1. 惑星ソラリス
《ネタバレ》 ソラリスの海が生み出す人間の物理的コピー。彼女は人間と同じ感情を持ち、人間同様に主人公を愛する。人間は感情を持つ。その物理的コピーが持つ感情とは疑似的なものか?そもそも感情とは何か? 分子生物学によれば、意識及びそれを生み出す脳内の働きは、全てシナプスを起点とした電気信号(イオン化)により説明される。しかし、単純な電気信号の連なりがどのように瞬時で膨大な広がりを持つ意識を生み出すのか、或いは先行する意識がどのように電気信号と結びつくのか、その辺りは全く分かっていない。 ノーベル賞学者のペンローズ博士は、意識の発現を量子重力理論(量子論と相対論の融合)により解明できると言う。ペンローズ博士によれば、意識は神経細胞内のチューブ状の器官の中における量子力学的作用によって発現するという。その領域の物理学的作用は、シュレディンガーの波動方程式による量子の振る舞い(量子作用)によって説明される。最近の研究によれば、量子作用は、神経細胞内だけでなく、消化器官における酵素反応や動物の帰巣本能というべき地磁気の検知、植物の光合成にも関わっていると言われる。よって、人間特有の機能というわけではなく、宇宙全体、そのミクロの領域は量子作用によって構成されているという事実において、意識や感情はいつ何処にでも現れると言える。人間のように死んで終わりではなく、ソラリスのコピー人間のように不老不死の上で永遠に感情を生み出すこともできる。人為的に消滅させることもできる。 死んだ人間は帰ってこない。しかし、人間には愛する人間が必要なのだという事実。それがソラリスの真実であり、人間の真実なのだと理解した。しかし、我々の「世界」は真実と違う。人間の感情は世界に優先されない。人間は常に世界に勝てない。「君と世界の戦いでは、世界に支援せよ」なのである。 昔、SF小説を読み漁っていた頃、レムの『ソラリスの陽のもとに』を読んだが、その内容をすっかり忘れていた。タルコフスキーの映画がレムの原作に沿った内容であること、それがタルコフスキーの思想(人生に苦しみを求めることこそ知性)に合致したという点において、この映画が世紀の傑作であると共に、タルコフスキーにとっても貴重な作品であったことが分かる。 「我々はなぜ苦しむのだろう」 「宇宙的感性を失ったからだろう」 「古代人はもっと純粋でそれゆえに悩みがなかった」 [DVD(字幕)] 10点(2025-01-18 19:35:04) |
2. 華の乱
《ネタバレ》 『華の乱』では、松田優作が有島武郎、池上季実子が羽多野秋子を演じていて、有島と秋子の心中がドラマのクライマックスだったと記憶する。当時の文学や演劇界の人々の多くは若死にし、映画の登場人物、松井須磨子や和田久太郎は自殺、大杉栄と伊藤野枝は虐殺されている。大正のデモクラティックな時代が終わり、関東大震災の大量死を経て、暗黒の昭和初期を迎える。そういった時代背景における与謝野晶子を主人公とした物語。彼女は一人、昭和という時代にとり残される。 劇中には、有島が「死に至る病」(キルケゴール)である絶望に取り憑かれる様が描かれる。実存的な生と死は、上記の時代背景の中、多くのインテリゲンチャを襲った時代的な流行だった。死は常に彼らの傍らにあった。当時のインテリに「子供や家族のことを最優先」といった価値観はない。常に個と実存に囚われた人々を今の家族愛の視線で語っても論点はすれ違うだけ。 映画『華の乱』の私の印象は、前半の大正デモクラシーの雰囲気からくる明るさと後半の暗さ、有島と秋子の心中のシーンに尽きる。有島と言えば『一房の葡萄』と『小さき者へ』の著者。教条的な短編を著す作家としてのイメージもあったが、確かに妻の死に際して自分の息子たちに残すメッセージとして、以下の文章はやはり実存的すぎる。 「私は嘗て一つの創作の中に妻を犠牲にする決心をした一人の男の事を書いた。事実に於てお前たちの母上は私の為めに犠牲になってくれた。私のように持ち合わした力の使いようを知らなかった人間はない。私の周囲のものは私を一個の小心な、魯鈍な、仕事の出来ない、憐れむべき男と見る外を知らなかった。私の小心と魯鈍と無能力とを徹底さして見ようとしてくれるものはなかった」 有島武郎『小さき者へ』より [映画館(邦画)] 8点(2025-01-16 21:23:54) |
3. 大いなる幻影(1937)
『大いなる幻影』のように、欧米では国の戦争と国籍を問わない人間同士の友情は別問題としてあり得る。特に映画では階級だったが、それは同じワールドツアーを戦うテニスプレイヤーであるとか、平和主義者という意識であってもいい。共有意識は国籍を越える。これが共同体にとらわれない、公共性、人道主義を生む。 欧米では昔から隣国同士で戦争を繰り返してきた歴史がある。その反省もあり、彼らは、国単位の共同性ではなく、個人単位の公共性(それが合理だと考えている)に照らして物事を判断する。戦争は顔が見えない同士が行っていた。相手を殺戮するときに相手の「人間としての顔」など見ていない。だから敵と味方が明確で、敵を殲滅する動機付けが可能だった。しかし、今、インターネットの時代、グローバリゼーションの時代。お互いの人間、顔が見える。例え報道規制したとしても、動画の拡散は止められない時代。そういう時代の戦争の意味を考えてみるべきだろう。 さらに国民国家の位置づけは昔と違う。人間が国民となり国家となる。そういうイデオロギーの時代ではない。グローバリゼーションはそういった意識を崩壊させたし、それは自明のはず。なのに何故、いつまでも戦争という手段を肯定するのだろう? 顔が見えないと人は内向き、攻撃的になりやすい。お互いの顔を知ることで、国を越えて友好的な関係を築くことは可能である。たとえ戦時下においても、人道主義が有効であろうこと、そういう思想が世界に残っている、残すべきだということ。それが『大いなる幻影』の主題でもある。 カミュに『異邦人』という小説がある。主人公ムルソーはアラブ人を射殺した理由を「太陽がまぶしかったから」と証言する。カミュは大戦中に人民戦線側の記者として従軍を経験しているが、常に何故戦争で人は人を殺すことができるのか? という疑問を抱えていた。彼は『異邦人』の中で、射殺した相手が匿名(アラブ人)で、顔が見えない(逆光だった)存在だったからだと理由を付ける。相手の表情、人間の顔を知らないからこそ、死を賭した戦闘が可能だったのではないかと考えた。 日本でも大戦時の沖縄の集団自決、福田村事件など。相手(異邦人)の人間の顔が見えていたら起こり得なかった自決、殺人であったと思える。今は国を超えて人間が均質化している時代。異邦人ではなく、同じ人間だということが理解されている。それでも戦争がある。 加害者であり被害者。多くを殺し、多くを殺される。戦争とはそういうものだと言う。日本人は経験し、知っている。過去の戦争において、加害者であり、その前提の上に被害者であったこと。加害者の多くは戦時に死んでしまい、戦後、日本人はその当事者性を引き受けてこなかったが、本来、日本人は紛れもなく80年経った今でも当事者であり、それ故に、その知見故に、堂々と戦争に反対であることを表明すべきだろう。 人は幻想によって、より良く生きることができる。それが奇跡を起こすこともある。それには人々が共有できる、より良き『大いなる幻影』"La Grande Illusion"こそ必要なのだろう。 [インターネット(字幕)] 9点(2025-01-16 21:19:24) |
4. こわれゆく女
スリリングな映画。感情の揺れのままに場面が進み、拡散しながら、それが何処に到達するのか全く予測できない。特にピーター・フォークの過剰さ。それは不器用な優しさとプライドなのか、こわれていくジーナ・ローランズを見つめる眼差しも、焦点が合わないが故に、とても胸が詰まる。 確かに物語ではなく、瞬間のリアルだと言いたくなる気持ちは分かる。インプロヴィゼーション。それがジョン・カサヴェテスだと。でも、やはりそこに見え隠れする物語性、登場人物たちの過去と未来が思い浮かぶ。それが心に響く。 [インターネット(字幕)] 9点(2025-01-16 21:09:43) |
5. 別れる決心
《ネタバレ》 常に場面の意味、セリフ、色彩、アイテムを記憶に留めながら観ないと物語を理解し損ねる。観ることへの緊張感を自律的に強いる映画。観終わってからもラストの意味を暫く反芻せざるを得ない。その意味について思いを巡らし、それを確かめる為にもう一度観たくなる。誰でも容易に理解出来るエンタメ映画ではなく、様々な伏線回収とその解釈を要する難解な文芸ミステリー作品、、、でもないように思える。(敢えて一般的に語られるイメージを記してみた) この映画は、純粋に恋愛の本質を描こうとしている。ストーリーの中で彼らが何時、どの様にそれに囚われたかということ。恋愛感情が生まれ、気が付けばそれを中心に様々な状況が振り回される。そこにのみ思いを巡らし、彼らの目と表情と声の響き、手と脚の動きに注目していればそれでよいとも思える。そうすれば、何のことはない、とてもシンプルに恋愛を描いた物語だと分かる。恋愛は自意識の劇であり、鏡であること、そしてその究極には不可能性という可能性への期待があり、それが刹那に超越され、持続しない。 「彼は深くそして熱烈に恋している、これは明らかだ。それなのに、彼は最初の日からもう彼の恋愛を追憶する状態にある。つまり、彼の恋愛における関係は既に全く終わっているのである」(キルケゴール) お互いに芽生えた強迫観念ともなり得る恋愛という外部の力、にも関わらず自意識とも言える内なる感情。それを追っていくことで、ラストまで一直線に流れていく。ストーリーに一本筋の通った純粋な恋愛映画。胸にストンと落ちる。こう言って語弊がなければ、これは反世界、反共感の人間性、君と私が現代に生きる可能性を描いた作品なのです。ちなみに増村保造の『妻は告白する』との類似性も話題となっているが、ラストのタン・ウェイと若尾文子の選択に対する感情が決定的に違う。そこがまた面白いかも。 [映画館(字幕)] 9点(2025-01-14 23:08:37) |
6. PLAN 75
《ネタバレ》 主人公ミチは映画の中盤辺りでプランに申し込むのだけど、その理由、経緯、彼女の心の声は一切言葉として説明されない。これは主人公に限らず、主要な登場人物たちも同様で、誰も語らず、叫んだり、大きな声を上げない。皆が日常を過ごし、そこに現れる違和を噛みしめながら、ラストシーンに至る。 この映画は、社会問題を扱った作品だけど、そういう意味で映画的文学性が高い。問題が社会に広く伝わるというよりも個人の心に深く刺さる。倍賞千恵子の佇まい、その声も感動的です。 このような主題は日本だからこそ切実となる。少子高齢化、同調圧力、希望格差、そこから来るある種の諦め。遠ざかるアカルイミライ。この映画がカンヌで評価された背景には、現代版『楢山節考』という捉え方があったからだと言われる。 カンヌ最優秀作の今村昌平『楢山節考』。私は深沢七郞の原作小説が好きなので土着性に寄り過ぎている今村版映画はそれほど評価していないのだが、何れにしろ現代(近未来)の日本が舞台の『PLAN75』と『楢山節考』は決定的に違う。姥捨という社会のルール、その合理に対する個人の行動、ラストが違う。そこにこそ、社会と個人の関係性における、この作品の現代的な意味と価値があると私は思う。 ちなみに『遠野物語』の中で姥捨て山「デンデラ野」は、老人たちが村落共同体から離れて集団生活する場所として紹介されている。今で言う老人ホームみたいなもの、介護人はいないけど、そこを拠点に老人たちが衣食住を共有し、働けるものは働きにも出ながら、家族から離れて集団生活していた。棄老や姥捨は、口減らしのために、老人を山中などに捨てたという習俗として、日本各地に伝説として残っているが、『遠野物語』の「デンデラ野」のようなケースもあったのではないか。江戸時代の町人が書いた日記に「病気になった者や世の中で不要になった人間を捨てるな」との町触れが幕府から全国的に出たという記事がある。村落共同体から離れて、そういう棄てられた人々が集う場所が実際にあったということは想像に難くない。 棄老と共に、江戸時代の農村では、間引きも普通に行われていたという。赤ん坊は初宮参りという通過儀礼を済ませる事によって産褥が終了し、人間社会の一員になるという一般認識があった。「七歳までは神のうち」という言葉があるように、人間には「正式な人間」と死と繋がっているという意味での神仏の領域があり、その区分は地域によって違いがあった。生の領域と死の領域が人間の一生の内にもあり、死の領域は霊的な世界として神仏に繋がる。生の向こう側の死を生きて家を守る。さらに生まれ変わるという輪廻の考え方もあっただろう。それが祖霊信仰であり、日本人の昔からの宗教でもあったといえる。 そう考えると、生と死の境界がはっきり分かれた人生、生を生きる人間という概念は近代以降に確立したものであることが分かる。母性や父性、風景なども同じ。そこに近代文学の起源もある。 今、私達は近代からのヒューマニズムを当たり前のこととして、それを大前提として社会を構築している。それは素晴らしいこと。しかし、昔から当たり前であったわけではない。だからこそ、歴史を知ることで、生を生きる人間を第一とする今の社会の在り方を捨ててはいけないと思える。 [映画館(邦画)] 8点(2025-01-14 23:05:06)(良:1票) |
7. アバター:ウェイ・オブ・ウォーター
《ネタバレ》 『アバター』は森、海、砂漠、山、極地と舞台を変えて続くらしい。『ウェイ・オブ・ウォーター』が期待以上に面白かったので、このサーガとても楽しみ。 『アバター』は既にストーリーテリングではなく、ストーリーの背後にある世界観の構築にこそ唯一無二性があると思う。世界観とは、スターウォーズやガンダム・シリーズに代表されるような、仮想世界としての独自の歴史や地理の詳細までが構築されるメタ的な世界のことを言う。そのプロットの意味性にこそ、世界観の本質がある。文化人類学的、反西洋主義、反人間主義的な思想において、『アバター』の世界観はエンタメの枠を超えて特筆すべきものであろう。元々『エイリアン』と対となる作品として『アバター』は製作されている。つまり、エイリアン側から見た人間による侵略の歴史。『駅馬車』の対となる『ダンス・ウィズ・ウルブズ』。イーストウッドで言えば『父親たちの星条旗』の対となる『硫黄島からの手紙』。 従来の人間主義/反人間主義という対の考え方から、ナヴィの家族を中心にした旧約的なサーガに世界観が移行しようとしている。森を出たアダムは家族を得て、生きるために罪を犯す。家族は一族となり、海から砂漠へ。原罪を抱えつつ、先の見えない世界、目的のない世界を見据えて、物語は駆動する。人間/反人間を一体何処に向かわせようとするのか? それは「精神」に向かうのか?その崩壊、歴史の終わり、最後の人間へと向かうのか? それとも、、、。新しい旧約としての大きな物語。そういえば、手塚治虫の『火の鳥』にもそういう話があった。こういう大きな物語は結局のところ巡りめぐるものか。 [3D(字幕)] 9点(2025-01-14 22:56:06) |
8. 博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか
《ネタバレ》 博士はストーリーに全く関係せず、原作にも登場しない。映画に居なくてもよい人物と思われるが、題名になっているくらいなのでそうとも言えない。キューブリックはほぼ同じプロットで同時期に制作されていた『未知への飛行』をかなり意識し訴訟まで起こしている。現実的にこのルメット作品との差別化が『博士〜』に大きな影響を与えていると考えられる。ホラー要素を排除し、徹底してブラックユーモア化する過程でピーター・セラーズの「博士」が現れたのだろう。新たな多重人格みたいなもので。 いずれにしろ原作に忠実でない所、キャラクター造形にこそ、この映画の独特な面白味がある。大統領、タカ派の将軍、ソ連大使、超反共准将、英軍大佐、「博士」、カウボーイの少佐パイロットなど、デフォルメされた人間劇の妙。それこそ、この作品がキューブリックの最高傑作と言われるまでになった理由だと思う。 水爆に跨った少佐もセラーズが演じる予定だったと言う。それも観たかった。 [インターネット(字幕)] 9点(2025-01-14 22:11:45) |
9. 陪審員2番
《ネタバレ》 ある事件の陪審員となったことで、偶発的とはいえ、自ら罪を犯していたことを知る主人公。事件の被告人は無実である。彼は事件の陪審員として自らの犯した罪を被る被告人に対峙する。彼の罪を知る者、知らぬ者。最終的に知る者。 「真実が正義とは限らない」 アメリカ、そして、アメリカ映画はこれまで「真実が正義とは限らない」という前提の中で、真実よりも正義を優先してきたように思う。特に法廷を描く映画『評決』などは正にそうだろう。そもそも真実はそれを捉える人間によって見方が変わるため、人々が集団生活の中で因って立つのは物事の真実ではなく、正義という観念になる。映画は、そういった「真実の不確かさ」をこれまでよく描いてきた。『羅生門』『怪物』然り。『真実の行方』然り。 映画のストーリーだけ見れば、イーストウッドは最後に「正義よりも真実を優先させた」と言いたくなる。検察官は全ての調和をかなぐり捨ててでも、ただ公正に真実をテイクする決断をしたと。でも、本当にそうだろうか? ここでイーストウッドが示したかったものは「正義よりも真実」などという次元の違うあやふやなものではなく、やはりストレートに正義の意義、イーストウッドの考える正義の位置付けだったのではないだろうか? 「正義とは何か?善とは何か?」 18世紀のイギリスの法哲学者ベンサムは、最も多くの人々に最大の幸福をもたらす行為を善と見做した。いわゆる「最大多数の最大幸福」である。正義とは社会の公約数的な善、社会福祉として計量されるものだと考えられた。主人公(役名:Justin=Justice)が自らの罪を正当化する論拠、検察官が真実を知りながらそれをやり過ごそうとした時の正義とは、この「最大多数の最大幸福」であることが分かる。 20世紀のアメリカの政治哲学者ロールズは、ベンサムの正義に対して、「各個人は正義に基づく不可侵性を持ち、社会全体の福祉といえどもこれを侵すことはできない」と反論した。ある人々が自由を失い、他の人々がそれにより大きな善を受け取るならば、その自由の喪失は正当化されない。ここでの正義とは、個人の地位や過去に依らない、それらの属性に無知であることを前提にして、その上で理想的な公正社会を構築するものとして在るべきだと。いわゆる「無知のヴェール」である。正義は、全ての人々に平等にあり、社会全体の福祉に優先する。且つ、社会はそういった個人の正義に因って立つものだという考え方になる。 検察官(役名:Faith)が最後に決断の拠り所とした正義とは、この「平等公正な個人の正義=信念」である。正義論に関するこの辺りの映画的な意図はわりと明らかなものだと言えるだろう。しかし、クリント・イーストウッドの映画に込めた思いはさらにその先にあると私は感じる。善と悪、善人と悪人。この映画でも善人と悪人は、陪審員と被告人という立場で対比的にとても明確に描かれている。「善人だから、悪人だから」と劇中で何度も語られる。ここでの善人、悪人は、親鸞の「悪人正機」を基に定義できる。最後にそれが反芻されるように映画として仕組まれているのではないか。『硫黄島からの手紙』のイーストウッド監督ならば、その映画的意図はあながち間違っていないのではないか。 悪人 衆生は、末法に生きる凡夫であり、仏の視点によれば「善悪」の判断すらできない、根源的な「悪人」であると捉える。阿弥陀仏の大悲に照らされた時、すなわち真実に目覚させられた時に、自らが何ものにも救われようがない「悪人」であると気付かされる。その時に初めて気付かされる「悪人」である。 善人 「善人」を、自らを「善人」であると思う者と定義する。「善人」は、善行を完遂できない身である事に気付くことのできていない「悪人」であるとする。また善行を積もうとする行為(自力作善)は、「すべての衆生を無条件に救済する」とされる「阿弥陀仏の本願力」を疑う心であると捉える。 因果 凡夫は、「因」がもたらされ、「縁」によっては、思わぬ「果」を生む。つまり、善と思い行った事(因)が、縁によっては、善をもたらす事(善果)もあれば、悪をもたらす事(悪果)もある。どのような「果」を生むか、解らないのも「悪人」である。 出典: ウィキペディア『悪人正機』 正義と善悪。そのエッセンスがこの映画には詰まっている。『陪審員2号』は、アメリカ的な正義論に留まらず、善悪の本質にまで思い至らせる真の意味で道徳的な映画だと私は思う。クリント・イーストウッドが94歳にして、何故『陪審員2番』という作品を撮ったのか? その深い洞察を感じざるを得ない。 [インターネット(字幕)] 9点(2025-01-14 22:08:10) |
10. ストーカー(1979)
《ネタバレ》 誰もが等しく理解できる共有化された視覚イメージでは描かれていない。その冒険譚は、暗喩と象徴でのみ表現された大文字の作者の心象風景として具現化される。ゾーンの部屋。そこにあるのは世界の目的であり、黙示録であり、人類の救済である。それは究極の秘密として分散的に共有されることで人々の希望となる。それを導く者。ストーカーの存在意義である。 もちろん、今、私たちの世界でそのような秘密や希望がリアルに存在していると信じる者は少ない。この物語は原始宗教を模した寓話であり、神話である。しかし、それは大きな物語ではなく、私の中の可能性としての物語。ゾーンの部屋に辿り着いた作家はそれを「無意識の望みだ」と言った。自らの腐った本性と対峙し「絶望して死ぬなら、自分の家で飲んだくれる方がマシだ」と。なんと小さな物語。 奇跡は起こらない。象徴的表現は単なる象徴で終わる。ゾーンとストーカーの存在意義も失われ、徒労感だけが残る。ストーカーは「もう誰も連れていけない」と嘯く。信じること、その可能性の残渣が娘に引き継がれるところで物語は終わる。というか、引き継ぐものとしてこの小さな物語はある。 最後のストーカーの妻のモノローグが全てとも思える。「苦しみのない人生はむなしい。苦しみのない所に幸せもない。希望でさえも、、、」 [DVD(字幕)] 9点(2025-01-14 22:04:26) |
11. サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)
《ネタバレ》 ニーナ・シモン、マヘリア・ジャクソン、ザ・ステイプル・シンガーズ、グラディス・ナイト&ザ・ピップス、B.B.キング、フィフス・ディメンション、スライ&ザ・ファミリー・ストーン、そして、若き日のスティーヴィー・ワンダー。この面子が出演するというだけで、映画『サマー・オブ・ソウル』を観ないわけにはいかなかった。 上映時間2時間では各々の演奏時間が限られる。予想はしていたけど、作品のドキュメンタリー色もあり、インタビューも多く挟まるので、そっちに時間を取られて演奏はカットされまくる。楽しみにしていたライブをフルコーラスで楽しむことはできない。残念だけど、ドキュメンタリー映画として、それは仕方ないこと。何十年もお蔵入りされていたサマー・オブ・ソウル=ハーレム・カルチュラル・フェスティバルの映像、それがそうならざるを得なかった経緯と共に世に送り出すことがこの作品の意義でもあるのだから。 キング牧師やマルコムXを失った当時のアメリカ黒人社会。1969年、ニューヨーク、ハーレムの黒人たちを30万人以上集めた黒人による黒人のための音楽フェスティバルが如何に革命的であったか?それを白人社会がどのように扱ったのか?ウッドストックに比べて全く知名度がない、歴史に埋もれたその祭典の経緯を明確にしたい演出の意図はよく理解できる。 確かに仕方ないこと。私はこの映画のサントラを買って、彼らのライブを純粋に堪能することにした。私の中でこのライブのクライマックスは、マヘリア・ジャクソンとメイヴィス・ステイプルズの共演になる。こんな貴重なデュエット、迫力あるシャウトの競演、その映像を観られただけで、この作品の価値は十分である。私は、これまでステイプル・シンガーズをラスト・ワルツでしか知らなかった。とんでもないこと。勿体ないこと。こんなに素晴らしいシンガーズのアルバムをまともに聴いてこなかったとは。それを認識しただけで、私にとって、この作品の価値は十二分にある。 しかし、サマー・オブ・ソウルの本当の価値、世界に向けたその意義は、映画の後半からラストを飾るスライ&ザ・ファミリー・ストーンとニーナ・シモンのステージにある。彼らは音楽家を超えたアジテーターであり、30万人の黒人たちを一体化させた彼らのステージこそがドキュメンタリーなのだから、これは明らかだろう。映画は特に、ニーナ・シモンの登場からのアジテーション、彼女の叫びと動きと聴衆とのやり取り、その音楽を克明に捉える。1969年当時、ハーレムのマウント・モリス・パークに押し込められ、世界に伝わることがなかった黒人たちの熱狂を見事に映す。50年間、忘れ去られたシーン、映像に焼き付けられたが、陽の目を観ることがなかったそれらのシーンが、その価値と意義と共に今よみがえる。 1970年、ニーナ・シモンは全てを捨ててアメリカを去り、リベリアで音楽と無縁の暮らしを送ることになる。音楽家であり、活動家としての彼女が最も輝いた人生の瞬間と喪失の未来。この映画は、ニーナ・シモンのドキュメンタリーでもあったのだと今更ながら思う。 コロナ禍の合間、日比谷シャンテで映画を観てから3年が経ち、もう一度、このドキュメンタリーを改めて観たいと思う。ニーナ・シモンの立ち姿を観たいと思う。ステージに立つ彼女から私たち人間の可能性、そして、それを信じた彼女の勇気を感じたい。そう思った。 [映画館(字幕)] 8点(2024-10-22 00:15:36) |
12. 影の車
《ネタバレ》 1970年の清張映画『影の車』の舞台は、都心から神奈川、多摩丘陵を跨ぐ田園都市線の藤が丘駅から東急バスで幹線道路を少し下った地域。バス停沿いに造成された住宅街から外れた丘の上の雑木林の中に建つ一軒家(殆んど山の中?)。60年代に有り得べき、多少デフォルメされた郊外の光景がまず興味深かった。庄野順三『夕べの雲』の自宅も多摩丘陵の丘の上の一軒家だったなぁと。 田園都市線は、大山街道沿いではあるが、基本的に多摩丘陵を横断した新しい路線で、小田急線や中央線に比べてアップダウンが激しく、それを均しながら敷設されているのが特徴。溝の口から長津田が1966年開通なので、基本的に沿線は新興住宅街。東急によって団地と分譲住宅が駅から徐々に広がるように開発されていったが、とにかく坂が多い。映画を観ると当時の開発前の風景がよく分かる。藤が丘駅前のロータリーとか、ロケ地だった長津田、つくし野の方の田舎具合、土壌剥き出しの場所をひたすら延びる幹線道路(246号線?)と突如現れるコンクリート製の団地群のアンバランスさ等。そういう場面カット(特に空撮)だけでも興味が尽きない。 私は90年代に藤が丘駅前に1年ほど住んだことがあるが、当時は市が尾から港北インターまでは本当に何にもなく、田舎道をよく車で飛ばしていた。今はもう雑木林や畑もなくなって、切れ目なく住宅街地域が繋がった典型的な郊外の風景となっている。田園都市線も青葉台とか、たまプラーザは安定した高級住宅街となったが、人々が住んできた地域の歴史という観点からは比較的新しい街故に昔ながらの商店街や古い民家などはあまり見られない。昔は、大山街道や鎌倉街道沿い以外は丘陵地帯で人が住んでいなかった場所が多く、地図で寺社の分布などを見るとその辺りがよく分かる。地図好き、歴史好き、ブラタモリ好きには堪らない記録映画とも言える。 映画は、善悪を超えた純粋な殺意、その存在の狂気を恋愛というノンモラルな舞台の中に描いた殆ど唯一無二のミステリーといえる。これは大傑作です。 真面目なサラリーマン加藤剛と美しい未亡人岩下志麻が道ならぬ恋に落ちる不倫ものというだけでも普通に観られる。そこに加藤剛の妻として小川真由美が絡む、その三角関係のキャストでもう野村芳太郎作品の傑作でしょう。 しかし、本題はここから、岩下志麻の息子が加藤剛に善悪を超えた純粋な殺意を抱くのが、加藤の妄想なのか、現実なのか、そこに愛人岩下志麻の妖艶で純粋な恋愛的な存在が絡み、また加藤が幼少期に母の浮気を目撃するという苦い記憶が自身の妄想に重なり、彼の精神は徐々に崩壊していく。同時に、加藤、岩下、息子の関係も彼ら各々の純粋さ故に悲劇に向かうことになる。この奇妙なミステリーは、斬新、深淵、戦慄で、且つ面白かった。純粋さが善悪を超える存在であることをリアルに示した『影の車』は、ホラーな文学的作品であると共に、エンタメ、社会派ミステリー映画としても充実している。 [インターネット(邦画)] 9点(2024-10-05 21:19:15) |
13. ノーカントリー
《ネタバレ》 不条理は国が老年期だから蔓延る訳ではない。昔から文学の世界では、常に不条理に苛まれる個人こそが主題として描かれている。 この世の不条理。「この世の中の不幸、幼い子供が虐待によって何の罪もなく死んでいくという現実。それでも神を信じるのか?」という命題は『カラマーゾフの兄弟』のイワンの語りとして現れる。それは、人々にとって突然、何の脈絡もなく訪れる不幸、死という受難として、『ノーカントリー』("No Country for Old Men")の主題にもなっている。 ハビエル・バルデムは純粋な悪、絶対的な不条理そのものとして描かれる。実体として可視化された純粋悪。現実において、それは自然災害や交通事故、テロルとして否応なく現れる可能性として在りえる。純粋悪は、普段の私たちの生活や世の中から不可視なものであり、彼はその仮想的存在として設定されている。実体化した純粋悪は、私という凡庸な悪を簡単に駆逐する。それは私たちを恐怖に陥れると同時に私自身の存在を根底から揺さぶるものとして在る。 純粋な悪、不条理的な存在は、ホラー映画の常套であり、別に珍しいものではないが、この映画のハビエル・バルデムは、ジェイソンやフレディとは違うリアリティある恐怖として認識されることで、私たちはこの作品により一層の戦慄を覚えるのである。悪に内側から支配される可能性、その諦念の残渣として。 [インターネット(字幕)] 9点(2024-10-05 21:17:52) |
14. ソウルの春
《ネタバレ》 韓国の現代史を描く超大作。1979年12.12粛軍クーデターの詳細を描ききっており、とにかく引き込まれた。ファン・ジョンミンとチョン・ウソンの電話や拡声器でのやり取りは演出も有るだろうが、殆どクーデターの駆動と抑制がこの2人に掛かっていたように進むドラマはフィクションとしても見応えがあった。 キム・ソンス監督『アシュラ』と同じく、ファン・ジョンミン vs チョン・ウソンが物語の軸となるが、今回は舞台が国家レベルとなる。ファン・ジョンミンが粛軍クーデターの首謀者、全斗煥(役名はチョン・ドゥグァン)、チョン・ウソンが反クーデター側の中心人物となる張泰玩(役名はイ・テシン)。そして、パク・ヘジュンが盧泰愚(役名はノ・テゴン)、イ・ソンミンがクーデターで逮捕される参謀総長鄭昇和(役名はチョン・サンホ)。イ・ソンミンは『KCIA 南山の部長たち』で朴正煕を演じていて、今度はその影を引きずりつつ、朴正煕暗殺共謀で逮捕される役となる。イ・ソンミン、政治家や実業家の超大物をやらせたら右に出る者なしというところか。 ファン・ジョンミン、とにかく私の好きな役者。『新しき世界』『工作』『ベテラン』『ただ悪より救いたまえ』、そして『ナルコの神』。ファン・ジョンミンは悪も正義も違和感なく演じられる。 チョン・ウソンといえば、『アシュラ』『ザ・キング』『鋼鉄の雨』。カッコ良くて、すごく痺れる役者です。2枚目なだけじゃない、声がすごくいい。今回の正義感役も声に迫力があって、ばっちりと嵌っている。 『息もできない』のチョン・マンシク、『夫婦の世界』のパク・ヘジュン。その他、韓国ドラマ・オールスターズの面々。『サバイバー』のソウル市長アン・ネサン、『ムービング』の怪力お父さんキム・ソンギュン、『梨泰院クラス』の秘書室長ホン・ソジュン、『サム、マイウェイ』のおでん屋台コーチのキム・ソンオ、『相続者たち』の財閥会長お父さんチョン・ドンファン、『W』の漫画家お父さんキム・ウィソン、『知ってるワイフ』の融資課チーム長パク・ウォンサン、『再婚ゲーム』の元カレのパク・フン、『秘密の森』の龍山警察署署長チェ・ビョンモ、同じく『秘密の森』のドンジェことイ・ジュニョク、『SKYキャッスル』の元神経外科長ユ・ソンジュ、『二十五、二十一』のペク・イジン叔父さんパク・ジョンピョ、そして、チョン・へイン。揃いも揃ったり、それも曲者ぞろいの名バイプレーヤーたち。韓国ドラマ好きには堪らない。それぞれにいい味を出している。 映画について。私達はプロットとなる粛軍クーデターの顛末、事件の結末を知っている。知っていても、最後の最後まで画面から目が離せなかった。行くも退くも自らを犠牲にする覚悟を決めた軍人チョン・ウソンの決意と涙に心を打たれた。自然と涙が溢れた。その後の彼(モデルとなった張泰玩)自身と家族の不幸を思うと本当にやるせない。つらい。 作品の描き方から、ファン・ジョンミンが悪、チョン・ウソンが善。今の視点ではどちらが正義か分りやすい作りとなっているが、当時、中堅層の軍人たちはクーデターの中で、どちらの側に付くか、1日の攻防の中で揺れに揺れたはず。結局は、政治における軍部の立ち位置や民主化の在り方という点ではなく、ハナか、非ハナか、派閥の勢力争い、出世争い、保身、韓国社会の人間関係の力学によって、勝敗は決したと言える。勝った方が正義であり、負けたらゼロに落ちる。どちらが強いか? 強さを化身した存在、ファン・ジョンミンのセリフにもあったが、そのアピールこそが粛軍クーデター成功のカギだった。 その後、新軍部の戒厳令下で軍が民間人を大量虐殺した光州事件があり、1980年9月、全斗煥は韓国大統領まで上り詰める。全斗煥政権下では、多くの民主活動家や学生の拷問、不審死が1987年の民主化宣言まで続く。しかし、政権は盧泰愚に引き継がれ、粛軍クーデター組織による政権支配が終わるのは盧泰愚失脚後の1993年になる。韓国初の文民政府である金泳三政権により組織が解体され軍から排除されるまで待たなければならなかった。彼らの韓国支配、強権政治は実質10年以上続いた。近年の韓国映画によって、私達はそれらの事実を漸くと知ることになる。 2017年、朴正煕の娘、朴槿恵が失脚して、堰を切ったように『タクシー運転手』や『1987、ある闘いの真実』が公開された。韓国現代史、軍事政権による様々な事件、その黒い霧は、映画によって明らかにされ、人々に共有されて、歴史地図がパズルのピースのように繋げられていると感じる。『ソウルの春』もこの流れ、韓国の民主化の不可逆的な流れの中に確実に位置付けられる。そう考えれば、この映画の大ヒットも韓国にとって歴史的必然だったのだろう。 [映画館(字幕)] 10点(2024-09-16 23:57:21)(良:2票) |
15. ラストマイル
《ネタバレ》 連続爆破テロを巡るストーリー。近年こういうプロットの場合には愉快犯との頭脳戦、ハッキング合戦だったりして、動機などどうでもよい犯罪ドラマ、エンタメ映画の類型となっているように思う。 本作品『ラストマイル』はどうか? 犯人の影が見え始める中盤より、そこには連続爆破テロを実行する切実な理由があるように展開していく。では、テロルとは何か? 「埴谷雄高によって「暗殺の美学」と名づけられた「自らの死は暗殺を行う叛逆者達の行動の正当性の端的な証明である。殺した者は殺されねばならぬ。もし殺されずに生きてさえいれば、彼は殺人者になる」という思想になって結晶化した」 笠井潔『テロルの現象学』より 犯人の動機は正しく自らの命を掛けた殺戮、テロルの論理そのものであったが、それは結局達成されることなく終わる。主人公達の活躍によりギリギリのところで防がれたからである。実際には重傷者も出ているので、いくつかの爆破事件はあったが、大量殺戮は運良く防がれたと言ってもいい。その運の良さにより、従前にテロルだったものが、いつの間にかそうでないものに変わったような錯覚を生んでいる。実はテロリストは最初からいなかったかのような錯覚、ファンタジーである。そもそもテロルとは、現代社会のひずみが生み出したものである。北と南、資本家と労働者、搾取する側とされる側。その明確な違いから必然的に生じるひずみ。その変革の意志が絶望から生じることでテロルになるのであって、それが「精神を病んでバーン」という短絡的な表現に落ちるのには違和感を覚えた。 ラストマイルを担うドライバーの過酷な労働環境や巨大物流センター(大企業)の無責任体質等、物流業界の問題に焦点を当てているが、結局のところ、「精神を病んでバーン」とならないように、根詰めずに生きましょう、助け合いましょう、悪いの経営者、お上、システムだと。「そこに在るべき悪」を仮想敵に短絡するが、いつの間にか標的を見失ってしまう。実はどこまで行ってもそれは同じ人間、凡庸な悪で、それ故に私たち自身も、集団において自ら悪人であることに無自覚となる。私には何かモヤモヤとした結末だった。犯罪ドラマ、エンタメとしては面白かったが、それ以上のことを作品から汲み取ろうとすると、ファンタジーさ故に肩透かしをくらったような気分になる。ファンタジーではないエンタメから少しでも離れたドラマならば、人間の仄暗い部分、さまざまな欲望への視線、原罪、愚かさ、悪を探していたら善なのではなく、悪から善を生む物語があってもいいのではないかと感じてしまう。但し、この作品が共感頼みの現代的な人間の薄さ、能天気さを描いていると思えば、納得もしてしまうのだが。 [映画館(邦画)] 7点(2024-09-05 22:28:15) |
16. 君たちはどう生きるか(2023)
『君たちはどう生きるか』は、「宮崎駿が高畑勲に掛けられた呪いから自らを開放する物語」と確かに読める。そうであれば、彼は少なくとも、呪縛が解かれた自分としてもう1作品作りたくなるのではないか。 呪いとは何かは、二人の間のことなので正確には分からない。しかし、高畑勲が『火垂るの墓』『平成狸合戦』の人であれば、彼は教養の人であると共に哲学的意味において「精神」とその獲得の為の闘争の人だったのだろうと感じる。それは「どう生きるか」において呪縛となるであろう。 [映画館(邦画)] 8点(2024-09-05 22:27:18) |
17. 映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ
石橋静河。人間的な魅力溢れるヒロインが印象的な映画だった。悩んでいて、ささくれだっているけど、どこか清々しい。愛すべきキャラクターでした。 彼女の魅力はその身体性。バレエ仕込の所作と言っていいかな。動きの強弱とか。タタッーと踊りながら近づき、パッと抱きついて、耳元でボソッと呟き、ニカッと笑う。これは『東京ラブストーリー』のリカ役の時だったけど、とても印象に残った。私は好きな女優です。 [インターネット(邦画)] 8点(2024-09-05 22:25:42) |
18. 福田村事件
《ネタバレ》 『福田村事件』は、利根川流域の村人達が9人の日本人同胞を朝鮮人と見做して虐殺した事件。殺された人の中には2歳、4歳、6歳の3人の子供達と2人の女性(内1人は妊婦)がいた。何十人もの村人が竹槍や鳶口、日本刀で子供達を切り刻んだ上に川に投げ捨て、その現場を多くの者が目撃した。犯人は捕まったが、直ぐに恩赦で全員釈放され、その後村人は口を閉ざした。 千葉県野田の普段は農家や工場で働く人々。善良な村人達が何の躊躇もなく、3人の子供達を虐殺できたのは何故か?彼らが無知だったからか?当時、避難してきた多くの朝鮮人を凶暴化した群衆から匿った日本人の警察署長もいた。彼は正しい情報を得ていた為、デマに踊らされることはなかった。限られた情報の中で、危機に瀕した人々の集団は容易にヒステリー状態に陥り、時に凶暴化する。あなた(私)がその集団にいたとして、どのように振る舞えるか?そういう想像力が試される。 現代社会は情報に溢れているように見えて、島宇宙化した領域では情報が偏り、いつの間にか限定されてしまうこともある。気が付けば集団の中で加害者側にいる自分。その可能性を想像し、集団心理にのみ込まれないよう(ノリに流されないよう)、常に個であり、俯瞰的であり、逆張りでいる自分を手放さないようにしたいと思う。 森達也の映画も良かったが、その原案に位置づけられる辻野弥生のルポも読み応えがあった。 [映画館(邦画)] 8点(2024-09-05 22:24:27) |
19. サラリーマン一心太助
《ネタバレ》 中村錦之助の一心太助シリーズ現代編。一心太助から二十三代目の魚屋兼サラリーマン石井太助を演じるのは錦之助ではなく、弟の中村賀津雄。賀津雄は前作『家光と彦左と一心太助』で徳川忠長を演じ、錦之助の太助/徳川家光と共演していて、これがなかなか良かったのだが、今作ではサラリーマン太助だけではなく、ご先祖様として現れる本家の一心太助も演じている。一心太助は中村錦之助の役と姿も声もそっくりで、ほとんど見分けがつかないのだが、そこはかとない小物感、そっくりさん感があって、そこに拭いがたいB級性が漂う。 大久保彦左衛門の子孫、大久保彦造を演じるのは前作『家光と彦左と一心太助』に続いて進藤栄太郎。ここも月形龍之介でないところがB級的。徳川家光の子孫、徳川の末裔かどうか分からないけど、葵食品三代目社長を演じるのは、なんと渥美清。一心太助の伴侶たる、お仲、中原ひとみが渥美清の奥方役。サラリーマン太助のマドンナは三田佳子。この辺りの入れ替え感も本家との違いを強調するのだけど、結局、この作品の位置付けを一心太助のパロディと考えれば上記の入れ替え感、B級感はとてもしっくりくるのである。実にいい感じで。 本家の一心太助と言えば、とにかくコミカルで、ズッコケが過ぎているけど、それでいて精悍で、威勢のよい啖呵がもの凄く格好いい。一方で、サラリーマン石井太助はズッコケだけで精悍さが全くない。お得意の正義感や厚い人情、仲間思いの行動力も決意も全くない。最後の最後までダメ人間で、ご先祖に憑依されて何とか持ちこたえる始末。これまでの一心太助の勧善懲悪ストーリーとは違うのでその点は期待外れかもしれないけど、そもそも江戸初期と戦後高度成長期の時代性、人間性の違い、このストーリーに込めた風刺や警鐘の表現として、その規格違い、期待外れ感は、意図された入れ替え感と併せて必然とすら感じて、私は逆に現代版の一心太助にかなり好感を持っている。実際、観ていて妙に感心し、そして大いに笑った。若き三代目葵社長の渥美清の存在感、彼特有の喜劇口調が最初から最後まで素晴らしく、そこに曲者の田中春夫や千秋実が絡んでくるのだから堪らない。そのやり取りを観ているだけですごく楽しい。 一心太助恒例のエキストラ総出のお祭り騒ぎや盛大な立ち回りは、ここでも健在。都心?の道路を封鎖して、多数の車やトラック、大人数の大衆が入り乱れる。葵食品による誤情報によって大損害を与えられた人々、大勢の激高した大衆に追いかけられ、もみくちゃにされる太助と葵社長。ここは画面に迫力があって、圧巻のシーン。結局、太助は、機械、コンピュータの誤情報に振り回され、社会を混乱させ、大衆に吊し上げられて、逮捕までされてしまうのだけど、それも最後には突然なかったことになる。夢か幻かって訳ではないが、それらの失敗も単なる教訓として捉えられ、水爆システムの故障による誤爆でなくて良かったなどと演説されて、会社として、個人として、再出発して普通に終わる。そのあっけなさ、能天気さはあまりにも手のひら返しすぎで唐突すぎるけど、実は大戦前後の日本の大衆そのもの(主体性の無さ、お上意識、故の唐突な転向)を風刺しているようにも感じた。実は、その唐突さを本当に善きこととして見ていない、本来あるべき自主的でボトムアップなルールの訂正と更新を未来に託し、現代の主体性の無さを物語として風刺していると観れば、全く笑顔のない太助のラストカットの意味も納得するのである。 この映画で騒動の中心となる電子計算機は、今で言う「人工知能による(ビッグ)データのアルゴリズム解析」のことだろう。そこを少し読みかえれば、SFコメディとしてもそれなりに楽しめる、かな。 [インターネット(邦画)] 8点(2024-07-14 00:47:41) |
20. 一心太助 男一匹道中記
《ネタバレ》 シリーズ最終作『一心太助 男一匹道中記』。これまでの江戸を舞台にした一心太助シリーズとは一線を画するロードムービーであり、途中、太助が親分となる任侠ものかと思えば、最後は『1900年』ばりの民衆蜂起を見せつける。60年安保の影響もあり、最後の大立ち回りも錦之助の体技やチャンバラではなく、一揆を先導するアジテーター太助に置き換わっている。いろいろな趣向があって、評価が分かれるかもしれないが、私は好き。なんだかんだ言って、やっぱり錦之助の太助に尽きる。太助が画面に現れれば、威勢の良い啖呵が魅力の太助にちげぇねぇ。喧嘩が強くて、人情味あふれる、表情豊かな太助は、やっぱり錦之助だなと。 途中でジュリー藤尾と田中邦衛が現れた時には、これは若大将シリーズの影響もありか?とも思ったが、さすがにそれはなかった。日本橋から東海道を下り、保土ヶ谷まで。舞台は横浜か。ロードムービーならではのロケーションも楽しめた。あの島々は何処だったのかな。 [インターネット(邦画)] 7点(2024-07-14 00:47:36) |