわけ。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2012-07-24 10:20:07)(良:1票)
168.  独立愚連隊
連隊仲間で酒を回し飲みしながら会話を進めるあたりなどに、岡本監督のリズム感がうかがえるが、もひとつ快調でないのは、彼の終生のテーマである「戦争」に初めて挑んだその距離感をどうすればいいのかという迷いがあったのだろうか。活劇映画としての戦争映画を作るのは簡単で、それにコミカルな味を加えるのもそれほど難しくはないだろう(『人間の条件』と同時代にやったのは立派)。しかしそれだけでは済ましたくないという思いが監督にはあって、そのモヤモヤがやがて『日本のいちばん長い日』や『肉弾』を生み出していくわけだけど、その始まりの一本として、どう手をつけていいのかという困惑のほうが感じられた。本当に「豪放」なのか、「豪放」というパロディを演じているのか、佐藤允の怪演の勢いに乗せて強引に押し切った作品という印象。戦場を描くには、こういった装いが必要なほど愚劣なところなんだ、という作者の困惑の果ての一手だったという気もする。岡本監督の常連中谷一郎がすでにいい味、これが初顔合わせなのかな。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2012-07-10 09:53:57)
169.  太陽とバラ 《ネタバレ》 
不良の中にも格差があるって話。金持ちの不良(石浜朗)と貧乏人の不良(中村賀津雄)の差を見詰めている。でも木下はその正体を突き詰めるという資質の作家ではなく、もっぱら母の愚痴に代表されるような詠嘆を真に迫って歌い上げる監督。「自分が怠けるのを棚に上げて、社会が悪いと言っている」って。でもこれは太陽族に対する木下の単なる感想でしょ。その感想を真に迫って描けてはいるが、もう一つ切り込んで欲しかった。この映画の場合、石浜朗の「嫌な奴」ぶりを突き詰めて欲しかった。単なる風俗として登場してるだけで、もったいない。なぜ彼が貧乏人の賀津雄にネチッコク関わっていこうとしたのか、そこらへんでもっと膨らませられたのではないか。ただの金持ちの坊ちゃんの気まぐれで終わってしまった。ヨットを持つような金持ちの太陽族の非行は、成人すれば自慢話になって知事にでもなれるが(このドラマのイシハマ君は裁きをつけられたが)、貧乏人にとっては身の破滅にまで至るって不平等、それが描かれても詠嘆どまりなんだ。
[映画館(邦画)] 6点(2012-05-31 09:48:16)
170.  本日休診 《ネタバレ》 
気のふれた男も隣人として包み込んでいくホノボノとした庶民ドラマを描きながら、キズモノにされた娘をせがれの嫁にという話を聞いたときには、冗談と思ってつい笑ってしまう田村秋子。このシーンにドキリとさせられた。そのほかの「ホノボノ」の描写は、このドキリを際立たせるための背景のように感じられてくるぐらい、迫る。田村秋子って役柄によっては新劇臭が出てしまう女優だったが、本作では「庶民」の人懐こい優しさとその限界を、まったく屈託を感じさせない笑い(だからより残酷なのだが)でザックリ見せて良かった。渋谷の映画には、こういった庶民の暗部が潜んでいるのでうっかり出来ない。「庶民」という一言で括られることを拒んでいる一人一人の具体的な声を集めた映画と思えばいいのか。ラスト横一列に整列させられてはいても、その一人一人が抱えている夢もエゴももう観客は知ってしまっている。淡島千景は助かるかも知れないという結末になってたけど、それだとリアカーが返ってきてしまった落胆の切なさが弱まってしまったのではないか。あと当時の住環境がよく分かるのもこの映画のいいとこ。舟暮らしは戦前からあったが、電車住宅ってのは戦後ならではの光景だろう(ただ暗くて仕組みがよく分からないのが残念)。男女一緒の病院の病室ってのも、ヘーと思わされた。劇映画であっても、映画は時代の記録になっている。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2012-02-20 10:16:01)
171.  にごりえ
これは今見ると、文学座の動く俳優名鑑としての面白さが一番だ。タイトルのとこでは多いため「主な配役」しか表示されない。そのほかでもチョイ役で有名役者がどんどん出てきて、いや当時はまだ無名の若手だったのか、そういうこと考えながら顔を見ているのがけっこう楽しめた。「十三夜」で娘役で出てきた丹阿弥谷津子は、後年帝劇で蜷川演出で「にごり江」をやったとき、同じ「十三夜」で今度は母親役を演じていた。そういう楽しみもある。で中身、「文芸映画」ってのの定義はよく分からないが、単に文芸作品を原作にしてるってだけではたくさんあり、そのフィルムの味わいが「映画」としてよりも「原作」により多く負っているのを「文芸映画」と呼べるとしたら、これなんか典型的なそれ。樋口一葉の日本文学史における重要さを改めて思った。あの人は江戸文芸的なものとプロレタリア文学とをつないでいたんじゃないか。話としては「おおつごもり」が好き。ただ原作にある「知りて序(ついで)に冠りし罪かも知れず」という膨らみがあんまりはっきり出なく、ただのショートショート的なオチに見えてしまう危険もある演出だった。けっきょく全体を通して完全な悪人は一人も登場せず、「社会が悪い」という話になる。陳腐ではあるが、この世の本質なのだな。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2012-02-18 09:52:09)
172.  ジャイアンツ
西部劇はよく牧畜業と農業の争いをテーマにしたが、その後は牧畜業と石油業との争いになったわけか。あくまで牧畜業のほうから眺めるのが、カウボーイヒーローを持つアメリカの神話なんだろう。そしていつも「時代おくれ」なんだ。ジェットは登場のときから馬でなく車に乗っていて、石油産業への方向を暗示していた。そこに「嵐が丘」のヒースクリフ的な匂いも重ねて、歴史とメロドラマを二重写しにしている。あと東部と西部の対比もあり、牛の脳をガツガツ食べる西部で育つには、七面鳥を食べられない子どもは東部の血を引きすぎていた(だから育ってもD・ホッパーになっちゃう)。東の倫理が西の差別を是正していく、ってのはちょっと鼻についたけど、50年代の映画としては上出来なのか。どちらかというと連続ドラマに向いた話で、一本の映画としてはいささか大味。妹の結婚式の誓いの場で夫婦仲が戻っていくあたりとか、ひそかに恋するレズリーの残した靴跡からブツブツと石油の気配が滲んでくるあたりなどに、映画らしさがあった。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2012-01-11 10:05:56)
173.  ライムライト
チャップリンというとペーソスとかセンチメンタルとかウェットな印象がまず来るが、個々の作品を見ると、『キッド』や『街の灯』のような作品でもけっこうシャープでドキッとする悪意を含んでおり、ベトベト甘いだけの作家ではなかった。でもセンチメンタルなものが嫌いだったわけではなく、一度そういうものにドップリ漬かってみたかったのではないか、そんなことを感じさせる映画だ。この作品に意義があるとするなら、その「湿っぽいもの」へ思いっきり身を投げ出している彼のいさぎよさだろう。本作で、もしシャープな悪意を求めるとするなら、主人公の「老い」だろう(テリーがサクラを雇ったってのが残酷の要素になるんだけど何か中途半端で、あれ最初はサクラの笑いだったのが本物の笑いに呑み込まれていった、ってことなのか)、しかしここで描かれるのはあくまで「老愁」であって「老醜」ではない。それはチャップリンの任ではないのだ。だから歯止めをなくしたセンチメントはただただ溢れ返っていく。C・Cを敬愛する私たちは、困ったことになったな、と思いながらもそれを呆然と受け止め続けるしかない。いささか臭い人生訓を語り続けるC・Cにも、前半生であれだけ沈黙していたのだから好きなだけ語ればいい、と思う。ステージの袖で立てなくなったとパニックになるテリーのエピソード挿入のぎごちなさも、見ない振りをしよう。それぐらいの義理は、彼の前半生の傑作群への利息として払う用意がある。ああそうだ、この映画で唯一感じられた悪意は、キートンにヴァイオリンの足枷をはめて走れないようにしたいたずらか。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2011-11-24 12:19:09)
174.  美女と液体人間
東宝の変身人間もののなかでは、これが見せ物としては一番楽しめる。ドロドロしたものが這い寄ってくる感じ。一番人間離れした怪物で、漁船のエピソードなんかうまい。人が融けていく。でも根本問題として、被爆した被害者が「人類の敵」になっていくことの後味の悪さがずっと残り、本当なら怪物の側から描かなければならないものを、それを恐怖の対象にしてしまっているズレは、いくら見せ物映画だとしても無視できない。野暮なこと言ってるのかもしれないが、どこかで過去の被爆者差別や現在の福島の花火への視線とつながっている気がする。完全な安全を求めるあまりの異端への恐怖。恐怖映画はそういった恐怖に乗っかってしまわず、そういう恐怖を撒き散らしているものへの想像力を働かして真の恐怖の対象を見極める自負があってほしい(初期の安部公房に、社会の底辺層の人々から液体人間に変身していって地球がその洪水に満たされる、といったSF短編の傑作「洪水」がある。「赤い繭」の第二話。そこにあった、刑務所の囚人が液化して逃亡したり、工場主が飲もうとしていたコーヒーに溺れたり、といったほうがよっぽど映画的なイメージ)。最後、炎のなかで二人の液体人間が立ち上がっているように見えるの、あれが新たな人類のアダムとイブになっていくのだ、ってな展開だとSFとして正しいんだけど。カーチェイスの場で車窓に展開する町の風景がしっかり50年代であった。悪漢が「トランクいっぱいの五千円札だよ」と言ってるところでも、最高額紙幣がそれであった時代をしみじみ思う。樋口一葉ではない。
[DVD(邦画)] 6点(2011-10-03 09:59:23)
175.  偽れる盛装
『祇園の姉妹』を思わせるのは、もともと脚本の新藤兼人がオマージュとして書いたらしい。切りを重んじる母に、何言うとるねん、とやきもきする姉、このうちと小林桂樹んちのおっかさんとのイサカイのあたりはかなり小気味いい。溝口がぴったり女性の側について男社会を告発したのに対し、こっちはやや間を置いて、たとえば妹が町並みを眺めて「戦災に遭わなかったから封建制が残ってるんやわ」とか言うように、ちょっとヒトゴト風。こういうところが新藤さんの弱点かな。客観的であろうとして評論的になってしまう。進藤英太郎のとこの店で京マチ子がお酒を飲んでいると、カメラのすぐ前で盃のやり取りが始まって客の噂話につないでく、なんて演出もあった。この時代、自転車で走るってのは、健全の象徴だったのね。町のすいていること。進藤英太郎はつくづくいい。時代劇では平気で単純な悪役を嬉々として演じられるし、こういう役もやる。ただのアホじゃなくて、それ相応の仕事はしてきた男を感じさせる。好色でも開放的であって、東の森繁のようなヤサ男とは違う豪放さを持っている。日本の西の男のある典型なんだろう。
[映画館(邦画)] 6点(2011-07-31 10:27:24)
176.  お姉さんといっしょ
うわっ、半世紀以上も前の西武新宿線中井駅だ(ローカルな感動で申し訳ありません)。やがて山手通りとして混雑する線路を跨いだ道もあるし、弟が迷子になって帰ってくるとこは妙正寺川ぞいのあたりではないか。ロケもそこらへんとは限らないわけだが、坂が多いのはあそこらへんの特徴(学校は高山小学校と読めたが三鷹にあるやつだろうか)。古い映画で銀座や上野はよく見られるが、こういう山の手の住宅地は珍しかった。別に中井に住んだことがあるわけではないが、知ってる場所の昔が出ると嬉しい。廃墟の空き地ってのがまだあり、崩れ残ったレンガ塀の上を子どもたちが歩いて遊ぶとこでは感涙した。家にテレビはなくラジオもたまにつけるだけ、商店街での和服に割烹着姿の買い物客の比率の高さ、などなどに、いちいち反応させられた。こういうのが劇映画鑑賞の態度として正しいのかどうかは分からないが、じっくりと見させてもらった。つくづくあらゆる映像は記録だと思う。お姉さんをやった伊吹友木子って、すました奥様なんかをよくやってた女優さんの少女時代じゃないかと思い、ネットで検索して中年の顔を見ようと思ったら、最近の写真らしいお婆さんの顔しか出てこなかったので確認できず。えーと話は、お父さんが出張、お母さんが病気で田舎に療養、留守を預かるお姉さんと小学低学年・未就学の兄弟、三人暮らしのあれこれ。田舎のお祖母さんが来たり、りんご売りに気を取られて迷子になったり、といったエピソードで50分をつなぐ。もっと「けなげな留守家族」を売り物にするのかと思ってたら、普通に「わんぱく」で良かった。
[CS・衛星(邦画)] 6点(2011-06-21 12:22:56)
177.  サザエさん(1956) 《ネタバレ》 
江利チエミのオテンバぶりがやたら懐かしかった。オテンバやって何かしくじって、脚の片方を後ろに曲げて、頭をてのひらで叩いて舌を出す、というような感じ。「おきゃん」ほどではないが「おてんば」も死語になりつつあるなあ。「気立てのいい娘」とか「おてんば娘」とかは、近隣の噂話の中から生まれてくる評判で、そういう近所付き合いの枠組みがなくなってきたことで、それらの言葉もなくなりつつあるんだろう。これまだマスオさんと結婚する前なので、大家族というほどではないが、下宿人としてノリスケさん(仲代達矢だぜ!)がいたりして、現在の一般家庭よりは大人数。この昭和31年でこの構成員数が平均以上なのか以下なのかはっきりとは分からないが、核家族化へ向かう過渡期のころで、ある人たちにとっては自分たちの家族のように親しめ、また都会生活する若夫婦にとっては、失われた懐かしい家庭風景に見られたんだろう(サザエさんちは成城だった)。家族会議のシーンには、戦後十年たった民主主義に対する照れくささみたいなものを感じた。ビルの脇の自転車留めが懐かしかった。アチャコとのデパート内での不条理なオッカケ、金語楼の「耳が遠いのは家内です」いうギャグ、森川信の女装する探偵所長など、喜劇人がゲスト出演で賑やかにする。ラスト、ダークダックスの御用聞きも上がり込んできて、みんなが手をつないでジングルベルを歌いながらぐるぐる回りだしたときは、なんだかわからないけど、胸がいっぱいになっちゃった(ルネ・クレールかフェリーニか)。さてこれは、フィルムセンターの「亡き映画人をしのんで」の時、江利チエミ追悼で上映されたんだけど、最初に清川虹子が江利チエミのお父さんとちょっと挨拶があってシミジミした気分で観始めたの。で、映画が終わったとき場内で一緒に観賞していた清川虹子を見たら、もう号泣しちゃってて満足に歩けず、お父さんに支えられて出ていった。なんかコメディを観賞するにはすごくシミジミし過ぎる状況だった。
[映画館(邦画)] 6点(2011-04-17 12:09:29)
178.  翼に賭ける命 《ネタバレ》 
いちおう大恐慌期の話なんだけど、それにしちゃヒロインなんかゴージャスな感じで、あんまり巡業芸人の「うちひしがれ感」がないの。社会派映画じゃなくてあくまでメロドラマだから貧乏くささはダメってことなんだろう。でもそこらへんの階級差が出せてないために、話のポイント、飛行機を手に入れるために夫が妻に経営者への色仕掛けを強いるあたりの凄味が、も一つ出てこない。あるいはかつての戦場の撃墜王が現在レースの飛行機乗りをやってる屈辱感も。しかしこのレースシーンは迫力があった。だいたい飛行機ってのは、対照物がないのでスピード感が出なく、映画では優雅な感じになってしまうものだが、このレースは低空飛行で、浜辺すれすれに飛んでいく。疾走感。二度目のレースシーンでは、子どもの遊具の回転飛行機と重ね合わされ、盛り上げていた。パイロットの虚無感をきちんと踏まえ、それを原動力とした飛行として描かれていたら、このレースシーンの迫力は名作の名場面と言われるようになったのではないか。これ原作フォークナーなの。アメリカの大作家のうち、フォークナーはなぜかあんまりいい映画化がない。彼は無名時代ハリウッドでシナリオ書きの副業をせっせとこなしていて(たとえば『三つ数えろ』)映画との相性はいいはずなのだが、ああそうか、だから自分の文学では映画化しづらい世界に行ってしまったのか。原作読んでないけど、終盤の新聞社での長ゼリフなんか、文学の香り高く言葉が練られている。これ原作が生かされてる部分なんじゃないかと思ったが、違ってたらごめんなさい。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2011-03-06 12:14:30)
179.  長い灰色の線
たとえば『荒野の決闘』が求心的・集中的なのに対して、こちらは遠心的・拡散的。地道な一代記。世の中にはいい頑固と悪い頑固とあるんじゃないかと思うんだけど、この主人公及びその周りの人たちは、どうも私の分類では悪い頑固に思えて、いろいろ引っかかってしまうとこがあった。名誉ってことも絡んでくるんだけどね。たとえば終わりのほうに出てきた若い知事のほうに肩入れしたくなっちゃう。でもこういうのが理想としてある、ってのは分かるし、否定したいと思っても、こういうのへの憧れの強さってのも感じちゃうし。正義を信じている人の強さを感じた。細かい面白さはいろいろある。なかなかモーリン・オハラに喋らせないとか、アイルランドから来た父・弟がただモクモクと食ってて怒るとことか。
[映画館(字幕)] 6点(2011-03-04 12:15:13)
180.  ショウほど素敵な商売はない 《ネタバレ》 
ミュージカル映画では「ふだん」のところに不意に歌や踊りが入るのが好きなので、舞台で踊ってる設定のときは今ひとつ物足りない。でも「アレキサンダーズ・ラグタイム・バンド」変奏でヨーロッパを巡るなんて趣向は楽しめた。本作で不意に踊ってくれる非現実的ナンバーはオコナーがモンローを送っていったシーンのみ。こういうほうが私は好き。一応驚かすネタも入ってるし、ああミュージカル映画を観た、って満足感が来た。ちょっと終盤は「家族の絆」の話がベタつき、またミュージカルでは安易な解決は珍しくないもののこれはそうとう安易で、あっさり女の不和が和解に至り、アンコールまでの間にすべてがうまくいくと、ちょっと待ってくれよ、と醒めかけた。でも「ドナヒュー6」が腕を組んで現われれば、めでたしめでたし、の明朗な気分がたちまち満ちてシラケを駆逐してしまったのだから、ミュージカル映画定型の力とは恐ろしいものだ。そこらへんを納得ずみなら、歌の数は多いし、ま楽しめる映画です。モンローは「ヒート・ウェイヴ」なんか一生懸命やってるけど、この人のキャラクターは「一生懸命」が生きないんだな。「レイジー」のほうがキャラクターに合ってたけど、すると今度はあんまりミュージカルとして映えてこない。異質感が最後まで残った。
[CS・衛星(字幕)] 6点(2011-02-21 09:55:52)
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